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AIシンギュラリティと末那識

上の記事で、

「この世界は識のみで成り立っている」と考えた瑜伽行唯識学派は1500年ぐらい前からあって、それがなぜかいまAIシンギュラリティとの関連で再びブームになりつつあるらしい

と書いたけど、AIシンギュラリティと唯識との関連については書かなかったのでその説明追加です。

まず↓のインタビュー記事からスタート。

↑より引用)
自己意識の創出に関しては、いろいろな試みが出てきています。たとえば、慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科の前野隆司教授は「受動意識仮説」を立てています(前野教授の著書『脳はなぜ「心」を作ったのか』に詳しい)。「人の意識とは、意思決定を行っているわけではなく、無意識がやったことを後で把握するための装置である」ととらえた仮説です。意識は、無意識的に決定された結果を追認しているだけである、と。
この仮説ができるきっかけになった実験があります。人が身体を動かす時には脳細胞が筋肉に対して「動け」という指示を出します。英語で、脳細胞が働くことを「fire」、つまり発火すると言うのですが、ある実験で、手を上げようとした時に、手を上げるために筋肉を動かす脳細胞と、手を上げようと思った脳細胞とでは、筋肉を動かす脳細胞の方が先に発火していることがわかりました。
つまり、「手を上げよ」と意識が命令して手が動くのではなく、「手を上げるための準備をした」から意識がついてくる。自己意識は行動を追認しているに過ぎないことが明らかになったのです。では「私」という存在は何か。エピソード記憶を蓄積するための主語として受動的に登場したというのが受動意識仮説です。

この「エピソード記憶を蓄積するための主語として受動的に登場した」のが「末那識すなわち自我」ということで、「なんでそれが登場したのかというと遺伝子の生き残りに有利だったから」という説明の仕方をするのが進化心理学です。

宇宙全体のフラクタルな生成現象のもとでフラクタルに生命現象が発生しフラクタルに脳神経系ができてきてそこに「意識」が芽生えたのだけど、ちなみに「意識」というものはその根本におそらく「量子力学的作用」がはたらいているので、どうやら単なる「フラクタル現象」とは異なっていそうです。

そういうのを唯識では↓のように分類しています。

・「感覚器官からの入力と感受」としての「前五識
・「自覚的な意識」という意味での「意識
・「無意識領域にある自己意識」としての「末那識
・末那識がアクセスして感受している「フラクタルな生命現象」としての「阿頼耶識
より引用)
末那識(まなしき、梵: manas)とは、阿頼耶識を所縁(=対象)とする識である。また、眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと。「manas」は玄奘の翻訳によって末那識あるいは第七識として漢字仏教圏に広まった。染汚意(ぜんまい、梵: kliṣṭa-manas クリシュタ・マナス)ともいう。
末那識は常に第八識を縁じて、自我という錯覚を生じる。第六識(意識、mano-vijñāna)と区別する為に、manas マナスのまま音写して末那識という。
我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。

ぶっちゃけ唯識的にいうと「末那識=自我意識は単なる錯覚」ということです。

ここでもう一度上のインタビュー記事から引用しておきます。

従来、AIの研究では、「知能のセンターに存在する自己意識が各部位に対して指示を出してコントロールしている」という発想で「私」をつくろうとしていたのですが、このやり方ではどうもうまくいかない。そこで、今の研究はそれぞれの部位に単機能で勝手なことをやらせて、最後に「私がやった」と追認させるという方向になっています。

AIも唯識方式でうまくいったということですね。

そして「意識」というものが「単なるフラクタル現象としての生命現象とは違う量子力学的働き」である点こそ、ヒトがホモ・デウスに進化する段階で最も重要なところなんですが、それはとーっても長くなるのでまた今度。


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