遺伝子と進化論とカルマ

子どもができなかったので不妊治療を続ける中で、ある気づきを得た。
私が治療を受けていたのは1990年代後半のことである。
その気づきは不妊による精神的苦痛と生物学、中でも「進化論」に関する洞察との一致からやってきた。
有名なドーキンスの『利己的な遺伝子』日本語版はすでに1991年に刊行されていた。
「なぜ不妊患者は精神的な苦しみを感じてしまうのか」ということの理由には、「女は子を産んで一人前」という社会的・心理的な要請とそれに応えられないことに対するさまざまな形での制裁の恐れとともに、もっと根源的かつ本能的な「生命の連鎖を断ち切る恐怖」があった。
そしてその「恐怖感」とはまさしくドーキンスが言った「利己的な遺伝子が生命の連鎖を断ち切ることになるであろう私に対してそのような恐怖感を抱かしめている」がゆえに起きていることなのではないか…という気づきだった。

だとしたらそのような「恐怖感」は幻想でしかない。
生命の連鎖を断ち切ることを恐れているのは私ではなく、私の遺伝子プログラムによる。
そしてこのようなことが唯一すっきりと説明されているのが仏教哲学だった。
「自我などない、なぜなら私の身体とは遺伝子の乗り物だから」
「五蘊と呼ばれる感覚器官からの入力およびそれによってもたらされる反応はすべて遺伝子プログラム(阿頼耶識、末那識)の見せる幻影である。」
「欲望とは遺伝子が生き残りのために作動させている生体維持システムである」等々…

私がこれらのことを自らのブログ等に書き始めたのは2005年頃からだったが、2000年代に入ってヒトゲノムの解析が急速に進み、人類進化のみちすじについてより多くのことがわかってきた。
たとえば旧約聖書には、まず神はまるで陶工のように男を土くれから作り、次にその男の肩の骨から女を造った…とあるが、生物学的にはヒトの基本形は性染色体XXの女性であり、その片方のXが基本形である女性を男性化するための機能に特化したためにどんどん劣化していったのがY染色体だといわれている。
そのせいで遺伝子異常によりX染色体が一つしかなくても生きていけるが、Xを欠いたY染色体のみではそもそも産まれることすらできない。
それほどまでにY染色体は進化の過程で矮小化してきてしまっているのである。

ではなぜ数千年ものあいだ『創世記』のウソがまことしやかに信じられてきたのかというと、それこそが「Y染色体を持つ個体たちの遺伝子プログラムによる生命連鎖断絶に対する恐怖心の発動」だったからである。
しかしそれとて「幻想」でしかないことは、上記の科学的知見によってすでに明らかとなっている。

ならば仏教教理で語られてきたことのほうが「科学的に見てより正しかった」と今となってはそう断言できるのではないか。
そのような時代に私たちは生きているのだ。

・進化論とカルマと虚数世界
ところが、ずーっとドーキンス流の利己的な遺伝子説やダーウィン流の進化論に対して「何かが足りない」と思い続けてきた。
それだけでは説明できない「何か」がある…

いささか話は変わって、輪廻転生はインド発祥の思想で仏教にも引き継がれてはいるが、仏教では若干議論の対象となっている。これはイマドキの科学的知見に比重を置くような僧や研究者ほど全否定する傾向がある。

輪廻と転生は分けて考えたほうが混乱しないですむ。
輪廻とは、人は誰でもその心理状態において「餓鬼」になったり「修羅」になったり「畜生」になったり「天人」になったりを目まぐるしく繰り返している…ということであっさり片づけておいてよいと思う。
転生はいささかやっかいだ。
これこそ「虚数解」を持ち出さないと解けない問題だからだ。
人は…というかあらゆる生物は、だが、死ねば虚数世界に属する霊とか魂と呼ばれる部分と物質によって構成された肉体との結合が解かれる。
虚数世界とはそもそも大小や多い少ない、遠い近いなどといった実数世界における比較の概念が通用しない世界である…ということは前回書いた。
たぶんその世界では「多即一、一即多」であるがゆえに「量子エンタングルメント状態での非局所相関」というけったいな現象が「この物質世界においても」観測され、それはこの世界が、認識されない虚部世界と物理法則の支配する実部世界との「複素数世界」だからである…というようなことも説明した。
したがって「転生の主体」は転生先の肉体との「数合わせ」の心配をする必要もなく、「霊的主体」はどんな時にもどんな場所にも出現可能である。
↑たまにこういうことを本気で心配している人がいるので(笑)。

物質世界に属する肉体と、それをuniteしている霊とか魂とか呼ばれる虚部世界に属する「何か」。
この「何か」こそが利己的な遺伝子や進化論に欠けているものだった。
物質世界では遺伝子情報が継承される。それゆえ遺伝性の病も存在する。
それとよく似た感じで、家系ごとのカルマや国や民族性のカルマといったものが代々継承されることがあるのではないか。肌の色の違いが遺伝によるように。

ここでひとつ断っておくが、遺伝情報やカルマに善悪や優劣があるとか、それが人間によって判断できるとかはまったく思っていない。むしろそうできると思うことこそが人類の驕りだと考えている。

「カルマ」という語についても説明が必要だろう。
カルマとは仏教用語では「業」といい、本来の意味は「行為」である。
仏教用語の「業縁起」とは、「行為の結果として次のある現象が起きること」であって、これは物理でいう「作用反作用」みたいなものである。
本来そこにおどろおどろしい意味は含まれていない。
それは道路上で起きる玉突き衝突事故みたいなものだ…というと、多少おどろおどろしい感じにはなる。
遺伝子の継承および進化論もそのような「業縁起」で説明可能だといえる。

このように、お釈迦様は「原因があって、その結果が起きる」というごくあたりまえの物理法則を語っていたにすぎない。
そのうえでさらに「ならば原因をなくせばその結果も起きない」といった。
「悪い結果がいやならば、そうなる原因を絶て」ということである。
やっかいな遺伝子病も、家系に続く不幸なカルマも、いつの間にか身につけた悪習も、その原因を絶てば解消される。
われわれが認識しうるこの物質(実数)世界では。
そしてどうやらそれが霊的(虚数)世界にもよい影響を及ぼすらしい。

したがって「結果がすべて」「結果をだせ」「勝たないと意味がない」などというのはとんでもない考え違いである。
なぜならば一瞬の「結果・勝利」の前には膨大な「原因」があるからだ。
一瞬の「結果・勝利」の後にも膨大な「次の原因」が横たわっていて、それが次なる「結果」をもたらす。
まさに「禍福は糾える縄の如し」であり「人間万事塞翁が馬」である。
ならば、「結果のことなど気にせずにその時々の最善を尽くせ」というべきだろう。

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