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『眠れる海の乙女』第13話

 私は眠るように瞳を閉じて、ベッドに体を預けていた。

  ヘッドフォンから流れ込んでくる小太鼓や、弾け飛ぶ花火の音を頼りに思い出に馳せていた。何百回と聞いた隼人との思い出が、現実に起きた事だと証明してくれる。

 あの隼人と過ごした時間が時々、幻だったのではないかと感じるようになってきた。確かに体験したはずなのに、こうして視界が見えなくなると瞳を閉じて、そこから開けたとしても現実の狭間が解らなくなる。

 あれは夢? 若しくは幻?

 憧れていた恋しい人と過ごしたいが為に眠りについてしまい、夢を見ていたのではないだろうか。夢ならそのまま覚めて欲しくなかった。夢の中の私は、隼人と一緒に生活を共にしていて正和ホームの社長となった隼人を側で支えていた。病気はすっかり治っていて、隼人の笑顔を見つめている私がいた。そこには女性としての幸福と理想の世界が詰まっていた。瞳を閉じていようが開けていようが、私には変わらない世界。それは眠っている事とさほど変わらない事だった。

 現実を証明された世界で私は、これから先どうやって生きていくか考えあぐねていた。

 私がアパートを解約して自宅に戻ってきた時、優子と聡が金を持ち寄って、市原市内の自宅をバリアフリーにリフォームしてくれていた。昭和五十年代に建てられた戸建は、優子の祖母が残した戸建だった。所々の段差を解消し、水回り全てを交換され手摺も設置されていた。

 そのおかげもあって一人で歩けるようになったものの、覚束ない足取りで家の中を歩く私に二人が心配して寄り添う事になった。外出なんて以ての外だった。吉岡に勧められるがまま、白杖の歩行訓練をしている最中だった。優子と聡が互いの休みを利用して、私を市原市内の支援ホームまで付き添うようにしている。慣れない体験に苦労を重ねた。

 次第に気が滅入るようになっていきつつも、決して二人の前では弱音を吐かなかった。

 ただ周囲の目とこれから先の生活が私の気がかりだった。

 私に対する周囲の偏見の目が、優子と聡にきっと向けられているだろう。二人はそれを決して私の前では口にしない。私の介護に二人は気が休まる日はあるのだろうか。周囲の偏った意見と心無い言葉が自身のせいで向けられていないだろうか。金銭的な負担と精神的疲労に二人の体が心配だった。聡にお願いした事だってそうだった。アパートの部屋の解約を任せ、引っ越しの件も甘えてしまった。到底今の自分には出来ない事だった。やるだけやって、後始末は聡に任せっきり。

 聡だけではない。結衣にも大分助けられた。そういえば日記を隼人に渡してくれたのだろうか。幾度か隼人から電話があったから、きっと気付いたのだろう。決意したように隼人からの電話に出る事はなかった。

 この眠りからはもう覚める事はない。

 恋い焦がれる相手から私の眠りを覚ます魔法のような事をされる事でもない限り、息絶えるまでこの暗闇を彷徨い続ける事になる。強く生きると決めたのに、焦る気持ちとそれが出来ていない現実が私の心に抑止力となって働きかけていた。燻る火種がかろうじて私の心で燃え続けている。それは白杖で外出する事。日常生活を二人に迷惑がかからないようにする事。今の私をその二つが支配していた。

 視覚を失ったせいで、聴力に気を張るようになった。だからイヤフォン越しでも玄関扉が開く異物音に気付いた。玄関タイルに接触する革靴の渇いた音に、聡が帰宅したのだと思った。私のいる一階の洋室から玄関までの距離は、さほど遠くないから鮮明に聞こえてくる。

「架純? 帰ったぞ」

 やっぱりそうだった。聡は私が住むようになってから、私が不安にならないように帰宅すると、いつも声を掛けてくれる。病気になる前は、帰宅しても何も言わなかったのに。サイドテーブルに腕を伸ばし、読み上げ機能付きのデジタル時計に触れた。すると現在の時刻を読み上げた。

「おかえり。早かったね」

 当初は時間の把握に困惑した。昼夜の違いを光の反射で辛うじて感じるものの難しかった。心配した聡がインターネットで視覚障碍者向けの時計を購入してくれた。今ではこんな機能が付いている時計があるのだと感心した事を覚えている。

