華厳経とフラクタル・ホログラムと複雑系のお話

昨日の続きで、本日はこの二つについて考えてみます。

インドラ網とフラクタルとホログラム

まず、鏡灯の比喩とは華厳経に記されたインドラ網の例えのことで、華厳経における「重重無尽」を象徴的に表現したものです。
で、これは複雑系におけるバタフライ効果というよりも、むしろホログラムやフラクタルのようなものと考えた方が科学的には理解しやすい。
ホログラムはどこかの部分を切り取っても同じ像が現れるし、フラクタルも無限に「とてもよく似ているけど少し違う」形が出現します。イメージとしては曼陀羅図にとてもよく似ています。
フラクタル図形は海岸線や雲や機の枝など自然界においても特徴的に出現しますが、これは数学的に解明されています。フラクタルは「整数でない次元」に出現します。

ホログラムも重重無尽のインドラ網の例えとしてよく使われますが、ホログラフィック技術は膨大な情報量を持つ波としての光を別の光と干渉させて媒体に記録するものです。
これまたきわめて科学的なテクノロジーですが、「そもそも大量の情報を持つ光の波としての性質を利用して別の光と干渉させることによって媒体に記録」というのはインドラ網のイメージと極めて近いものがあります。

このようにフラクタルにせよホログラムにせよ、数学的に解明され実用化されているテクノロジーでもあります。

井筒のいう「有用・無用」は縁起との関りでとらえればわかりやすいんですが、縁起とは「原因と結果の法則」という単純な物理法則であって、「この原因があったからこの結果が生まれた」という史実みたいなものにすぎません。史実だって十分複雑ではありますが。
これがちょっと量子物理学と関係してきて、物理学の原子モデルでいう「確率の雲」ですね。原子は古いモデルみたいな太陽系のように原子核のまわりを電子がまわっているのではなくて、確率の雲として分布しているという、これまた理論的に正しさの証明された波動関数という数式であらわされる理論です。
↓こんな感じで言及していました。

『物理的な「認識」より先の確率の雲の世界は「認識」しえない。なのでどこまで行っても追いつけない。』
↑これは量子力学が相対性理論までの物理学では解明できないことを意味しています。つまり、「認識」は物理現象なので認識を超えた量子力学的振舞いはこれまでの物理理論では説明できない(し、実際にまだ理論的に解明されていない)ことを言っています。
上で「確率の雲」という語を太字にしていますが、この量子力学的な「確率の雲」の「濃度差」こそが「有用・無用の違い」を生み出しており、それは「縁起」という「原因と結果の法則」に伴う確率変動として物理現象界に現れてきます。
それをわれわれは「雲のようなもの(及びその濃度差)」としてしかとらえられないので、人間の認識ではシュレディンガーの猫は生きているか死んでいるかがわからないことになります。
↓これはそのことを言っているものです。
『眼で見たり、耳で聞いたりする「認識」は通常の物理現象であるから「光速より大幅に遅れてやってくる」のに対して、量子の振る舞いは「光速を無視して同時」。なので「認識」しようがないことになる。』

複雑系とカオス理論

次は「一塵起こって全世界が動く」とバタフライ効果についてです。
バタフライ効果というのは複雑系のカオス理論を一般向けにわかりやすく表現したものですが、映画『ジュラシックパーク』にも出てきました。懐かしいですね。
かといって忘れ去られた古い理論というわけでもなくて、コンピュータの処理能力の飛躍的な向上に伴って各方面でばんばん実用化されてますよ、たとえば気象予測とか。

この複雑系が「カオスの辺縁」と「創発」というちょっと面白いことを言っていて、wikiから引用しますと↓

『複雑性の理論における創発性は、それが属する領域が、決定論的な秩序と確率論的な乱雑さとの中間にあるということを示すものになっている。このことを指して「カオスの辺縁」('edge of chaos') ということがある。』

↑となっていて、「決定論的な秩序と確率論的な乱雑さとの中間」←ここにも「確率」というコトバが出てきているんですが、秩序とカオスの中間つまり「カオスの辺縁」で「創発」というたいへん面白い現象が起きてくる。
またまたwikiから引用しますと↓

理論生物学においては、スチュアート・カウフマンによる、生命の発生と進化には自然淘汰の他に自己組織化が必要であり、進化の結果、生命は「カオスの縁」で存在するという仮説がよく知られる。

↑とここでまた生命科学が顔を出してくる。

じつはこの話題、井筒の『コスモスと…』の表題と同じタイトルの章でみっちりと語られているわけで、私もこの章は「生命現象と複雑系とカオスの辺縁」をテーマとして読み解きました。

生物学の分野においてもやはりテクノロジーの進展に伴って生命進化の過程をコンピュータシミュレーションで行えるようになったため、実際に起きる生物進化や変異を長い年月かけて待たなくてもよくなりました。これには遺伝子解読も大きな役割を果たしています。

…というわけで、これまたレトリックでもなければニューエイジも関係なくてまったくのサイエンスです。
ですが、それをニューエイジ側がどのように利用したかはニューエイジ側の責任であって、華厳経のせいでもなければ複雑系科学のせいでもありません
↑これは大事なことなのであらためて強調しておきますが、サイエンス・テクノロジーは単なる事実の発見と応用であってそれ自体が善でも悪でもありません。
たとえば「核分裂」という科学的真理を用いて原水爆という殺戮兵器を作ったのが「人間」であるのなら、善悪は核分裂という科学的事実にあるのではなく人間の意思の側にあります

イノセントなままではいられない

以上、昨日今日と二回にわたって、私がフォローさせていただいているある宗教学者さんのツイをもとにあれこれと話をさせていただきましたが、こ方は非常に学識深い学者さんですし、尊敬もしています。
ただ、この一連のツイを読んでいてある危惧を感じたんですね。
それはある宗教団体が四半世紀ほど前に起こした数々のとんでもない事件にまで遡ります。
あの時大勢の理系の秀才たちが某教団に入信したのですが、それら理系の俊英たちは理系分野には秀でていたけれども、宗教や哲学や思想に関してはあまりにもイノセントでした。
一方でその教団の思想面を補強してしまったのが島田某や中沢某といった社会・思想・哲学系の学者たちで、彼らは逆にサイエンス・テクノロジーに対して同じようにイノセントだったのです。
あの一連の出来事から四半世紀も過ぎようとしている今になっても、このツイで語られているようなサイエンス・テクノロジーはやはりイノセントすぎるように思われます。
「羹に懲りてあえ物を吹く」ではないですが、あの事件以来学者たちは反動的にサイエンス・テクノロジーの側に偏りすぎ、しかし今なおサイエンス・テクノロジーに対してイノセントであるために、今度は当時とは逆の「科学真理教」とでもいうべきカルトにはまり込んでいるように思えてならないのです。これは引用させていただいた宗教学者さんに限ったことではなくてあちこちで散見される傾向です。
サイエンス・テクノロジーに関する知見が貧弱だと、それを用いて宗教・思想・哲学を分析しようとしても所詮それは「まともに切れないナマクラ包丁」でしかありません。これと類似の「ナマクラ包丁的言説」は世に満ち満ちていて、正直うんざりさせられっぱなしのまま、いよいよ人類は終焉を迎えそうな予感がしています。

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