十牛図。八、九、十
ヘッダーの写真は徳力富吉郎による十牛図の版画。
徳力富吉郎は『赤福』に入っている「伊勢だより」を描いた人でもある。
一枚入れておいた。
それにしても「とくりきとみきちろう」とはまるで早口言葉みたいな名前だ。噛まずに三回言ってみて(笑)。
ああそうだ、十牛図。特に八、九、十図について。
探求の旅も終わりに近づき、第八図では「人牛倶忘」一円相である。
ここで、すべてがすべて、一即多・多即一、汝はそれなりの梵我一如、一者、無我、空、永遠の相、太極の境地を体験する。
円相を体験して、また現実世界に戻ってくるのが第九図。
円相を垣間見る前と後で見る現実世界、娑婆の様子は同じ。何も変わらない。柳は緑、花は紅。
けど、同じなんだけど見る人自身が変化してしまっている。円相をくぐり抜けた後にはぽっかりと穴が開いている。開いた穴はかつて「私=我」があった場所。
円相をくぐり抜けたからといって、超ラッキーになったり超能力が身についたりするわけではない。ただ、それを求める「私=我」がなくなってしまうだけ。
「私=我」が抜けた聖者が再び街に舞い戻ってくるのが第十図である。
もはや聖者には欲も得もない。ただ「あるがまま」である。
そしてただあるがままでいるだけで、関わる者たちにある種の化学変化を起こしていく。悟りへの種子を手渡していく。
自分が今十牛図のどこらへんにいるのだろうかと、時々確認してみたくなる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?