『眠れる海の乙女』第7話
「たまたま仕事が休みだったから良いけど、もっと早く行ってくれたら……よいしょ、助かったんだけどね。ほら……もっとお腹、引っ込めて?」
母の優子は、愚痴を言いながらも着付けを手伝ってくれた。
「いいでしょ? 娘の晴れ舞台なんだから……少しは甘えたっていいじゃん?」後ろでおはしょりの長さを調整している優子に言い返すと「だからって当日に『浴衣着たいから持ってきて』『あっ、でも着方わからないから手伝って』って連絡してくる事ないでしょ?」と正論を言い返されてしまった。正論を言われた私は「だから、ごめんって」と素直に謝った。
桜の花柄を基調としたピンク色の浴衣は、去年の夏に優子がくれたものだった。結局、袖を通す事がなくなってしまったが、こうして着る機会が出来た事を優子は嬉しいに違いない。
「あっ、お兄ちゃんには何て言って出てきたの?」
「えっ? あぁ……ついて来ようとしたから、女の世界に足を踏み入れるなって言って出てきたわ」と笑って優子が返して来た。続けて「ちゃんと連絡してるの? 心配してたわよ」と言われたので「お母さんから言っといてよ」と反論した。先日連絡した事をきっかけに兄はどうやら反省した様子を見せたので連絡を控えていた。それまでは、事ある事に連絡を寄せてきていた。兄の私に対する心配性は小さい頃からだった。
「はい……これでおしまい」振り返ると立ち上がった優子は、私の浴衣姿を値踏みするように見つめると「我が子として、鼻が高いわ……こんな姿見たら、隼人君もイチコロね?」と私の浴衣姿に惚れ惚れしている。
姿見で自身の浴衣姿を見る。初めて袖を通す浴衣姿は、不思議な気持ちになった。先日の雅美との会話で浴衣を着る事を決意したものの、隼人はどんな反応を示すだろう。そんな事ばかりを考えて今日を迎えた。それでも大事な日を迎えるにあたって、優子の力を借りる形になったが、いざ浴衣姿の自分を見ると悪くはないと思った。ハーフアップした髪型に青い玉のかんざしがアクセントになっている。美容師の母を誇りに思った。
「ねぇ? ところで、その……大丈夫なの?」優子が気にしている事は聞かなくてもわかった。
「……うん、今はね。でも、そろそろ限界かなって」鴨川に行った時から不安を感じ始めていた。
「……そう」視線を落とし、落ち込む優子の姿を見て「一応、今日が最後にしようかなって……だから今日は、目一杯楽しむつもり」笑顔を向けたが優子の表情は暗いままだった。次第に優子は口許を手で覆い喉を詰まらせて、むせび泣き出した。
「……ごめんね」
「ちょっ、ちょっと、お母さん……やめてよ」
「わっ、私がもっと頑張っていたら……こんな事には……」崩れ落ちる優子に駆け寄る。
「どうしてお母さんが謝るのよ? 誰も悪くないんだから」
何度も自分を呪った。何度も自分を罵った。それでも仕方のない事だと折り合いがついたのは、ここ一年の事だった。
「ごめんね、お母さん。そろそろ時間だ……」隼人との待ち合わせの時間までそれほど時間はなかった。
「思いっきり隼人君に甘えて……楽しんできなさいよ?」涙を拭う優子の顔は、いつも見せる明るい顔に変わっていた。点眼薬と錠剤の薬を飲むと玄関に向かう。
「……ありがとう。行ってきます。鍵はポストに入れといて」優子に自宅の鍵を渡し部屋を出て、正和ホームに向かった。
自分の我儘に周囲を困らせている事なんて知っている。快く引き受けてくれる人。私の意見に反論して、本気で心配してくれた人。私の周りには、そんな優しい人達で溢れている。
自分の人生だから、好きに生きたい。後悔なんてしたくない。今が良ければそれで良いなんて考えは大嫌いだった。でも今は、そんな考えになっている。価値観なんてそんなもの。自分が置かれている状況が一変すれば、変わってくる。その時の状況で自分が一番大事にしたい事を全力で取り組む事が大事。そんな結論に達した事も最近の事だった。
正和ホームの交差点に差し掛かり、スマートフォンの録音アプリを起動させた。恐らくこれが隼人との最後のデートになる。そんな予感めいた事を感じての事だった。
部屋を出た時、隼人にメールを送った。隼人が家を出る時にメッセージを送ってくれと言ったから。既読表示にはなっているものの返信はなかった。
