『続東本願寺問題』 中山理々著 

大谷派に望む

大谷派管長推戴会議無効論

 昭和53年3月真宗大谷派で開かれた宗議会及び門徒評議委員会は管長推戴会議と称し、現管長大谷光暢師の解任並びに新管長推戴の件を議題とした。
 しかし宗憲及び推戴条例では管長の死去もしくは退任の意思表示があったとき宗務総長が管長に代わって新管長推戴の会議を招集することになっている。
 いま現管長大谷光暢師が在任中であり退任の意思表示もない時点にあって、宗務総長が新管長推戴の会議を開くことは不可能である。
 管長推戴の会議は宗議会と門徒評議会の二つの会が行う。この二つの会は、宗憲によって管長が招集するものであって宗務総長は招集できない。管長死去のときあるいは管長自ら退任の意思を表明された時、臨時に宗務総長が新管長推戴のため宗議会と門徒評議員会を招集する資格が生ずるのである。
 故に大谷管長が現に管長である間にあって、宗務総長が推戴会議、すなはち宗議会と門徒評議委員会を招集したのは無意味であり不法である。
 これは当時具眼者から批判されたが、何しろ年余にわたる現管長大谷光暢師の悲しむべき脱線独走の数々がマスコミに伝えられて、宗門内に現管長不信任の声が出て宗務総長の違法、不法も止むを得ざることとして見逃された形であった。
 しかしいま冷静になってみれば、宗務総長の違法不法は管長の独走と相まって宗門を自殺行動に追い込むことになると反省されるのである。
 浄土真宗の法統を伝承する師主即ち大谷派法主、東本願寺住職並びに真宗大谷派管長は、宗祖親鸞聖人の御血統において、三位一体の兼務を願う長年の宗門感情は宗祖に対する崇敬感恩の思いから出た自然かつ堅い宗門の特性である。
 しかし管長という職位は、東本願寺本山を中心として寺院教会及び檀信徒を包括する宗門たる真宗大谷派を主管し代表するもので、法主・住職の職位と異なり対内的にも対外的にも広い行政運営が関わってくる。したがって、管長は宗憲により一万末寺の宗議会と一千万信徒の門徒評議会という二つの会議で推戴するよう限定され、さらに管長推戴条例が制定されたのである。
 これによって管長は本山東本願寺住職、大谷派法主の職と異なり規則の上では管長には祖師の血統が必ずしも推戴されるとは限らないことになった。
 これは祖師親鸞聖人の法統尊重と人物第一主義の意向に沿ったもので、われわれの宗門感情を越えてこれを制定公布した大谷光暢管長は正しかった。
 しかし宗憲にも、推戴条例にも、両方の会議で管長候補者を決定し宗務総長がその就任を請い新管長が就任されたあと新管長には任期の規定がない。
 管長は大谷派を主管し代表する、という権利と義務をもつのである。宗憲で管長は大谷派の宗務を行うのに宗務総長、内局の補佐と同意とによることが規定されており、宗門内から見れば管長の行う宗務については、内局に補佐と同意の責任があって宗務総長内局は宗門の組織から見れば管長を無答責とする義務がある。しかし宗門全体の宗務を行う主管者として、また大谷派の代表者という宗憲の規定から見て管長は功罪ともに責任を単に宗務総長、内局に押しつけるわけには行かぬ。
 管長は宗務に対し強い権利とともに厳しい義務を有する。したがって管長には法律の常識に従って任期が規定されねばならない。
 しかるに宗憲にも条例にもこの規定がない。 就任した管長は自ら隠退しない以上、終身その職を行う規定である。ここでは管長は住職法主と同じ三位一体の親鸞聖人の血統のお方を願いたいという宗門感情が働いているのである。
 形は一万末寺、一千万信徒からの推戴という選挙制をとっているが、誰も大谷家の家長以外、すなわち法主、住職以外の人を管長に推戴することは考えない、という宗門感情が管長終身制を怪しまなかったといえよう。また、この推戴条例を制定公布した大谷光暢管長も継承者は新門光紹師を予想しその任期などは思いもよらなかったに違いない。
 しかし管長に権利義務が存在する場合、例えば推戴された管長が万一義務を遂行しないときがあれば推戴会議が開催されてリコールを決議し、別のお方を推戴する規定を設ける必要は存在していたのである。これは大谷家にあっても祖師聖人に対する責任の上から自然に承知される筈である。
 私は昭和51年2月開かれた宗憲改正に関する委員会でこれを提案した。 しかるに委員会では抹殺された。ただし中外日報(51・2・24及25)はこれを少数意見として発表してくれた。
 本年3月の管長推戴会議の前日、参与会があって私は出席し、現行の宗憲及び推戴条例では管長を推載する、とあって現管長のリコール乃至解任の規定がない。これで現管長を解任できるか、と質問し、2年前私の管長リコールの宗憲改正提案を退けた委員会及び当局の浅見をせめた。
 いま両会議が開かれても新管長の推戴は不可能である。したがって推戴会議の開催は無意味である。開会すべからず、と勧告した。
 これに対して、宗務総長はじめ沈黙して答弁がなかった。ただ宗議会議長は、理屈はそのとおりだが何ともしようがない、と顧みて他を言った。
