見出し画像

密教、空海(1)

この話↓の続きです。ただしタイトルから「月」が外れてかわりに「空海」が入ります。

まあこれはここのところずっと追いかけている課題ではあるんですが、それは↑にこのように↓書いたとおりです。

唯識、華厳経ときたらあとは密教を残すのみなんだけど、私はどうもあのおどろおどろしい密教(チベット密教含む)が苦手でして、圧倒的に壮大なスケールの「華厳経派」なんですわ。
密教は一番最後に登場しただけあって時間空間ともにあまりにも開祖釈迦の教義とはかけ離れてしまっているだけに「もはや仏教とは呼べないかもしれない」ぐらいのことは思ってるんですよ内心。

日本に密教を請来した「空海さん(いわゆる弘法大師ね)」も苦手で、けど私が関心のある教養人の方々に空海フリークがやたらと多いので気にはなってたんだよね。ただ、「すごい人」であるのはわかるけどその「良さ」がわからない、みたいな。
でも私が尊敬する井筒俊彦が最後の最後でそれまで言っていたことを全部ひっくり返して空海の「初めに言葉ありき」に振り戻しちゃってたり。具体的にいうとこれは岩波文庫『意味の深みへ』の「七、意味文節論と空海」あたりのことで、これには解説を書いた斎藤慶典さんもいささか解釈に戸惑っておられるように思った(解説の「二、井筒東洋哲学の批判的検討に向けて」参照)。
で、それと同じ「戸惑い」が私にもずーっと残り続けてるんだわ。
つまり「( ,,`・ω・´)ンンン?『初めに言葉ありき』って、それホンマかいな???」ってことなんだけど。

というわけで、「なんで私は密教や空海が苦手なのか」についてつらつらと考えてみたあれこれをこれから披瀝させていただくことになりますが、その前に昨今のニュースを受けて、当初考えていた構成では一番最後におまけとして付するつもりだった「空海にまつわるあるウワサ」から始めることにしました。
そのウワサとはズバリ「空海は密教とともに当時唐で流行っていた男色(衆道)文化を日本に持ち込んだ」というものです。まあこんな感じ↓です。

これ↑にも書いてありますけど、おそらくそれ以前から日本にも男色行為はありました。
とりあえずwikiの「男色」「衆道」も貼っておきます。

ちなみに古代日本では男色は「いけないこと」とされていましたが空海が唐から持ち込み、僧や貴族階級で流行し、戦国時代の武家社会ではもはや「武士のたしなみ」としてあの武将もこの人も…

ついでに幕末から明治期に江戸に衆道を流行らせたのが「せごどん」の薩摩藩だったといわれています↓。

話がすっかり逸れてしまいましたが、初回に持ってきた理由となった最新のニュースというのがこれ↓と、

チベット密教のダライラマ法王のこれ↓。

もちろんカトリック教会におけるこういった話題はかなり前からありました。昔は都市伝説や陰謀論扱いでしたが、今では公式に認めて謝罪しています。

ああここでやっと本題に戻ります。
「密教は一番最後に登場しただけあって時間空間ともにあまりにも開祖釈迦の教義とはかけ離れてしまっている」と書きましたが、どこが一番かけ離れているかというとそれはズバリ「生殖行為に対する考え方」なんですね。
仏教の開祖であるお釈迦様は生殖行為を含む生産活動を一切禁止しており、それが教義の肝でもありました。
しかし「一番最後に登場してきた密教」は仏教と言いながらもその内容は「性力(シャクティ)」や「欲望」を積極的に肯定し利用するインド古来のタントリズム↓そのものでした。

この結果、女人禁制の高野山では男色が裏文化として成立しており、そのお作法について事細かに記したガイドブックまで作成されていたのでした。

ここでひとつお断りしておきますが、私は決して男色が悪だとかダメだとか言っているわけではないです。
これはあらゆる性差別にいえることですが、そこには常に「される側」と「する側」の力や富や権威の差が存在していて、たとえばこれまで女性の「枕営業」は大っぴらに非難と軽蔑の対象されてきましたがジャニタレのそれはほとんど問題視されてきませんでしたよね。
私はここでそこに潜む「性差別と性暴力」ひいては「生物学的にみた生殖とヒトに関わる問題」を指摘しているまでのことですので誤解なきよう。
つまりこれは、「密教のように性力(シャクティ)を肯定するのか、仏教の開祖お釈迦様のように生殖も含めた生産活動そのものを否定するのか」という「仏教教義の根本にかかわる問題」で、ここが正反対である以上、もはや密教は仏教とはいえないのではないかと私は思うのです。

で、それ以前に「お釈迦様の『生殖行為を含む生産活動の禁止』はそもそも生物学的、進化論的に正しいといえるのかどうか」という大問題が控えています。
このことについては以前「Universe25実験」関連で何度か書きました。見れなくなっている動画が多いですけど、この実験自体は本当にあったものであり、学術的にもしばしば引用・研究されています。

私は先に、『これはあらゆる性差別にいえることですが、そこには常に「される側」と「する側」の力や富や権威の差が存在している』と書きました。
そしてこのような「権力構造」が存在する以上、これは精神的安定と集団の平和を維持するために行われるボノボ型の疑似性行為とも違い、また橘玲氏の『もっと言ってはいけない』↓に書かれているような「ゲイ遺伝子説」とも趣を異にしています。

「Universe25実験」で見られたのは、もっと別の「生命現象が持つ諸行無常性みたいな本質」でした。
ぶっちゃけこれは「密教的男色」がUniverse25実験におけるオスネズミの異常行動に似ており、「お釈迦様の生殖および生産活動の禁止と欲望の否定」もまたUniverse25実験に登場してきたビューティフルマウス的なものであって、それは共に「絶滅へと向かう生物の集団的無意識の発動」ではないか…つまり人類はすでにUniverse25実験における絶滅へのフェイズに突入してしまっているのではないか…という私自身の焦燥感に直結しています。

今回のお話は、この密教と空海にまつわる一連の考察の最後でオマケ程度に書くつもりでしたが、諸般の事情からいきなりしょっぱなから濃厚な内容となってしまいました。
次回は「阿頼耶識」という「生命現象そのもの」と、それを支える「生命原理」と密教教義の関わり、および南方熊楠やユクスキュルの「環世界」といった内容で書いていく予定にしています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?