『ヴァッチャ火経』における如来と量子の非局所性について

本日は『ヴァッチャ火経』↑の記述を元に量子論的遍在について述べる。

↓まず、wikiからの引用(太字は私)。

釈迦は五蘊(色受想行識)においてそうした事柄に囚われないことが解脱において重要であることを、「火の喩え」と共に説く。火が薪に依存して点いたり消えたりするように、そうした事柄も五蘊(色受想行識)に依存して現れているのであり、その根を押さえることが重要である。

つまりこれは「五蘊=物理的感受作用に囚われてはいけない」ということを述べた経典ということ。

以下はヴァッチャ火経に関する私の連ツイ↓。

「色として捉えると、如来は生まれている。色として捕らえないと、如来は生まれてない。如来は、普遍に広がって、世界に遍在している。」

↑ここでいう「色」とは「物質」とのことで、「物質として考えるならば肉体として生まれているといえるが、量子力学的に考えると生まれているとは言えず、普遍に広がって世界に遍在しているという量子の非局所性について述べられている。

「小さな器で、大海の水を、救い上げた時、大海の水は、果たして、どこにあるだろうか。」
「ゴータマよ、水は、小さな器に閉じています。」
「小さな器を、こなごなに、打ち砕いた時、大海の水は、果たして、どこにあるだろうか。」
「ゴータマよ、水は、大きな海に開いています。」

↑この「小さな器」とは「物質としての肉体」のことで、「大海の水」は量子状態での「存在」を意味している。

↓は「量子の非局所性」の厳密検証に成功したという2015年の記事。
この記事の中に「粒子ではなく波として」というコトバがあるが、粒子を物質、波を量子状態とすれば、器=肉体は粒子、大海の水は波ということもできる。
それが「普遍に広がって、世界に遍在している=量子の非局所性」ということだとすれば、「如来」とは量子状態の存在ことである、という言い換えが可能となる。

【「如来」とは「量子状態の存在」のことである】

以上で「ヴァッチャ火経において如来というコトバで表現されているのは存在の量子状態のことである」という論理が成り立つことは理解できると思うが、一方でこの「如来=量子状態の存在」を量子物理学の知識「なし」に解説したり理解することが不可能であることもおわかりいただけただろうか。
『ヴァッチャ火経』がいつ書かれたものであるかはわからないが、おそらく千年以上前にかかれたこの経典の意味していることが「科学的に」説明されるようになるには現代における量子物理学の進展が必要だったということになる。
このように、仏教哲学で語られていることは、科学とりわけ量子物理学的な知見が伴わなければ「荒唐無稽なただの与太話」でしかなくなってしまう
それゆえ仏教哲学は「最新の科学的知見に基づいて」新たに読み直され、語り直される必要があるのである。

【如来=量子状態の存在=無我】

大事な点を少し付け加えておくと、大海の水が小さな器から解き放たれた「如来=量子状態の存在」とは「無我」を意味し、小さな器に閉じ込められている状態が「我」となる。

このように、「無我」という仏教のキータームでさえ量子物理学的な解釈でなければ「誰にも理解できる科学」としては記述できない。
逆に言えば、一部の選ばれた神秘体験のエリートでしか認識しえない世界を科学のコトバで記述し普遍の法則にまですることが可能になるのは量子物理学においてであり、この分野が現代科学の最先端であるがゆえにそれを常にキャッチアップしていく必要がある。
神秘体験者が神秘体験に逃げ込んでいるのではない。神秘体験を拒絶するものが神秘体験を「向こう側」に囲い込んでいるのだ。まるで異端審問や魔女狩りのように。
神秘体験を「科学のコトバ」で記述するのに最もふさわしいのが量子物理学ならば、今、なぜあえて量子物理学的概念を使わないのか、あるいは使えないのか。むしろそのことのほうがよほど不思議である。

あと一つ、「如来=量子状態の存在」の遍在(=無我)とはつまり「森羅万象すべてが量子状態の遍在であり如来である」ということであり、当然ながらそこからは「本来悟っている=本覚思想」や「迷いながら悟っている=如来蔵思想」といったキータームも生じてくる。
これだって「量子の非局所性」という概念を使わない限り「科学的に」説明することなど不可能だろう。

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