 法規を無視し、『何ともしようがない』で押す横車では宗門の積極的運営は期待されない。推戴条例にやましいところがなく堂々たる宗教的奉仕に邁進するのが宗門の道なのである。総長も議長も宗門を敢えて畸形化している。これで祖師聖人の不屈不倒なあの宗教活動が行われるはずがない。
 『何とも仕様がない』と不法を承知で開会された3月26日の管長推戴会議は午前10時まず門徒評議員会が開かれた。その模様は私たち宗議会議員控室にも放送されたが議事の進め方が違法で宗憲を無視して行われ宗憲を知らない門徒評議員たちの拍手で賛成々々と簡単に違法を決議してしまうやり方である。
 まず事務当局から門徒評議員の出席状況の報告があった。
直接出席者114名、委任状による間接出席者103名合計217名で、 全門徒評議員286名の4分の3(215名)以上に相当するという。したがいまして管長推戴条例第2条第2項(評議員の4分の3以上の出席した会議で4分の3以上の多数を以てこれを決めなければならない)による会議として適法に成立いたしました、と聞えてくる。
 議長は京都教区の松島七兵衛議員(京都マツダKK社長)が当局側から指名された。
そこで門徒評議員会を招集する資格のない宗務総長の簡単な説明があって議事に入った。
 熊本教区の後藤評議員の声らしい動議が聞えてきた。 『新管長の選出ということによって現管長さんの解任は決まるということでございますので、その(現管長解任の)件につきましては審議を省略して直ちに(新)管長候補者の選出を行って頂きたい・・・。管長候補のお方につきましては今日のいろいろな世論を伺いますと高田教区の竹内良恵先生がもっとも適格者と判断いたします。したがってこれも、もういろいろ今まで審議がつくされたことでもありますので、即刻採決をしていただきまして議事の進行に入って頂くならばと思います……』で賛成の声と拍手である。
 私はおかしくなってこの賛成と拍手を疑った。
 大体議題は宗議会のものと同じく『現管長解任並びに新管長推戴の件』 と明記されているはずである。新管長の選出によって現管長の解任が定まる、というのは前後倒錯ではなかろうか。英米の諺の『車を馬の前方につける(PUT THE CART BEFORE THE HORSE)』そっくりの矛盾だ、現管長の解任ということによって新管長が選出されるはずである。この門徒評議員の発言はいただけないどころか、議題の現管長解任の件については審議を省略する、というに至っては会議の破壊につながる発言だと思う。これに賛成して拍手を送った門徒評議員はいま考えて見てその軽率を後悔していることだろう。
 ところが、この会議にはこのような錯乱賛成の続出が見られるのである。
 11月6日真宗大谷派管長大谷光暢法主は、本山本願寺住職代表役員として東本願寺の真宗大谷派離脱を声明された。これは正しく晴天の霹靂で宗門を震撼させた。
 2ヵ月の公告期間が過ぎて離脱の申請が京都府知事に提出され、それが認証を得るまでは現状は続くが、法主管長と総長内局との長年の対立抗争がついにこの極端に行き着いたことは日本仏教史の汚辱である。
本山本願寺の宗派離脱は親鸞宗徒にとっては、生ま木を裂くごとき悲劇であって祖師親鸞聖人立教開宗の元仁元年(1224) 乃至慶長7年(1602)教如上人の東西分派以来の長い歴史に育てられた美しい宗門感情を窒息させるものである。 私は親鸞聖人の温かい称名懺悔の教えが生きている以上、法主側も総長内局側もこの極端を捨てて僧伽和合の宗教的解決にもどるものと確信するものである。
 離脱の悲劇を解消させるためには管長補佐の重責に任ずる総長内局の自己反省が必要である。 総長内局は世間を知らない大谷管長の補佐に弱く、ついに管長をして悲劇を観念させたのではないか、と自省し悲劇の解消に渾身の努力を捧ぐべきである。
 私はいま管長推戴会議の門徒評議員会の審議の違法性を調べているが、これは招集者の嶺藤宗務総長に責任があるのである。
 私はさらにその解析を続けて宗務総長の内省の資に供したい。
 直接出席者114名、委任状103名合計217名で全門徒評議員数286名の4分の3たる法定数215名を2名越しているので、会議は成立したという時点で久留米教区選出の野上堅五郎氏は推戴条例第2条では出席者の数に委任状が認められていないから出席者は114名で法定数に達しない。したがって今日の門徒評議員会は成立しないのではないかとの根本的な重要質問を出した。
 これに対し、日豊教区選出の工藤修照氏は『法規を読んでみますと委任状でよろしいとも委任状は駄目だとも書いてありません。したがって門徒評議員会は過去から今日まで取り扱ってきた慣例に従ってやっていくことが妥当だと思う訳でございます』と発言した。
 これに対し松島議長はこの会議に委任状が適法かどうか、すなわちこの会議は適法かどうかを挙手で問うた。
 『賛成多数であるので適法と確認いたします』で野上議員の質問は封じられたのである。
 これは野上議員にとってもまたこの会議にとっても遺憾千万なことであった。
