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桃栗3年柿8年、カント250年唯識1500年

どっかの経済バカによると《「存在は意識によってつくられる」というのはカント以来の近代哲学の常識》とのことだけど、「この世界は識のみで成り立っている」と考えた瑜伽行唯識学派は1500年ぐらい前からあって、それがなぜかいまAIシンギュラリティとの関連で再びブームになりつつあるらしいよww

↑これもその話だし、

↑タカシロさんのこれもそう。
なんかタカシロさんが「利他」とか書いてるの見るとオシリのあたりがムズムズしてくるものの、ここに書かれているのは本当にそのとおりで、「利他」が理解できていなければ末那識・阿頼耶識の領域に踏み込んではいけないし踏み込めないようになってるらしいです。

以下、長くなるけど引用↓。

ハイム理論によれば、7次元と8次元はGIFと言われる「グローバル・インフォメーション・フィールド」と呼ばれる領域で、仏教でいう「末那識」、ユングのいう「個人的無意識」を指し、デヴィッド・R・ホーキンスの意識レベル500-600にあたります。
ここに到達するには、利他的であることを、貫くことしかありません。
もっと簡素な言葉で述べれば、「どこまでも、人の世話をする人生を送る」ということに他ならず、これこそが真の「ライフスタイル」と呼ぶべきものです。

末那識=自我なので「個人的無意識」と呼ばれます。

ブルクハルト・ハイムの言う9次元から12次元は、ユングの「集合的無意識(普遍的無意識)」、仏教で言う「阿頼耶識」で、これがホーキンスの意識レベル600以上にあたります。
ではいったい、この地(Sight)に達するには、どうすればいいのでしょう?
僕の経験からお話し申し上げれば、半永久的どころか長時間この意識空間に滞在することは不可能に近く、ただし、ある一定の短期間だけ滞在する「観光」は可能だと考えます。
それが、「ゾーン」に入るフロー体験です。
運動生理学者ザチオルスキーは、通常の人間が使えるのは絶対筋力の65%しかなく、普通はこれ以上の使わないようにストッパーがかかっていますが、ゾーンに入ると前頭前皮質(前頭葉)機能低下からロックが外れ、絶対筋力が100%に近づくことが出来る、と述べています。
これが、一流のスポーツ選手がゾーンに入って信じられない結果を出すフロー体験です。 
さらに、完璧なゾーンの状態では、脳の前頭前皮質よりもっと奥の上頭頂小葉でも一時的な機能低下が起きており、そうなると時間や自己といった感覚が一時的に消滅し、「自分は万物とひとつになっている」と感じると、米国の心理学者ミハイ・チクセントミハイは、話します。
さらに、この地(Sight)を体験すると、始まりも終わりもなく感じ、分離の不安がなくなることから、誰かと比べる必要もなくなり、情報すらどうでもよくなります
また、「集合的無意識」にアクセスしたいと「欲」を抱え持つ間は、その可能性は逆に遠のくばかりです。
心身を鍛錬し、栄養と呼吸を整え、ひたすら利他的に生きながら、なにかに熱中する「ある瞬間」、あとで気がつくと、ふと「集合的無意識」にアクセスしていたんだろうな、という感覚を得られるのです。
これをいまの科学=ニュートン的パラダイムで証明することはできませんが、「体験」することは、誰でも可能です。

ユングの「集合的無意識」、つまり「阿頼耶識」とここでは同定されたもの(*1)については以下のように説明されています↓。

ユングは、「集合的無意識」を、「すべての人間に、先天的に備わっているイメージや概念」と話し、精神科医だった彼は、「集合的無意識」を「個人の経験や体験に基づいて説明できない精神疾患や漠然とした不安感は、人類に共通する集合的無意識によって生じている」と考えました。
また、世界中に散らばる似たような神話(アーキタイプ)も、かつて、この領域=「集合的無意識」にアクセスできた人が引き出したものだ、とユングは考えました。

唯識では「悟りに至るために阿頼耶識を大円鏡智に転換する必要がある」といわれてます↓。

↑より引用)
修行の階梯
唯識では成仏に三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれるとてつもなく長い時間の修行が必要だとされる。その階梯は、資糧位(しりょうい)、加行位(けぎょうい)、通達位(つうだつい)、修習位(しゅうじゅうい)、究竟位(くきょうい)の五段階である。
転識得智
修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。
1. 前五識は成所作智(じょうしょさち)に
2. 意識は妙観察智(みょうかんざつち)に
3. 末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に
4. 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。
転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。

大円鏡智に至る前に「阿頼耶識」の一つ前の「末那識」という「自我の座」を平等性智と呼ばれる「自他を区別しない境地」にしておく必要がありますが、その平等性智から自ずと湧き出てくるのが「利他」です。

【注】(*1)

 −−−ユングの「集合的無意識」、つまり「阿頼耶識」とここでは同定されたもの−−−と書いたのは、阿頼耶識が人類「だけ」の集合的無意識だというふうには私は考えていないからです。阿頼耶識は宇宙そのものの「識の転変」であり、識の転変とはフラクタルという物理現象であるがゆえに山川草木悉有仏性であり梵我一如であるということを以前にも書きました↓。



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