仏教における「悟り」とは

禅や東南アジア方面のテーラワーダ仏教でいわれている「悟り」と大乗仏教でいうところの「仏になること」とはまったく別の境地だと考えている。
そして、開祖であるお釈迦様の悟りとは大乗の「仏(如来)になること」よりも禅やテーラワーダにおける「悟り」のほうがより近かった。
かといって「大乗の成仏は間違っている」というつもりはない。それはそれで正しい。
その違いを明らかにするために、まず禅やテーラワーダ仏教における「悟り」について述べてみたい。

『[増補版]手放す生き方【サンガ文庫】』 アーチャン・チャー著
という本が電子書籍化されていて、kindle unlimitedで読める。
これはタイの森林派の僧侶で、阿羅漢にまで達したのではないかといわれてるアーチャン・チャー師の説話を弟子がまとめたもので、その中に師が「悟った」時のくわしい様子も語られており、少し長くなるがその部分を引用する。

電気製品のスイッチを入れるような変化が私の内面に生じ、大音響とともに私の身体は木っ端みじんに砕け散りました。気づきは、限界まで純化されていました。その地点を過ぎると、心の探求はさらに深まっていきました。心の内部には、まったく何も存在しませんでした。触れられるようなものが、何もないのです。しばらく内部でとどまった後、気づきはやがて止まり、私は引き戻されました。それは、自分でしようとして起こったことではありませんでした。私はただ、その状況に気づいている観察者にすぎませんでした。

心の奥に沈潜していくと、以前のように限界点に達しました。この二度目のときは、微細な単位にバラバラになり、心は決して触れられることのない静寂の地点に達しました。そこにとどまりたいと思った時間だけそこにとどまると、私は再び戻り、通常の精神状態に復帰しました。この間、私の意図とは関係なしに、心は自動的に活動していました。私は、何か特別な方法を用いて心の深い部分に没入したり、そこから戻ってくるように試みる必要はなかったのです。そのとき、私はただ自分自身に気づき、観察をするようにしていただけです。

三回目に心に没入したとき、世界全体が粉々に砕け散りました。大地、草木、山々、そして人々。すべては消え去り、単なる空間がそこに残りました。残っているものは、何もありませんでした。

この経験を経てから、私にとって世界はまったく異なったものとなってしまいました。世界に対する自分の知識や理解は、完全に変容してしまいました。

世界が、以前とまったく異なったものとなってしまう

しかし、変化したのは世界ではなく、ただ私のみ

そうでありながら、私は以前と同じ人間でもあった

皆がある方向に考えているとき、私は別なように思考するようになっていました。皆がある方法で話しているとき、私は別なふうに話します。もはや私は、以前と同じように、他の人と付き合うことはありませんでした。

とまあこんな感じの内容なのだが、これを読みながら私は「ここに語られていることは自然農法の福岡正信氏が『わら一本の革命』に書いていたこととそっくりじゃないか」と驚いていた。その部分を以下に引用する。

…そのとき、ちょうどゴイサギが飛んできて、一声するどく鳴きながら飛び去ったんです。バタバタッと羽音を立てて。
その瞬間、自分の中でモヤモヤしていた、あらゆる混迷の霧というようなものが、吹っ飛んでしまったような気がしたんです。私が持ち続けていた思いとか、考えとかが、一瞬のうちに消え失せてしまったったんです。私の確信していた一切のよりどころといいますか、平常の頼みとしていたすべてのものが、一ぺんに吹っ飛んでしまった。
そして私は、そのとき、ただ一つのことがわかったような気がしました。
そのときに、思わず自分の口から出た言葉は「この世には何もないじゃないか」ということだったんです。"ない"ということが、わかったような気がしたんです。
今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何にもないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがわかったような気がしたんです。

自分の今までのものは、一切が虚像であり、まぼろしであったのだ、そして、それを捨て去ってみれば、そこにはもう実体というものが厳然としてあった、ということだったんです。
そのときから、自分の一生というものが、ある意味でいえば、それ以前とは全く変わったものになってしまった、と言えるような気がします。

例えば禅の悟りの例として「庭で掃き掃除をしていて跳ね上げた小石が竹に当たった瞬間に悟った」というのがあり、あるいは「お釈迦様の弟子が寝床に就こうとしたまさにその瞬間に悟った」といった伝説にしても、釈迦本来の「悟り」とは上記引用にもみられるような機序で「突然にやってくるもの」であって、大乗でいわれるような「仏になるまで何億年かかる」というものではなかったらしい。

そしてその「悟りの内容」というのも仏教にいう「空」に非常に近いというか、引用二例にも共通して語られる「"何もない"体験」こそが「悟り」の本体であり、そしてその体験の前と後とでは「世界が全く違って見える」というところもまた共通している。

おそらく、一見無駄にも思われる長期間の修行や生きることの苦悩の果てに、あるいは薬物や臨死体験によって、ある瞬間に内面の奥底にある阿頼耶識にまで到達し、そこに「何もないこと」を確認して通常意識の世界に戻ってきたときには「世界の見え方が一変してしまう」のではないか。

そしてこれが禅やテーラワーダ仏教、および開祖であるお釈迦様その人が言っていたところの「悟り」であり「涅槃寂静」であって、おそらくあらゆる生物が「阿頼耶識」によって生命活動を維持している以上、ヒトに限らず「あらゆる生物が」そのような境地に至る「可能性は持っている」ことになる。

しかしそのような境地に至るまでの進化の過程を考えるならば、それは億年単位の時間を必要とし、したがって大乗仏教における「成仏するまで数十億年」というのもあながちウソだとはいえないのである。

さて、そのように意識の内面奥深くの阿頼耶識にまで到達したときに、ある奇妙な現象が起きる。
それはメビウスの環やクラインの壺のように、確かに内面の最深奥に向かって進んでいってたどり着いたはずなのに、いつの間にかそこは「外部」になっていた…といった現象である。それを唯識では「すべては心である」と表現する。

これが西洋的な唯心論と決定的に異なっている点は、西洋的な唯心論が強固な「"自分(自我)"という重力圏」に捕らわれた自閉的なものであるのに対し、仏教的な悟りでは「最深奥には何もなく」、その「何もない最深奥」をくぐり抜けた先にはふたたびそのまま「すべての外部」があったというところにある。

つまり「何もない」とは「自分(自我)の不在」のことだったのだ。
だからこそ仏教では「無我」がしきりといわれる。

おそらくはこれが仏教でいわれている「悟り」の正体である。
阿羅漢といわれるアーチャン・チャー師もそのように語られているのだから、「悟り」とはそのようなものなのだ。
信じる信じないは、各々ご自分で確かめられよ。

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