 門徒評議員は門徒評議員条例により教区門徒会及び宗務総長の推薦する檀徒又は信徒について管長がこれを任命する、のであって、個人の利益を代理するのでなく多数者に代り奉仕を行うために特別に名ざしで推薦選任された公人である。正しく都道府県市町村及び国会議員と同様である。故に門徒評議員会には委任状は出せず必ず自ら出席することになるのである。 都道府県会でも衆参両院でもまた大谷派宗議会でも議員の委任状出席は許されないのである。
 ただ宗憲第104条により大谷派の門徒評議員会は全教区に300名以内の評議員で組織し、その任期は四年とする、と定められており、門徒評議員会条例第4条には、門徒評議員会は評議員5分の1以上が出席しなければ議事を開くことができない、とある。
 しかるに全国の門徒評議員は各々社会人として大体トップクラスの多忙な身分なので、毎年1回の門徒評議員会に総数の5分の1以上の出席は期待できない。それを考慮して宗憲第107条は、例年の門徒評議員会の議案を財務及び門徒に関する条例案並びに予算案を議決し、決算を審査することだけに制限し、会議原則の例外として門徒評議員会条例第4条但し書をつけて毎年のその会議だけには委任状をもって出席と見做すことができる、という余裕を与えたのである。
 管長推戴条例による門徒評議員会は例年の門徒評議員会とは全然違う。 管長の推戴という宗門の最重要案件を議題とするのである。したがって推戴条例第2条には門徒評議員総数の4分の3以上の出席した会議でこれを決めなければならない、と規定してある。厳しい一般の会議原則を曲げず4分の3以上の『出席』を決めている。そこには例外的但し書は許されない。すなわち委任状の使用は絶対認められないのである。
 すなわち管長推戴会議両会はともに委任状は許されないのである。両会の一方の宗議会は国会同様いかなる場合でも委任状は許されない。これと並ぶ門徒評議員会にも当然委任状は許されないのである。すなわち推戴会議一方の足の門徒評議員会は委任状が使えないから、法定数に達せず不成立・流会となり会議は無効であるべきである。 議案の大谷管長解任も竹内管長推戴も雲散霧消する。
 日豊教区の評議員は門徒評議員会は慣例に従って行くと言っている。 しかし推戴条例に基づく門徒評議員会は、昭和22年4月推戴条例公布以来初めてのケースである。その慣例などありようがない。 発言者は毎年の門評とコンプレックスしているので全く問題にならない。ところが松島議長はこれを賛成多数の挙手で通してしまったのである。
 かつて昭和44年4月24日に大谷光暢管長は、当時の訓覇宗務総長に開申を出されて法主、住職、管長という三位一体のうち管長職を光紹新門に譲りたいから新門の管長就任の手続きを直ちに実施するよう示達された。
 その時、訓覇総長は管長推戴条例に基づいて宗議会及び門徒評議員会の招集を行うべき資格と義務を負いながらなかなか示達どおりにふみきれなかった。
 訓覇総長の理由は二つあった。一つは宗門伝統の三位一体を破るからということであった。二つ目は条例どおりに300名近い門徒評議員の4分の3以上が上山して出席することは不可能だから、という理由であった。もちろん与党直道会もこれを支持した。
 2ヵ月後の6月3日から開かれた第86回通常宗議会は五辻議長、訓覇宗務総長のコンビであったが、最終日に中山尊照、海野浄英らの無所属議員が訓覇内局不信任案を提出した。長い理由説明にあたった中山尊照議員は、最後に内局が大谷光暢管長の開申示達をいたずらに延引していることを衝いた。
 訓覇内局と与党は、推戴会議両会のうち門徒評議員会だけは委任状を出席と認めるよう推戴条例を改正しなければ開会不可能と思い込んでいるのを訓覇内局は誠意がないときめつけ、もっと熱心に参務が教区を廻り門徒を説得したら門評総数の4分の3の出席の問題ではない、と烈しく責め立てた。
 これは、訓覇内局不信任の弾劾演説だから、五辻議長も訓覇総長も当時筆頭参務であった嶺藤現総長もみな聞いていたのである。
 すなわち、管長推戴会議のときの門徒評議員会は本人の出席のみで委任状は絶対に使えないということは宗門の常識であった。
 しかるに今年3月26日の管長推戴会議では、門徒評議員会条例を昭和44年当時と同様にして置きながら招集者の嶺藤宗務総長は門徒評議員会の松島議長に委任状を認めさせて平気な顔をしている。そして竹内管長が推戴されたとして違法の横車を与党の数の力で押しまくっている。
 嫌なことだけど、 中山尊照議員の不信任案演説後のことを調べてみると、前記86宗議会開会のあと、9月5日に条例改正委員会が開かれ、管長推戴条例の改正案が討議されている。これは審議未了となり改正はついに行われなかったが、その改正案文は『管長の推戴に関する議事は、門徒評議員会については委任状をもって出席とみなし、その委任状に候補者の氏名を自署した推戴書の提出をもって意思表示とし議決の数に加えることができる』というのである。
 この案文は、当局原案であるから訓覇総長も嶺藤参務も五辻議長も知っていたことは当然である。そうすれば不信任案のときとさらに重ねて今度は自ら改正案を出し条例の改正がなければ委任状は許されず、委任状が許されなければ門徒評議員会は開けないということが改正案の中に再確認されているのである。
