虚数に大小はない

虚数に大小はない。
それどころか、実数世界における「多い/少ない」「優れている/劣っている」「善/悪」などの「比較の概念」が、虚数世界においてはまったく通用しない。
おそらく「遠い・近い」距離、「速い・遅い」時間の比較もまったく実数世界とは異なっている。
量子状態においては、物理法則の支配する実数世界から抜け出して虚数世界をくぐり抜けることができるがゆえに、相対性理論と矛盾する「時間も空間も超えた非局所性」を獲得することができるのだ。

だが虚数世界はわれわれが「認識」できる実数(物理)世界から遠く離れた場所に存在しているわけではなく、われわれの身体を含めた森羅万象が虚部と実部の複素数としてそのどちらもの世界に同時存在している。
ただわれわれがそれを「認識」する能力を持たないだけで。
とはいえその認識は「まったく不可能」というわけでもない。

「虚数世界」とは、そのような「大きい小さい、多い少ない、善悪、近い遠い、速い遅い」といった「われわれが認識することのできる(=物理法則の支配する)実数世界」とはまったく異なった法則を持つ。
それゆえ「霊」と呼ばれる存在は時空を超えて量子力学における非局所性とよく似た振る舞いができる。

われわれ生きている人間は霊的な存在が物質的な肉体と結合して成立しているが、死後物質である肉体との結合が解けた霊(もしくは魂)は物理法則に支配されることはなくなるので、時空や物質的な制限をもはや受けない。
だが本来生きている人間にしても物理法則の支配する物質とそれらの通用しない虚部世界を「複素数的に併せ持っている」存在であるため、まれにではあるが時空を超えて未来予知ができたり、霊的な存在が見えたりもするのだ。

そもそもすべての人間は可能性としてそのような能力を本来持っている。
これをいいかえれば「すべての人間は霊的存在でもある」ということだし、人間だけではなく森羅万象のすべてがそうなのだ、量子状態として見れば。これはスピノザの「理神論・汎神論」の立場である。
インド・ヴェーターンタ哲学における「梵我一如」、中国・陰陽二元論における「太極」、華厳経における「多即一」もまたそれと同じことを表現している。

物事が「比較できる」ということは「分裂している」ということである。
分裂を「分節」と言い換えてもいい。
分裂(分節)しているから比較しうる「差」が生まれる。
しかし虚数世界には物理世界に見られるような大小などの「差の比較の法則」が通用しない。
なぜ量子は量子もつれ状態において時空を超えて「瞬時(同時)に」確定しあうのか(非局所相関)といえば、物質の最小状態である量子が「霊的存在として」虚数世界を通り抜けて作用しあうからで、それはまた人間をも含めた森羅万象が「分節する物質世界」だけではなく「太極、梵我一如、多即一の世界」にも、虚部と実部を合わせた「複素数」として「存在」していることを意味している。

分節とは自我である、エゴである。
それはまた観測問題における「観測者」のことでもある。
量子状態では、森羅万象が分節しながらひとつ(多即一)であり、「梵我一如」である。
それゆえある境地に達した者たち、すなわち梵我一如や太極を垣間見た者たちはエゴを超え、観測者問題をもクリアすることが可能となる。

だが今現在の西洋科学ではまだこの問題を解決できていない。それは西洋的な科学思想が「分節し」「認識可能な物理現象のみに拘泥し」「自我(エゴ)を超えた『太極』や『梵』にまでたどりつけていない」からに他ならない。
だが優れた解答はすでに用意されている。東洋思想の中に。

・プラス、マイナス、ゼロの概念
少し話を戻して、虚数以外の実数におけるプラス、マイナス、ゼロの概念について話をする。
というのも霊的な世界が、たとえばゼロやマイナスの世界と同じなのではないかという誤解が時たま見受けられるからなのだが、-、+、0はあくまでも実数世界における大小、損得といった「比較」の範疇にしかなく、マイナスは負債(借金)、プラスは資産、ゼロはそれら差し引きのバランスが取れている(差がない)状態を意味しているにすぎない。

このような「損か、得か」は分節後の世界においてのみ有用である。
つまり損したり得したりしているのは分節後の「誰かの自我(エゴ)」にとっての問題であって、「分節前の世界」では誰も損も得もしていない。
般若心経でいうところの、
不生不滅
不増不減
とは、このことを意味している。

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