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瞑想と人類進化の可能性

・a + bi
a + bi、実部と虚部、二つ合わせて複素数。
両者は表裏一体の関係であって、「どこかべつのところ」に存在しているわけではない。
また実部「だけ」が実在し、虚部は「存在しない」わけでもない。
虚部もある。実部と表裏一体化して。
ところがこれが「現実(物理現象)世界」と「霊的世界」となると、神仏や天国や極楽浄土は「どこか遠いところ」にいたりあったり…と仮定されがちである。
だが実際には「霊的世界」は「物質世界」と表裏一体となって、今、ここ、あなた自身がそれら複素数によって構成されている。虚部「だけ」でもなければ実部「だけ」でもない。量子力学的に見ても。

ただ、このことが人間に認識できないのは「人間の物質的進化段階がまだその程度でしかない」からだ。
たとえばヒトの嗅覚は犬の嗅覚よりはるかに劣るし、イルカやコウモリのように超音波を使ってモノを認識することもできないし、昆虫のように赤外線が見えたりもしないように。

・瑜伽行唯識学派
この「認識」の問題については、仏教哲学において大乗の「瑜伽行唯識学派」が精緻な分析を行っている。

それによれば、イルカやコウモリが超音波を「認識」し昆虫が赤外線を「見る」のも、人間が五蘊と呼ばれる各種感覚器官からの入力に基づいて様々な「識」を生じさせるのも、すべて同じメカニズムで起きており、人間に「虚部」や「無意識領域」を認識できないことも、昆虫のように赤外線を、イルカのように超音波を、犬のように嗅覚を認識できないことも、各分野における「生物進化の発達段階の違い」にすぎず、いずれにしてもそれら感覚器官からの入力によっては「複素数世界の全体像」を把握することができない、なぜならそれは単なる夢幻に過ぎないから…といわれている。
犬もイルカもコウモリも昆虫も、そして人間も、すべて生物である以上は物質世界の物理法則の中でその生物としての制約を受けざるをえないのである。

…このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。
このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。これは西洋思想でいう唯心論とは微妙に異なる。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯)。
(Wikipedia『唯識』より)

ところで「瑜伽行唯識学派」の瑜伽とは今でいう「ヨーガ」のことである。

昔、大乗の仏教修行者が熱心にヨーガ(瞑想)修行をしているうちに、なぜか「虚数(霊的)世界」を認識できるようになってしまった。
それは人間にはそのような認識能力を持つに至る生物進化における「可能性」が備わっている…ということでもある。

そのようにして優れた素質を持つ仏教修行者たちは「唯識」「空」「多即一、一即多(これが今も使われる「いっしょくた」の語源)」「重々無尽」などの現代物理学を凌駕する優れた「発見」をし、それら知の蓄積が今に伝えられている。

とりわけ華厳経にみられる「多即一、一即多」「重々無尽」「インドラ網のたとえ」といった概念はまさしく量子力学における「非局所性」を描写しており、そこには今現在の知見を超える理論が提示されている。
ここにさらに唯識の、『この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)』が加われば、量子力学における「観測問題」さえも解決できるヒントがあるのではないかと私は考えている。
なぜなら、「観測(認識)」とはどこまで行っても実部世界に属する物理現象でしかありえず、観測によっては「虚部世界」を認識することはできないが、瞑想によって開いたわずかな隙間からなら「虚部世界」を垣間見ることもどうやら可能であるらしいからだ。

「量子」の振る舞いは「虚数」領域なくしては説明しえないが、古い東洋の「瞑想」という修行方法によってなぜかその領域まで認識しうるに至った人々が少数ながらおり、ならば人間の「生物としての進化可能性」のうちにはそのような高次の認識能力を獲得しうることも含まれていることになる。

今のところ人間には赤外線も超音波も認識できないし、嗅覚は犬に、視覚は鷹に劣るが、量子力学的認識すなわち「虚数世界を認識できる能力」を「可能性」として秘めており、永遠に進化の途上にあるこの物理世界において人類がさらなる進化を遂げ続けるのだとしたら、いずれはそのような能力を開花させることになるのではないか…と私はいささか楽観的に考えている。

【補記】
以下はバタンジャリ作(とされる)『ヨーガスートラ』のスートラ4に付されたNicholas Suttonの解説である。

Sūtra 4 then tells us more about the alternative state of existence for the draṣṭṛ, a false condition in which it loses contact with its true identity, and instead assumes the condition imposed upon it by the vṛtti, the fluctuations of the mind. Essentially what Patañjali is saying here is that the identity we conceive for ourselves is not a true identity, it is simply a reflection of our state of mind. If the vṛttis can be curtailed, then the false material identities they impose upon the soul will cease to exist, and the soul will return to its natural state beyond the miseries of this existence. This then establishes what Yoga is about, what it consists of, and what it is designed to achieve.

"The Yoga Sutras of Patanjali: The Oxford Centre for Hindu Studies Guide (English Edition)"(Nicholas Sutton 著)

「あなたが自分だと思っているものは本当の自分ではない。それは意識(心)が認識対象に触れて立てたさざ波にすぎない。そのさざ波が収まった時に本当のあなたが見えてくる。」

これはインド哲学のヨーガ解説書であって仏教書ではない。
しかしここで語られている「identity=自我、自意識」に対する考え方は大乗仏教に属する瑜伽行唯識学派のものときわめて似通っている。
歴史的に見れば、過去に両者の間では盛んに論争や交流を行われていたのであろうことがうかがえる。

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