 大谷派の宗政家の理性の構造は一体、どうなっているのであろうか。そして、その改正案は審議未了で改正されないまま今度の推戴会議となっている。誠に筋の通らない話である。
管長推戴会議の門徒評議員会は宗務総長の招集それ自体に誤りがあり、かつ招集しても推戴条例により委任状が無効であることが、昭和44年の宗議会でその時の宗務総長や嶺藤参務によって承知され、当時推戴条例の改正がなければ推戴会議は招集できないというコンセンサスであったのに、現在まで推戴条例が未改正である以上委任状は無効で、今次の管長推戴会議は法定出席者数215名未満により流会不成立のはずである。これをかまわず押し切ったこの違法な会議では既述のごとく、さらに議題の中の新管長候補者の選出だけを行ない現管長解任の議案審議を省略するという非常識な議題変更を行なった。
 そして、新管長候補については『いろいろな世論』 により竹内良恵師を適格者と判断し、『これももういろいろ今まで審議が尽された』ので即刻採決したいという動議が出た。
 会場に出席した100余名の門徒評議員は驚いたろう。竹内師とはその名を開会冒頭に聞かされただけである。竹内師の管長候補に対する『いろいろの世論』とは何を指すのかわからず、また、竹内師について今まで審議を尽した覚えもない。この最重要人事を、いま名前を聞いたばかりで、即刻採決とはなにごとだ、と思うところであろう。一議員が『竹内師の適宜、不適に対しては慎重誠実叡智を傾けて結論を出した』と発言しても説得力はない。 いやしくも重大な真宗大谷派の管長候補である。その場で氏名や住職寺院名ぐらいを知らされただけでは賛否を躊躇するのが当然である。
 現大谷管長解任については、昨年の通常の門徒評議員会で 『管長推戴取り消し』の決議をした以上『その後の推戴をしなければどうにもならない』という発言があった。
 しかし前述のごとく、通常例年の門徒評議員会の議案は、門徒及び財務に関する条例案と予決算に関する決議及び審査の4件に限られている。そのほかの決議は宗憲で許されていない。すなわち現管長推戴取り消しなどの議案は審議ができない。したがってその決議は無効である。
 また現管長は昭和22年に管長推戴会議条例を公布したが、自身は大正14年に宗制寺法によって管長に就任されたので推戴会議で推戴されたのではない。現管長を推戴したことのない推戴会議は現管長推戴を取り消す因縁がない。結局、現管長推戴取り消しは不可能なのである。
しかし議長は、現管長解任は昨年の門徒評議員会が現管長推戴取り消しの決議をしたから『本議会はそれを実行に移すことである、という事で適法である、と賛成の方は挙手願います』といって、賛成多数でこの違法を適法とした。
 ここで議長は出席人員の訂正を行い、135人の出席に委任状102人、計237人と報告して採決に入った。そして『人数の確認の都合上、管長候補者として(竹内候補) 反対の方はご起立願います』といって、事務局員に先ず反対者の氏名の確認を行わせた。
 ご本山の門徒評議員に自分が選ばれたことを名誉としている各教区の知名人門徒たちは、議場で竹内候補の名前をちょっと聞いたばかりでは賛否をきめかねる。しかし、よくわからないから反対といって立ち上るのは気恥かしいと思った人が多かったろうと思う。
反対といって起立した評議員は極く少数であった。
 事務局係員は『反対の起立された方が11人、委任状で反対の方が20人、合計31人でございます。 237からマイナスいたしますから206名の賛成になります』と報告した。
 議長は『報告どおり採決の結果は賛成207名で…』と報告より1名余計に言ったと思ったら、また言い直して出席は委任状とも256名といって採決前に議長が自ら訂正した237名ーたったいま事務局のいった237名以上の出席数を出し、反対者31名を差引いて『賛成者225人でございます』といった。 しどろもどろな議長の出席数に対して議場から流石に『再確認』の声が出た。
 然し、結局議長は『反対の数は31名、差引225名の賛成でございまして・・・現管長を解任し竹内良恵師を管長候補者とすることに決定いたしました』と宣した。
 会議で、先きに反対者を起立させ、差引きその他全部の出席者を賛成者と見なせば出席者の白票の権利が無視されるのである。この門徒評議員会の議長は出席者の議決のこの権利を無視した。
 これは普通公けの会議では許されない事案である。営利会社の総会でも議長は常に賛成者を起立さす。反対者を立たせて差引くなどとは聞いたことがない。都道府県市町村会でもおそらくは、そのような例はあるまい。衆参両議院規則では『議長は表決を採ろうとするときは、問題を可とする者を起立させ、その起立者の多少を認定してその可否の結果を宣告する』と規定してある。そして議長が起立者の多少を認定し難いとき、議員から異議を申立てたときは、議長は記名投票により表決を採らねばならない、という付記がある。
 大谷派でも門徒評議員会と並んで行われた宗議会では、決議を認めない議員たちが総退席したあと投票を用いて決定した。こういう管長推戴というような重大な議案については起立などでなく、門徒評議員会でも投票を用いるべきであった。