「あぁ。残業もしたくても出来ない時代だからな……よいしょっと」

 聡が革靴を脱いでいる光景を想像した。医療営業の仕事をしている聡は、私の病気の事を各方面に相談してくれたのだと優子から聞いた事があった。その仕事に転職した事も、きっと私の影響があっての事だと思っている。

 先程から聡が帰宅した時よりも靴を脱ぐ時間がかかっているような気がする。それに革靴の渇いた音もいつもより多い気がした。

「……ねぇ、お兄ちゃん?」

「おう? どうした?」いつもより上擦った声が返ってきた。

「……何しているの? もしかして、誰かと一緒?」優子が帰宅するには早い時間だった。

「……一人だけど……どうかしたか?」間を置いて返って来る言葉に不信感を覚えた。

「……ううん、何でもない」下手な勘ぐりは止めよう。一日家にいる時間が長すぎて静寂に支配された空間に居座り続けると、神経が研ぎ澄まされるようになってくる。やがて足音が私のいる部屋の前まで近づいてきた。部屋と言っても私の為に間仕切りされていない空間だった。

「架純……入るぞ」私の横たわるベッドの正面に近づいてくるのがわかった。視野狭窄の私には視界が制限されている。聡の呼吸音と煙草の匂いが鼻腔をついた。

「……どうだ、調子は?」

 聡の声がする方に僅かな光を感じる。聡が私の正面にいる事がわかった。聡の顔や輪郭は鮮明に判別する事は出来ない。

「うーん、悪くないよ」

「そうか……お腹はどうだ? 空いてないか?」

「うん。ちょっと空いてきたかも……あっ、でもお兄ちゃん? 無理して作らなくていいからね?」

「何で? せっかくいろいろ食材買ってきたのに? 今日は鍋でも――」

「だって、この前お兄ちゃんが作った炒飯……あれは正直不味過ぎだったからね?」

 数日前の夕食の事。優子の帰宅が遅くなる報せを聞いた聡が冷蔵庫にある食材を使って炒飯を作ると言い出した。ろくに今まで料理をした事のない聡が頑張って作ってくれた事には嬉しかったが、その味は表現出来ない程に酸っぱいものだった。

「まぁ、あれはな……初めてにしては上出来だっただろう?」

「いやいや。炒飯をあれだけ不味く作れるって、ある意味天才だよ?」

「はっはっ……そこまで言われちゃあ何も言えねぇな」

 聡の豪快な笑い声が響いて聞こえてきた。以前の聡からは想像がつかない程、聡は笑うようになった。聡の変わり様に驚いたと同時に、その変わったきっかけを作ったのは自分自身なのだろうと容易に想像が出来た。

「もうすぐお母さん帰ってくるだろうから。それまで待とうよ、ねっ?」

「……うん? あぁ、そうだな。そこまで言われちゃ仕方ないか」

 なんとか聡が作る夕食を回避出来た。何鍋を作るのか気になったが、炒飯同様の結果もあり得なくもない。気持ちは嬉しいけれど、今の私には聡の料理に応える程の気力がなかった。

――それよりも……。

「……ねぇ? お兄ちゃん?」

「……うん? どうした?」聡の明るい声が返って来る。

「……その辺り……何かない?」私は違和感を覚える方向を指差した。

 視野狭窄の症状で視界に写る大半は、幕が下りたように閉ざされていた。視界の中心部には正面に座る聡がぼんやりと見て取れる。幕が下りて私の目には映らないはずの視界の隅で違和感を覚えていた。聡が正面に座った時からだった。

「いや、特に何もないが……どうかしたか?」不思議そうに聞き返す聡に「本当に? 本当に何もない?」と必死で問いかけた。再び聡から違和感を覚える方向に顔を向けて視界の中心部に捉えようとした。

「よくわからないんだけど……人? 物? なんか気配を感じるんだよね」

「……あぁ、言ってなかったな。得意先で観葉植物もらって、そこに置いたままだったな」

「……そうなの?」信じられない私に聡は「あぁ。こんな大きい植木鉢でもらってさ……あっ、そうだ。それは玄関の外に置くと運気が上がるって言っていたっけな……よし。ちょっと置き直してくるわ」と言って立ち上がると部屋を出て行った。

 やがて聡が玄関を開ける音が聞こえ、扉が閉まる音がした。再び私が違和感を覚えた方を見遣ると、さっきまで感じていたものは無くなった。

「……気のせい?」

 私が感じていた違和感に、聡の答えはそぐわないような気がした。


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