「遺伝子生き残り戦略」とけったいな風習

↑この記事の中でこんなこと↓を書きました。

『如懿伝』(2018)↓、これは私のニガテとする「清朝」の「後宮もの」なんですが、清朝が嫌いなのは辮髪がキモイからで、後宮ものが嫌いなのはその手のドラマを見ていると「スーパー種牛である皇帝とその仔を生む牝牛としての女性たち」の物語としか思えないからです。これは「江戸時代の大奥もの」でも同じで、やっぱりヘアスタイル(月代)がキモいのと殿様が種牛にしか見えないので嫌いですw

そんな中国の奇習のひとつに「纏足」↓があります。

纏足の風習は千年前ぐらいから始まり、1950年頃まで続きました。
女児が幼い頃から足変形のための処置が始まり、それは強い苦痛を伴うものでしたが主に「嫁の貰い手がなくなる」という理由で母親によって強制されました↓。

足の骨を折っていくのですから痛みはすさまじく、子供は泣き叫びます。子供の足を纏足にしていく役目は母親や乳母など女たちが担いましたが、彼女たちは心を鬼にして縛り続け、反抗する娘には容赦なく折檻をしたと言われます。
(「纏足【中国文化】」より引用)

この「母親による強制」という点では「女子割礼(FGM)」↓とも共通していますが、その背後にはもちろん「父権主義社会で男たちに飼われる家畜としての価値を高めるため」という悲しい理由があります。

娘を愛しているはずの母親が、今から言えば虐待としか思えない行動をしたのはなぜなのか?しかもこの習俗が700年も続いたのはなぜなのか、現代の時点から、そして外国人の目から見る時理解に苦しむとしか言えないのですが、もちろんそこには当時の社会からすれば一定の合理性があったわけです。
まず最初は上流社会の習慣にすぎなかったこの風俗はやがて徐々に中流階層に、そして纏足が廃れ始める19世紀には下層階級にまで普及していきます。また最初は漢民族の風習だったものが、やがて少数民族にまで広がっていくのです。
その理由の最大のものは「結婚」でした。小さな足を持たない娘は人々から嘲笑され軽蔑され、まともな婚家先が見つかりませんでした。

…当初この小さな足にする習慣は上流階層の女性だけに見られ、従って纏足は一般の人々の憧れでもありました。
さらには纏足をした女性は忍耐強く倫理観も強い理想的な家庭婦人と見られました。子供のしつけに気を配る家庭でよくしつけられ、幼女時代からの足の痛みも乗り越えてきたからです。お嫁さんをもらうならこうした娘さんがよい、実家もちゃんとしているだろうからと人々は思い、やがてこれは牢固とした社会的慣習になっていったのです。

社会的な慣習になれば、生まれたままの大きな足で生きる娘は怪物のように見られるようになっていきました。まず優雅さに欠け、我慢強さに欠け、道徳意識に欠けていると思われたのです。
生まれながらの足で町を歩けば人に嘲笑され、小さな子供までが「大きな足の女などは嫁にはしない」とバカにしたと言います。

(「纏足【中国文化】」より引用)

その真っ只中にいるから気が付かないものの、これと同じようなことは現代でも行われています。
それが「ハイヒール」だったり「化粧(もしくは整形手術)」だったり髪型や服装などの「流行りのファッション」だったりするわけで、そんな「流行のファッション」がいかに素早く陳腐化していくか(近現代における流行り廃りのスピードアップはファッション業界の金儲け戦略でもある)、その正体さえ見破ることができればそれに踊らされることもなくなります。

その方法の一つが「ルッキズム」批判↓ですが…

でもルッキズムの問題は「見た目の良さと遺伝子生き残り確率との相関関係」という進化論的問題を解決できないとどうにもならない部分があると思いますけどね。
そして「見た目の良さと遺伝子生き残り確率との相関関係」という進化論的問題である点では「纏足」も「女子割礼(FGM)」も同じで、今となってはグロテスクに思えるこれらの風習も当時においては「男受けする見た目に身体改造する」といういわば現在の「美容整形」と同じようなものであり、このような「男受けする→遺伝子生き残りのチャンスが増える」という戦略を選択してきた(あるいはそうせざるをえなかった)のも、ヒト科のメスの動物的本能がなせるわざだったのでした。
だから清朝の後宮ドラマとかを見ていると、私には

「スーパー種牛である皇帝とその仔を生む牝牛としての女性たち」の物語

としか思えないんですが、これは男版ともいうべき『軍師同盟』でも同じで、「史書に名を残す」「家の存続」「階級や序列」「すべてを支配し統治したい願望」「ライバルの抹殺」なんかはヒト科オスの動物的本能特性であり、まさしく「スーパー種牛」と呼ぶにふさわしいw

ちなみにですが、おそらく今後「食肉」は遺伝子工学で3Dプリンターみたいなので作ったり細胞一個から増殖させて作ったりするようになるので、スーパー種牛と多くの牝牛を広い畜舎で飼う必要も種付けの必要もなくなりそうですw

こんなふうにもはや「遺伝子の生き残り」という動物的本能に踊らされて生きる必要はなくなりつつありますが、その残滓を相変わらず色濃く残したまま新しい時代を迎えようとしているのがヒト科ヒト、つまり現生人類です。

遺伝子生き残り戦略としての生殖とそれに伴うディスプレイ行為もまた「ユースレス」になる時代はもうすでに始まっているものの、多くの人がまだそのことに気づいていませんw

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