 しかるに一般会議のルールに逆行し、遠慮勝ちな門徒心理を計算に入れ、 非常手段を弄して採決をいそいだことは、遠近から参集の門徒評議員をただ、あたま数のために利用したことになり、御同朋(おんどうぼう) 御同行(おんどうぎょう)の人格を無視した近視眼的な便宜主義である。この便宜主義を計画し、その結果を喜んだ宗務総長、内局及び与党議員団は『革新』どころでなく、宗祖親鸞聖人の深い宗教的な人格主義を忘れて算術に浮き身をやつしたのである。これでは同朋公議を云々する資格を喪失したものといわねばならないと思う。

真宗大谷派は宗憲改正を中止し、本山離脱を避けよ

 真宗大谷派の本山東本願寺が宗派から離脱するということは、大谷派内局の180度の反省によってのみ避けられる。
 しかるに大谷派内局は自らの無知と無策を棚に上げて、門末信徒から本山の離脱反対の官製の陳情書を集めて京都府知事の離脱認証阻止運動を指令している。
 争いは互譲でおさまる。内局が無反省で本山離脱に断固反対の一辺倒で、事情を知らない教区会議長や教務所長に、上からの圧力の署名運動で官庁に陳情させても離脱が止められるものではない。対抗意識で騒ぐことは問題を混乱の深みへ引きずり円満解決の見通しを不可能にするに過ぎない。本山離脱は宗門の命運に関わる重大事件であるから、内局は何としてもこれを避けたい、円満解決したい、と意図せねばならぬ。 本願寺法主住職が何故、宗門の歴史に前例のない門派末寺からの離脱を声明するに至ったか、という原因を考えて善処するほかない。
 離脱声明の近因は、本年6月3日宗議会議長が発表した改正委員会中間報告である。
 この委員会は、京都地裁から管長代務者の職務執行の停止を命ぜられている宗務総長が、裁判所の決定にそむいて招集した昨年6月の違法な宗議会で作った委員会であるから、心ある議員は出席せず、内局側の一方的委員会であり、委員会には少数反対意見があっても中間報告には抹殺されているという不完全なものであった。
 しかし、違法不法に無感覚な宗議会議長は、これを堂々と発表し、宗務総長内局はそれを早期に実現する意向でいるのである。
 本山東本願寺法主住職に離脱の決意をかためさせた宗憲改正委の中間報告の焦点は、第一小委員会の『法主管長について・宗憲改正の骨子』及び第三小委員会の『宗憲、本山寺法と大谷派規則、本願寺規則との関係について』にある。
これを要約してみる。
 まず、法主の名称を廃止し例えば門主(仮称)とし、現行宗憲第11条の「本派においては浄土真宗の法統を伝承するものを師主とする。本派の師主は法主と称し本山本願寺の住職がこれに当る」をやめて「同期代表として同朋とともに真宗の教法を聞信する」と変え「本山住職を別に置く必要はない」とするのである。師主・法主・住職はなく、単に祖師の血統によるものが「本派の重要儀式を主宰し本尊・名号・影像及び法名を授与する」ことのみになる。管長制は廃止され、宗務に属する事項が世襲制による門主(仮称)に移行せぬよう、宗務総長が全権を握り門主は宗務総長等の任命、宗議会・門徒議会の招集、条令の公布等凡て宗務総長内局の上甲に従わねばならない。 これを拒んだり干渉することはできない。かつ宗務総長は宗派末寺の住職・教師の任免、寺院教会の設立等の承諾、寺院教会規則の制定等の承認等々を行うことができる。
 これらの実行の根本は「宗教法人・真宗大谷派、宗教法人・本願寺を合併して新しい法人を設立する」ことにある。これは両宗教法人がまず解散しなければならない。そして合併するのであるが、 本山東本願寺を解散することを代表役員現住職が承知するであろうか。 本山の解散とは、慶長7年(1602) 第12代教如上人以来、今や宗門が全国の末寺一万ヵ寺に発展し、本山本願寺を本寺とし、崇敬の中心弘教の本刹として護持してきてい
るのである。それは本山寺法第7条に「本山本願寺の住職は別に門跡ともいい宗祖の系統に属する嫡出の男子が左の順序により継承する」とあって、 宗祖の血統の方をご住職として深い尊崇が成り立っている。
 本山本願寺住職としては、 本山本願寺の解散、住職の解消という宗務当局の実行準備をまのあたりにしては宗祖親鸞聖人のご真影の前に、また派祖教如上人の前に絶対承認できることではない。
 ここに11月6日の宗教法人法による大谷光暢法主任職の止むを得ざる離脱声明となったのではないか。
 離脱は悲しむべきことである。大谷法主も宗祖派祖の前に自身の不始末を懺悔しながらも、止むなきセカンドベストの道にふみきったことを奉告されたことと思う。
 宗務当局は署名運動で京都府知事の認証を妨害すれば離脱はできない、とあさはかに考えているが、これは危険千万である。
 宗教法人本願寺規則第42条に「この規則を変更しようとするときは責任役員及び総代の定数の全員並びに加談会の同意を得、参与会の議決を経て京都府知事の認証を受けなければならない」とあるが、本山本願寺が大谷派から離脱することは大谷派からは反対なので、大谷派を代表する宗務総長参務以下5名の本山本願寺責任役員らは、宗教法人本願寺の事務を総理する本願寺代表役員の職位から提議する離脱の事項とは、利害相反する特別の利害関係があるのである。したがって、同規則第13条によって代表役員及び宗派代
