井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』、及び生命科学と量子物理学

この方は最近フォローした宗教学者の方です。たまたま今、井筒の『コスモスとアンチコスモス』という私がわりと最近こちらで言及した本について多くつぶやかれているので、それについて書きます。

『コスモスと…』は昨年岩波文庫で出たのでその後に読みましたが、それ以外の井筒氏の著作はもっと前に読んでいます。『大乗起信論の哲学』とかイスラム教関係とか、すべて過去に文庫化されたものです。プロティノスの『エネアデス』は中公クラシックス版で、竜樹の中論は中村元の『竜樹』は講談社学術文庫版で、Amazonで注文したのは2006年となっています。それ以外の仏典等については中公の古い「世界の名著」シリーズや岩波文庫を参照しています。

井筒はイスラム教への関心から読み始めたのですが、そちらよりも東洋哲学についての記述のほうが私にとっては興味深く、『コスモスと…』もやはり華厳や道元についての部分のほうがイスラム関連の部分よりもエキサイティングでした。

この本の元になった講演は1970年代とかに行われたものなので、井筒氏は今現在の生命科学や量子物理学についての知見は持っていなかったことになりますが、私が今これを読んでむしろ斬新に思えるのは、ここで語られていることを「生命科学的、量子物理学的視点」で読んだ場合にむしろその科学的妥当性が浮かび上がってくるからです。そしてこれは「井筒氏本人の思想」よりも「井筒氏が読んだ華厳哲学の科学的興味深さ」といえる。

この点についてはこれまでもこのnoteで繰り返し書いてきたことですが、私が唯識や空の思想といった主に大乗仏教系の思想に強い興味と関心を持つことになったのは生命科学や量子物理学の進展が見られて以降に、それらの理論や学説と照らし合わせることによってです。
たとえば竜樹の「空」は「相互依存性」のことである、というのはほぼ定説と言っていいのですが、それについて私は、


このように、どちらかというと批判的に言及しています。
ただ、「批判的に言及」といっても、それまでの中世的な天動説がニュートンの万有引力によって「乗り越え」られ、それがさらにアインシュタインの相対性理論によって「乗り越え」られた、といった意味ですので、新しい科学理論によって「乗り越えられた」といっても万有引力や相対性理論が「間違いである」と「否定」するものではありません。

また、「五蘊」と呼ばれる「感覚器官からの入力」については「生命科学」で説明が可能になりました。これについては進化論や、最近では「環世界」というワードで説明したりもしています。
こちらは「量子物理学以前の物理学」で説明可能な現象、ということになり、したがって「五蘊皆空」というのは科学的に「アリ」です。

私が竜樹の「空」を相対性理論どまりであると批判し、華厳の哲学を量子物理学的であるとする根拠は、アインシュタイン自身が予言的に批判した量子の不思議な振舞い、つまりエンタングルメント状態にある量子AとBが時空を超えて同時に振舞う「非局所相関」と呼ばれる物理現象にあります。
この現象については相対性理論では説明がつかず、非局所相関現象そのものの実在は実験によって確認されているものの、これを説明するための理論化は世界中でまだ誰も成功していません。
ですがこの非局所相関と呼ばれる物理現象を解くカギが華厳哲学および仏教の「無我」の思想にあるのではないかと私は考えていて、それ故に井筒が前世紀に語ったこの本の内容に興味を惹かれました。
つまり、量子は「無我=無記名、無分節」であるからこそ「非局所相関」が成立するのではないか、という「科学的な勘」みたいなものが大いに刺激されるがゆえに井筒の『コスモスと…』はたいへん興味深いのです。
これは華厳でいうところの「多即一」の「一」が量子の「無我=無記名、無分節」状態を意味しているのではないか、そしてそれはプロティノスにおける「一者」やスピノザの「永遠の相」の思想とも響き合っているのではないか…というような科学的「勘」です。

このように、私の『コスモスと…』読解は「量子物理学」的アプローチによる華厳思想の読みほぐしになりますので、その部分を語らずに何かを浮かび上がらせることは不可能なんですが、冒頭の連ツイにはそれらの用語や概念がまったく出てこないので、申し訳ありませんが隔靴掻痒感が半端ないです。
唯識における「阿頼耶識」についても同様で、先に述べたとおり生物学の「進化論」や「環世界」概念を用いずにそれらを分析することは現代科学の進展を考慮すればもはや不可能であり、かつ無意味であると考えています。
なので、大乗仏教が哲学でないとか科学的でないとかは「読み手」の側が使うツールによるため、最先端の科学ツールを使わなければ当然ながら科学的な読解にはならないんじゃないかと私は思います。

【ちょっと追記で】

密教の「密」は秘密という意味ですが、これは「言ってはいけない、ナイショの」ということではなくて「言語化できない」という意味での「秘密」です。
そして「言語化できない」とは「五蘊によって認識できない」や井筒の「分節以前」でもあり、ヴィトゲンシュタインいうところの「語りえぬもの」でもあります。
「語りえぬもの」だからといって必ずしも沈黙せねばならないわけではなく、密教ではしばしば「象徴(シンボル)」で代用させるという手法が用いられています。

ところで、相対性理論の登場によってようやく科学は竜樹の「空」に追いつくことができたわけですが、多即一や無我の科学的説明にはまだ至っていません。なぜなら量子物理学が理論的に未解明のままだからです。
はてさていつになったら追いつけるのでしょうか。追いついた時にいったい世界はどうなるのでしょうか。
今から楽しみではありますが、それまで人類が存続しているかはわかりません。

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