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「生物の定義」とフラクタル

まずは「今現在主流となっている生物の定義」から。

↓より引用)
多くの生物学者が認めている生物の定義とは、以下の3つの条件を満たすものである。
(1) 外界と膜で仕切られている。
(2) 代謝(物質やエネルギーの流れ)を行う。
(3) 自分の複製を作る。
↓より引用)
一般的な生物の定義は
(1)自己複製する
(2)細胞で構成されている
(3)代謝を行う

昨今アレの流行で、「ウイルスは生物か否か」という話を聞いたことのある方もいるのではないでしょうか。
この「生物定番の3定義」に従うとウイルスは「自己複製」以外の残りの2つに該当しないため「生物ではない」ことになります。

上の2つの記事でもこの「生物の定義」そのものに若干の疑義を訴えられていて、

もしも、宇宙全体で生物を定義できるものがあるかどうかわからないが、もしあるとすれば、それは「自然選択」だろう。どんな形をしていようが、どんな物質でできていようが、どんな振る舞いをしようが、とにかく自然選択によって作られたものが生物なのではないだろうか。生物は自然選択によって、周囲の環境に適するようになったものだ。つまり、その環境の中で、なかなか消滅しないようになったものだ。つまり、生き続けるようになったものなのだ。
『生物の「3つの定義」を知っていますか?』より
もし将来、地球外の生物が見つかったり、自己複製するロボットが開発されたりすると、生物の定義が書き換わるかもしれない
『ウイルスは生物か非生物か 難しい「生きている」の定義』より

というふうに書かれています。

私は先日、以下のような記事を書きましたが、

これらの中で述べたとおり、「フラクタル」の特徴とは

・図形の部分と全体が自己相似(再帰)になっている
・無限に繰り返されるフラクタル現象とはこの宇宙のあらゆるところで見られる「パターン」である

つまり「自己複製(※1)」にあり、その意味でも「生命現象=フラクタル」という私の主張はさほど間違ったものでもないと思います。
なので「生命現象=自己複製=フラクタル」だとしたら、ロボットも地球外生命体もウイルスも「自己複製」するならそれらを「生物」と呼びうるので、今現在の生物の定義は覆ることになります。
ちなみに「自己複製=フラクタル=阿頼耶識」という式も成り立つので、先日書いた「阿頼耶識=生命現象=フラクタル」もまた成立します。

ところで、フラクタルの自己相似は還元論ではないかと思われがちですが、

↑より引用)
フラクタルは還元論にならないの?
その疑問には、ちゃんと答えてあげないとね。
まず、要素還元的統一は、現状を尺度として、要素に還元すること。
フラクタルは「形態的統一」といえる。底がない、天井もない。基準になる尺度がない。つまり部分に分解してみてもそこにまたそれを構成する要素があらわれて、それを繰り返していくといつの間にか元に戻ったりしてしまう。
マンデルブローは「自然はフラクタル」であると言ったが、この意味は、自然の形成原理は「自己相似性」にあるという意味。つまり簡単な式を繰り返すと複雑さを形成することができる。それもちょっとした複雑さではなくって「無限の複雑さ」を形成できるということ。

というわけで、フラクタルの「無限に続く自己相似」は還元論ではありません。


(※1)「自己複製」と表現するとまるで「自分の意思でコピーを作成する」みたいなニュアンスを帯びてしまうけど、実際はそこに「自己意思」などなくて、

私たちは自然選択によってつくられ、自然選択の仕事は遺伝子の繁栄を最大限に高めることにつきる。自然選択は、真実それ自体に頓着しないばかりか、私たちの長期的な幸せにも頓着しない
自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。ただ私たちが多産であることを「望んで」いるだけ
自然選択が「気にかけて」いること、それは遺伝子をつぎの世代に伝えることだ。過去に遺伝子の伝播に役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は途中で脱落してきた。この試練を生きぬいてきた形質の一つが心的形質、つまり脳内に構築され、私たちの日々の経験を形づくっている構造やアルゴリズムだ。だから、「毎日生活するうえで私たちを導いているのはどんな知覚や思考や感覚か?」ときかれた場合、根本的な答えは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚」ではない。「祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立った知覚や思考や感覚」が正解

(すべて『なぜ今、仏教なのか』ロバート・ライト著より引用)

とあるように、「自然選択がそのように生命体を誘導した結果」にすぎない。
ここでもまた「自己という錯覚」に踊らされているが、そもそも「自然選択」に自我はない、つまり「無我」ということ。


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