表でない「責任役員の合議によって仮責任役員を選定しなければならない」のである。そこで責任役員は仮責任役員とともに全員で離脱をすぐ決議することができる。総代と加談会は宗務総長の推挙によるものであり、参与会は宗議会の選挙によるから皆利害相反する立場である。代表役員住職は離脱事項の決議に参加することができない。そうなると宗教法人本願寺規則第42条の規則変更の手続きは規定に従って行われて離脱認証は可能である。
 さらに宗教法人法第26条の規則の変更の手続の規定では「宗教法人が当該宗教法人を包括する宗教団体との関係を廃止しようとするときは、当該関係の廃止に係る規則の変更に関し、当該宗教法人の規則中に当該宗教法人を包括する宗教団体(注、真宗大谷派)が一定の権限を有する定がある場合でも、その権限に関する規則の規定によることを要しないものとする」と記されている。
 すなわら昭和26年に公布された宗教法人法は、民主々義・自由主義の立場で大谷派に包括される各寺院は本山を含め包括法人たる大谷派からの離脱の自由を民主的に保証されているのである。
 本山本願寺の大谷派離脱を総長内局は真剣に避ける方法を講じなければならない。それは近因たる無知で観念的で無謀な宗憲改正中間報告を撤回することだ。
 大谷派宗務当局は宗祖の教え給うた称名常懺悔のお言葉に順って一切の行きがかりと小さな面子などを一擲して大谷光暢法主住職に参じて離脱を思いとどまるよう悲願すべきである。今からでも遅くない。
 離脱を避ければ、そのために必要といわれる費用など一銭もいらない。すなわち名勝枳穀邸を担保にして負債を記す必要がない。 大谷家も誤った迷った道に脱線することもない。 宗務当局は大谷家を迷わせてはならぬ。
 大谷派は自身の魔事を早く洗い浄めて、親鸞聖人の現代的な教えを自ら信行し、国内に、世界に、一日も早くこれを伝道して宗教離れの現代人の心を満すべきではないか。

大谷派は大谷管長の勝訴により本山離脱解消に全力をつくせ

 昭和53年12月14日朝、午前10時京都地方裁判所杉本昭一裁判長は大谷派の二人管長の異常事態を明快に裁いて判決の主文を読み上げた。
まず(1)『竹内良恵は真宗大谷派代表役員の職務を執行してはならない』と命じ、次いで(2)『真宗大谷派は竹内良恵をして真宗大谷派代表役員の職務を執行させてはならない』と重ねて厳しく竹内良恵師を退けたのである。(3)に申請人らのその余の申請を却下する、と言われた。その余の申請とは原告の法主管長台下及び私と橿原信暁両宗議会議員と大村門徒評議員は、竹内師の代表役員の職務執行の停止を求めたほかに管長としての職務執行停止を申請したことを言う。それは、管長という職務は国家が公認している大谷派規則の中に記載されていない宗派内の宗教的活動上の地位であるから、憲法の政教分離の立場から主文としては管長の職務執行の停止を裁判所が命ずることはできない、という意味である。しかし、裁判長は主文の理由書の中で管長推戴会議無効を重説し、『依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長、したがって大谷派の代表役員の地位にある』、竹内良恵は『管長、代表役員の職務を執行しうる立場にはない』と明記されている。
 私は、大谷光暢管長在位の時点において、現管長に無断で嶺藤宗務総長が管長推戴会議を招集すること自体不法であるから同会議は不存在と信じ、一歩譲って存在したとしても推戴会議両会のうち門徒評議員会での委任状の使用は違法だから、出席者の数が法定数に達せず流会不成立と考え、さらに審議の過程が乱雑至極で、管長候補者の氏名が議場で突如発表されたが、その説明が簡単不明瞭な状態で採決し、出席者総数から反対者を差引いて残りは賛成というがごとき乱暴な裁決を行った。
 私は、どうみても3月26日の推戴会議は無効と思い、11月の本紙上にて3回にわたり 『大谷派管長推戴会議無効論』を発表したが、裁判所の判決と全く一致していたことを喜び、裁判所が厳正な判断を下してくれたことに対して真に感謝にたえない。
 社会から”二人管長”と笑われた竹内管長の出現に対する最大の被害者は大谷光暢現管長であった。私たちは議員として大谷派の秩序維持の立場から、現管長について同一目標の申請で提訴したのであるが、 11月6日に現管長は本山東本願寺住職として真宗大谷派から離脱の声明を出された。事前に何の予告もなく私たちは驚いた。
 本山離脱の声明は現管長の大谷派との絶縁を意味し、竹内管長の職務執行停止請求訴訟の原告たることをやめ訴訟を放棄することを意味するからである。
 私は現管長の離脱声明が宗務当局の無謀非礼な宗憲改正意図の前には止むなき非常宣言であることを同情しながら、同憂の士とともに離脱実現阻止のため宗務当局の宗憲改正案の撤回を主張したが、与党多数に安坐している当局は全然相手にせず、私たちは現管長と内局の間に板ばさみになりながらも主張を続けた。