隼人は私の浴衣姿を見て、喜んでくれるだろうか。雅美と話したように隼人には内緒にしていた。辺りを見渡しても会場まで向かう人々は多いが、浴衣姿の女性はそれほど多くはない。行き交う中には私をまじまじと視線を送る男性も多かった。あまり目立つ事が苦手だった私だが、勇気を振り絞って袖を通した。隼人から称賛の言葉が一言欲しかったから。
交差点の信号が青に変わり、正和ホームまで歩いた。入口のガラス張りから店内を覗くと、来客はない様子なので店内に入る。
「いらっしゃい……って、架純ちゃん? うわぁ、綺麗になっちゃって」結衣が私に歩み寄ってきた。
「こんばんは、結衣さん。あの……この前の件、いろいろありがとうございます」私が頭を下げると私の言葉の意味を理解したようで「いいの、いいの」と私の肩を叩きながら結衣が答えた。
「あっ、隼人君だよね? 二階にいるから呼んでくるね? ちょっと待っていて」と言い残しデスクに向かって電話をした。さほど時間を空けずに隼人と正和、そして小百合まで奥から姿を見せた。先頭を歩いていた隼人は私の姿を見るなり立ち止まり、驚いた様子を見せた。続けて小百合に付き添われる形で正和が「おぉ、架純ちゃん……綺麗だね」小百合は「似合っているわ、架純ちゃん」と私の浴衣姿を褒めてくれた。
「ありがとうございます……なんだか、そこまで言われると恥ずかしいです」恐縮している姿を見て結衣が「でも本当に綺麗だ……ねぇ、隼人君?」と隼人に話を振った。隼人の反応を見たかった。だから隼人の顔を覗きこんだが「えぇ……はい」と困った様子で言葉を返した。見兼ねた小百合が「ねぇ、時間大丈夫?」と隼人に確認する。腕時計を見て隼人が「……そろそろ行こうか?」と私に言った。私は頷き、結衣達に見送られる形で正和ホームを出た。
正和ホームを出ると隼人と並んで歩いて行く。先程よりも国道沿いの歩道は混雑しているように感じた。隼人が車道側を歩き私の小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩調を合わせて歩いてくれている。そんな隼人の優しさに触れたけれど、心中穏やかではなかった。せっかくの花火デートにも関わらず、先程の隼人の反応は予想していたものとは違った。結衣達のような月並みな言葉でも隼人が発する言葉は私にとって特別なもの。
それなのに……。
「……どうかした?」隼人が怪訝そうに尋ねてきた。先程から正直、隼人の話を話半分で聞いていた。
「……ううん、別に」素っ気なく返した。すると隼人は少し間を置いて「……似合っているよ」と確かに言った。
「……えっ?」俯いていた顔を上げて隼人を見上げる。隼人はもう一度「浴衣、似合っている」と言った。込み上げてくる感情は嬉しいものだった。素直にそこで喜べば良かったが私の中で悪戯心が燻り出した。
「……ごめん、ちょっと聞こえない」実際に周囲の喧騒音があって聞き取り辛かった。すると隼人は「だから――」と今度は先程の倍以上の声を発し出した。その瞬間、私は慌てて隼人の腕に抱き付いた。
「……えっ?」戸惑う隼人に私が「……ありがとう」と呟き隼人の顔を見上げる。隼人の顔は暗がりでも恥ずかしそうな様子が窺えた。
会場まで辿り着くと私が想像していた混み具合を遥かに超えていた。家族連れから若者の団体までごった返していた。
「……窒息しそう」半笑いで私が言うと隼人が「じゃあ、早く脱出しないとな」と言って私の手を握り歩き出した。
「ちょっ、ちょっと隼人君?」隼人は人混みを縫うように歩いて行った。私は隼人に引っ張られるように連れて行かれると辿り着いた先は桟敷席だった。係りの人間らしき人物に隼人がチケットを見せると通行を許可された。
「……どういう事?」訳もわからない状態でいると隼人が「祖父ちゃんがくれたんだ」と言ってチケットの半券を私に見せた。話を聞くと正和は例年この花火大会を運営している委員会に協賛金を寄付している為、特典として桟敷席がもらえるらしい。私が正和ホームに来る前に隼人は正和から桟敷席のチケットをもらっていたようだ。
「……さすが、社長」私が感心していると隼人が席の案内をした。すると指定された席は桟敷席の中でも一番前の中央の席だった。隼人は既に近くの席に座る人達に声を掛けられている。どうやら仕事上の付き合いがある人達のようだった。私に話を振られた隼人が私を紹介する。彼らに会釈をすると「随分可愛い彼女じゃないの?」と既に酔っぱらった様子で隼人を弄っていた。
