a+biと「色即是空」

複素数を表す式、a+bi
iは虚数単位でありimaginary(想像上の、存在しない、仮想の、架空の)の略。ならば実部にはreal(実在する、現実の)を意味する略号であるrをつけてしかるべきだろう。
したがって正しくはar+biと表記すべきところだが、人々はarをあまりにも当然のものとして疑うことをしないので、あえてわざわざrをつけたりはしない。
だが、rの「real=現実世界」は本当に「実在している」のだろうか…

それを説明している有名な仏典が『般若心経』であり、なかでも、

色不異空 空不異色
色即是空 空即是色

の箇所である。
これはこの経典の肝なので、しつこいくらいに言い換えて繰り返されている。

「色は空と異ならず、空は色と異ならない。
色とはすなわち空であり、空とはすなわち色である。」

riと異ならず、irと異ならない。
rとはすなわちiであり、iとはすなわちrである。
世界の真実の姿とはar+biである。
実部と虚部の複素数世界である。
これが世界の真実の姿である…

般若心経は以下の如く続く。

「受・想・行・識・亦復如是。」
受・想・行・識もまたかくの如し。

受・想・行・識は色と合わせて「五蘊」と呼ばれる。

五蘊(ごうん、巴: pañca-kkhandha[1](パンチャッカンダ)、梵: पञ्च स्कन्ध, pañca-skandha(パンチャ・スカンダ))とは、仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称。物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示す。
人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの。色・受・想・行・識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)の5種である。
Wikipedia「五蘊」より

この中で「」については、

仏教における色(しき)はパーリ語のルーパ( 梵: रूप rūpa)に由来し、(1)一般に言う物質的存在のこと(五蘊の一要素)で、色法と同じ意味、(2)視覚の対象(十二処、十八界の一要素)、を表す言葉。
Wikipedia「色」より

とあるように「視覚で確認しうる物質的存在」を意味し、これをもって物質的存在すなわちarの実数世界を代表させるところから「即是空」となる。

「舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。」

舎利子は釈迦の弟子の名で、般若心経はこの舎利子に語りかける形で説かれている。

「舎利子よ、すべての物質的存在およびそこから生じる反応や認識作用であるarは『空bi(虚部)の相』のもとにあっては何も生じたり滅したりせず、汚れるとかキレイとかいう価値判断もなく、増えたり減ったりもしない。」

この部分は前段の「色即是空、色不異空」を受けて語られている。
「色」すなわち物質世界arと「空」すなわち虚数世界biと表裏一体で分けようがない「がゆえに」、われわれが「増えたり減ったりしている」「生じたり滅したりしている」と「認識・判断」しているさまざまな物理現象も、実は単なる「思い込みや勘違いや錯覚」にすぎない…と述べられている。
つまり「目に見える、認識しうる物理現象に惑わされるな、それにはそもそも実体がないのだから」ということである。

この『空bi(虚部)の相』で見れば、相対性理論を超えた量子力学の不思議な現象の説明がつく。
そして物質世界とは極微において量子そのものなのだからやはり世界は「色即是空、色不異空」なのである。
観測者問題は観測者の「視覚等の感覚や認識=色」によっている。その思い込みすぎない「色」を認識している主体(観測者)もまた「存在する」と思い込んでいる。だから「観測者の観測によって決定される」と勘違いする。
これは人間の認識能力の限界である。人間はまだ「空の相」でもって量子のふるまいを見ることができないのである。

こういったことが東洋では今から千年以上前にすでに解明されていた。
その思想が『般若心経』という短い仏典にエッセンスとしてまとめられ、今に伝えられている。
ようやくそこに西洋の科学が追い付いてきた。
「ご利益のあるありがたいお経」で語られていたのは、このような深遠な哲学、もしくは科学的真理であったのだ。

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