 しかし、最も憂慮したのは裁判所の姿勢であった。離脱公告期間2ヶ月後の認証下付まで、来春以後には必ず宗務当局を説き伏せて現管長の離脱を防ぐ考えなので、裁判所に向かっては認証までは大谷光暢管長は在職故、離脱は未知数として現時点で判決を考慮してくれるよう要請したが、私の胸中は不安が消えなかった。
 今回の判決は、宗務当局の宣伝力も現管長の離脱声明も少しも関わりなく、理路整然と行ってくれたのである。
 この判決は仮処分判決命令であるから早速効力を発し、その効力は本訴確定まで続くのである。
 私は判決を聞いた午後、大谷光暢法主台下を訪ね、国家の裁判所が台下の大谷派管長職を保証しました。 ご離脱の必要がなくなりました。したがって一銭の費用もいらず枳殻邸の譲渡担保登記も御解消下さるわけで深くお喜び申上げます、と申した。
 嶺藤宗務総長も全教区の離脱反対署名運動などの世俗の真似は必要がなくなり、 杉本裁判長の判決によって台下に離脱不要を言上し無謀非礼な宗憲改正案の撤回を宜して宗門を明るく一転すべきである。しかるにマスコミの伝える所によれば、宗務総長は判決に不服で控訴するという話がある。
 総長は裁判所が竹内管長の職務を認めたものと解釈して控訴するというようであるが判決理由書には前述のごとく、竹内良恵は管長、代表役員の職務を執行しうる立場にはない、 と記されているのを総長は読まないのではないか。理由書を見ればすぐわかる話で控訴の余地はないと私は思う。
 また総長は、竹内師の管長職に関しては裁判所は法主側を退けた、いわば双方半々の判決だ、と語っているようだが、総長は政教分離の日本国憲法第20条を知っているはずである。裁判所は宗門大谷派の宗憲の管長職に命令は出せないのだ。大谷派規則の大谷派代表役員として大谷師の職務執行を生かし、宗憲第15条の管長は大谷派を代表する、に対応させているのである。判決は竹内師を全面的に退け、法主側を全面的に認めたので半々の判決などは全くの見当違いである。
 この故に宗務総長は、高裁控訴など一切ご無用にし、むしろこの判決は裁判所が大谷光暢法主管長に向かって実質的には大谷派にとどまりなさい、 本山離脱の必要はありませんと勧めている有難い内容を静かに尊重し感謝しなければならない。
 すなわち宗務総長は実にこのタイムリーな、絶好の仮処分判決に力を得て法主の本山離脱阻止に全力を挙ぐべきではないか。
 また、竹内良恵師は、自分は宗門の推戴会議で推されたから裁判所の判決は無視する、といっているようであるが、そもそも国家の裁判所の仮処分命令を無視するとは誠に理解に苦しむ。仮処分は保証金が供託されてすでに発効しているのである。
 大谷光暢法主が竹内師の新潟県の自坊に内容証明で竹内師の得度取消しの通知を出したことが報道されているがアウト・ローになってはその緩和が困難になろう。よく考慮してもらいたい。

年頭に思うこと

 いつも新年には足利時代の昔、明応2年(1493)79歳の蓮如上人のところへ年賀に伺った勧修寺村の道徳坊に向かっての蓮如上人のことば「道徳はいくつになるぞ、道徳、念仏もうさるべし」が思われる。
 大谷派のことで、寝ても起きても心配でならない私の苦悩の暗さは、この師弟の対話の明るい情景と対照させられるのである。
 本山東本願寺を正常化し、真宗大谷派を昭和36年のご遠忌当時のような平和な念仏宗門にもどしたいと、恥かしい老年になりながら、まだ死にきれず右往左往している私は、明治の先輩の書き残されたように「絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの」すなわち自分と思わねばならぬ。この大先覚者は昭和29年秋、病軀34歳にして洛北白川村に立てこもって白川党といわれ、大谷派の精神的革新を鳴動し、全国同盟会を組織された。 持病の肺患の喀血と周囲の反対と宗門除名を受けても屈しなかった。その革新宣言の冒頭にはつぎの言葉があった。
 「抑々余輩の所謂根本革新なるものは豈唯制度組織の改良をのみこれ云はんや、否、制度組織の改良は寧ろその枝末のみ、其の称して根本的革新といふものは実に精神的革新にあり」と。
 そして批判の焦点は、あくまで宗門行政の当事者であって、法主ご住職管長台下に対しては深く尊崇し非常に敬虔であった。
 現在の大谷派紛争においては、法主管長を補佐すべき宗務総長内局が与党多数の力をたのみ、法主管長と抗争し、管長制の廃止、宗務総長の独裁制を企て、宗教法人本山東本願寺を解散し、ご住職法主を廃止する宗憲改正をもくろみ、精神的革新は全く、その気配さえ見せないのである。
 大谷光暢法主も自身ご反省はある筈であるが、総長内局及び与党の非礼無謀な意図の前には、止むなく本山東本願寺の大谷派離脱を宣するに至った。これは慶長7年(1602)、真宗大谷派東本願寺の創祖教如上人以来の重大事態である。
 総長内局は、これに対して全国各教区に離脱反対の官製の署名運動を試みているが、これは自らの無謀非礼な東本願寺解散、法主住職管長廃止、宗務総長独裁の宗憲改正案が本山離脱の原因である事を忘れた見当違いの行動である。
