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『だから仏教は面白い!前・後編』魚川祐司著

ゴータマ・ブッダは、解脱・涅槃という究極の目的を達成しようとする弟子たちには、労働と生殖を放棄して、「異性とは目も合わせないニートになれ!」と求めている
『だから仏教は面白い!前編』魚川祐司

魚川さん、またの名をニー仏さんのことは、311後のTwitterでよくお見かけしたし、一時はフォローしていたこともあったかもしれない。
だが、どこかの時点で興味を失ってフォローをやめていたのだろう。
おそらく私の過去のツイートには上記引用とまったく同趣旨のつぶやきがかなりの量つぶやかれていたはずだし、海外避難の方法として瞑想寺院での瞑想生活を勧めたり、あるいは私自身がヴィパッサナー瞑想のコースに参加したりミャンマーを旅したりもした。
だが、当時最大の関心事はそれではなかった、ということ。

今回この本をアンリミテッドで読んで驚いたのは、これほどまでにニー仏さんと私の関心領域が重なっていたのかということだった。

労働(production)と生殖(reproduction)、即ちプロダクションとリプロダクションは、ゴータマ・ブッダの仏教にしたがって解脱しようとするのであれば、基本的に放棄すべきものとされている。

仏教におけるその後の歴史的展開ではなく、人間ゴータマ・シッダールタ自身が説いた教えとしての「仏教」というものを知ろうとしたら、どうしたってこの問題(上記引用)に行き当らざるをえないはずだ。
すなわち「お釈迦様は明確に、人としてあらまほしき姿としての労働と生殖を真っ向から否定していた」という事実である。
こんな当然の問題を、イマドキの日本の仏教関係者は決して正面切って語ろうとはしてこなかった。魚川さん(ついでに私も)を除いては。

このことに対する魚川さんの「答え」については本を読んでいただくとして、少し違った角度からみた私の「答え」について語ってみようと思う。

私は、おそらくお釈迦様の「さとり」体験というのは「臨死体験」と呼ばれるものととよく似たものだったのではないかと考えている。あるいは「至高体験」でも「ゾーン」でも、呼び方は多々あるが。
もちろんそれらの「体験」には様々なバリエーションがあって、それこそ「ひとりひとり異なっている」のだが、そこに共通点を見出すことも可能である。
曰くそこでは、
・時間と空間を超越している。
・圧倒的な「愛」の感覚があって、その前では現世のすべてが色あせてしまう。
・「私」「自分」という概念の消滅。
などを体験するらしい。
そしてこれを体験してしまえば「現世における」いわゆるプロダクションもリプロダクションも「どーでもよくなってしまう」わけで、逆にいうと「これを体験しない限りは」プロダクションもリプロダクションもまず絶対に「捨てられない」(笑)。
この体験を今一度言葉を変えていえば「虚数世界を垣間見る体験」ともいい得るわけで、そういうのを「見たこともない」「見えるわけもない」と思い込んでいる層(圧倒的大多数)には『労働と生殖を放棄して、「異性とは目も合わせないニートになれ!」』というのは「絶対に」届かないので、それでお釈迦様は悟った後にこれを説くことをためらった…というのが魚川さんの「答え」でもあった。

「でも瞑想してるとなんかそういう境地になったりすることもけっこうあるみたいなんだよねー」ということも魚川さんは言っている。
これは大乗と「いわゆる」小乗の教義の違いから、大乗の悟りは劫とか那由他といったSFチックに壮大な時間がかかるため。
これはこれで進化論・宇宙論的に正しいと私は思っているが、魚川さんもいう小乗の悟りは臨死体験並みにもっと「身近」である。
といってもおいそれと臨死体験などできるものではないが。

※冒頭の写真はミャンマーのお坊さん。入れ墨してたり頭だけでなく眉毛も剃っているのでけっこう見た目が恐い(笑)。2014年。

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