座敷席に座り時間を空けずに女性のアナウンスが流れると拍手が沸き起こり、やがて夜空に一筋の光が伸びると、弾け飛ぶ音と同時に円く大きく鮮やかな色が広がった。その後も次々と菊や牡丹の花や蜂をモチーフにした個性豊かな花火が打ち上がる。
「……綺麗だな」
「うん。でも……」
尻目に隼人が顔を向けている事を捉えた。隼人は私が次の言葉を紡ぐのを待っているように見える。
「……なんだか、儚いよね」私の言葉に隼人は応えなかった。
「パッと咲いて、パッと輝いて、パッと消える……やっぱり、儚いよ」すると隼人が「だからじゃないの?」と言った。
「こうした一瞬の輝きがあるから、儚さの中に美しさが際立つのだよ……架純君」
どこかの学者のようにふざけた隼人の様子に私は思わず吹いてしまった。笑い終えた後、ふと我に返った。儚いから、輝ける。それは今の私と重なる部分があった。こうして隼人と過ごす今の時間も、有限なもの。決してこれから先も同じ時間を過ごす事はないだろう。だから今この時間がこれまでの私の人生の中で、最も輝いている時間のように思えた。
花火大会が終わり閑散とした帰り道を歩いている時、隼人は興奮冷めやらない様子で最後に夜空に咲き乱れた、ナイアガラの滝をモチーフにした花火の感想をずっと喋っていた。そんな様子の隼人に対して私も余韻が残る、荒ぶる気持ちに同調して話す一方、逸る気持ちを抱えていた。
このまま終わっちゃうのかな……。
せっかく浴衣も着て、こうして隼人と花火も一緒に見る事が出来た。でもまだ物足りない気持ちがある。隼人にとっては、これからも経験するかも知れない長い人生の一ページかも知れない。でも私にとって今夜は……。
道のりはあっという間で自然と行き着く先が隼人と私が住むアパートだった。ここに着くまでの間、変わらず隼人はナイアガラの滝の花火の話をしていた。隼人の中で相当気に入った様子。外階段を登り、隼人の部屋の手前にある私の部屋の前まで来た時だった。
「……ねぇ?」
「……うん?」
もう少し、一緒にいよう?
たった一言なのに、言葉に出来なかった。素直になる事も考えたけれど隼人から言って欲しい気持ちもあって、複雑に心情が絡み合った。結局言葉に出来ないままポストから鍵を取出した。なんて私は不器用な性格なのだろう。
「……ううん、何でもない」
頭を振る私を隼人は怪訝そうに見ている。
「……バイバイ」
別れの挨拶を済ませた時、隼人も何か物足りなそうな顔をしていた。
こんな状況になったらもう無理だよね。取出した鍵で玄関扉を開ける。尻目に隼人もドアノブに手を掛けているのが見えた。
気付いてくれるかな?
最後の悪あがきだった。開けた扉をそのまま開けた状態にした。一歩室内に入って、玄関先で隼人が来るのを待った。
もしかして、帰っちゃった? 鍵を開けた音は聞こえてこない。
お願い……隼人君。
「……架純」
その声と同時に背後から抱き締められた。その温もりが、匂いが、隼人のものだとすぐに気付いた。
言葉で表現する事なんて到底出来ない幸福感と高ぶる気持ちが込み上げてくる。隼人の顔が見たい。あなたは今、どんな顔をしているの? 私の胸元に巻かれている隼人の両腕に触れて振り向こうとした時――。
「……隼人くっ――」
言い終える前に隼人が私の唇を塞いだ。
隼人の唇を通して隼人の体温が伝わって来る。
隼人に会ってからずっと触れてたかった隼人の唇は乱暴に私の唇を弄ぶ。
始めの数秒間、私はただそれを受け入れていた。次第に募る想いが増していき私も隼人の唇を乱暴に弄ぶ。
そして、その夜。私達は初めて結ばれた。
肌と肌が触れ合う度に隼人の体から発する臭いや温もりを、まるで映像のように記憶に刻んだ。
このまま溺れてしまいたい。
隼人の苦悶した顔。
夢中に私を求める隼人の顔。
瞬間的に見せる隼人の顔が愛おしくなる。
髪に触れると額にかいた隼人の汗が私の頬に落ちた。
幾度隼人の顔に触れただろう。その度に隼人は私の頬に触れ笑顔を見せた。
私が大好きな人……内田隼人。
そして私を、初めて抱いた人。
あなたの笑顔がもう見られなくなるなんて。
そんな事、考えたくなかった。
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