 しかし、幸いなことに管長台下並びに有志宗議会議員及び門徒評議員による京都地裁への仮処分命令申請が勝訴となり、「竹内良恵は管長代表役員の職務を執行しうる立場にはない」と断定されたのである。即ち法主住職台下の管長職が保証され、法主住職台下は大谷派離脱の必要がなくなったのである。嶺藤総長内局にとってこんな有難い判決はない。
 しかるに全国の教区に離脱反対の署名運動を起させている宗務総長は、管長台下の大谷派離脱不要という判決に反対し控訴したのである。何という矛盾であろうか。
 裁判所が宗内規定の管長職については憲法第20条の信教自由政教分離の立場から仮処分判決主文の対象とするのを避けているが、政府の認証する真宗大谷派規則第5条の代表役員の職を依然として大谷光暢法主に保証したのだ。
 その第5条とは「代表役員は宗憲により、この宗門の管長の職にある者をもって充てる」とあるので、代表役員が保証されれば管長の地位は当然保証される。だから主文に記す必要はない。
 判決書によれば、管長の権利義務は法主の権限領域たる教義信仰生活、重要儀式等純粋な精神的内面的宗教活動を除いた残余の側面全般に及びこれを代表主管するもの(宗憲第15条)で、大谷派代表役員の職位の中に包含されるもので、「実際上の役割変動がない」と明言しているのである。
 故に大谷派を主管し代表する管長職は、宗門内外の区別はなく宗門全体に妥当するものなのである。しかるに宗務総長は、竹内良恵師が対外的にのみ行為する代表役員の職務の執行を停止されたが、宗門内部に対する管長の職務は執行されるといって控訴した由であるが、判決書は「代表役員は唯一無二の機関である」といっている。したがって代表役員の職務を対外的にのみ行為する、などの制限はない。これは裁判所ならずとも常識でわかる。同時に管長は宗門の内部のみに対する職位ではない。大谷派を主管し代表する、と規定してある管長の職位は、宗門の内外全体に及ぶことは、これも当然のことで、私は宗務総長のこの誤解は正さるべきだと思う。
 それよりも宗務当局は、判決書が管長推戴会議の違法と亡状を非難し、竹内管長推戴の決議は無効であると判定し「依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長、したがって法人大谷派の代表役員の地位にある、というべきであり、竹内良恵はそれらの地位になく、管長、代表役員の職務を執行しうる立場にはない」と明記してあるのを、総長は見ないのであろうか。暮れの27日、法務省の指示で法務局は竹内師の代表役員登記を却下しているのである。
 総長が竹内不法管長に固執して控訴することは、大谷管長に離脱の必要なしとの裁判所の保証に反対して、大谷管長をして宗派から離脱させることを意味する。 宗務総長は、この重大な矛盾どう着を反省し、直ちに控訴を撤回すべきである。
 総長が控訴の挙に出れば、われわれもむだな応訴をせねばならず、大谷派は今回の判決によって法主の離脱が解消され、宗派も本山本願寺も一切の訴訟をやめ、明るい正月を迎えるきざしが現われたのを、また元の紛争の泥沼にもどすことになる。
 ことに離脱問題を機会に、新たに宗門外の第三者の人たちが法主住職台下を助ける意向と聞くが、管長補佐第一号の責任ある宗務総長として、この現実を看過してよいか。宗務総長は第三者の介入を促進させる気か。
年頭にあたって嶺藤総長及び与党多数議員各位の猛反省を望む。

大谷派は国法を重んぜよ

 昨年3月26日の無法な管長推戴会議で違法に管長に就任した竹内良恵師に対し、4月以来大谷光暢法主管長及び宗議会議員中山理々、橿原信暁、門徒評議員大村形策等3名が二手に別れて、京都地裁に向って『竹内良恵師は真宗大谷派管長・代表役員の職務を執行してはならない』という同一の仮処分命令を申請した。
 京都地裁杉本裁判長は12月14日、この申請を容認して1、竹内良恵は真宗大谷派代表役員の職務を執行してはならない。2、真宗大谷派は竹内良恵をして真宗大谷派代表役員の職務を執行させてはならない。と判決主文の命令を下した。また3、その会の申請を却下すると記された。
 裁判所の審理によって、3月26日に嶺藤宗務総長が違法に招集した管長推戴会議の亡状が明るみに出て、裁判長から会議の無効が確認され、判決書に『依然として大谷光暢は宗門大谷派の管長、したがって法人大谷派の代表役員の地位にある。竹内良恵はそれらの地位になく管長・代表役員の職務を執行しうる立場にはない』 と明記された。
 ところが右の仮処分命令宣告の日付で大谷派宗務所総務部から出された通知書には、右仮処分命令を曲解し仮処分命令を無視するがごとき内容がある。これは竹内側の敗訴に狼狽し、判決書を通読せず、主文3の『その余の申請却下』の意味を正解しなかったためと思う。
 『その余の申請』とは、竹内良恵師は真宗大谷派『管長』の職務を執行してはならない、という申請である。
 裁判長は理由書の中で、管長は『宗憲上、法主とともに重要な地位というべきである』が、 『宗教活動上の地位であった裁判所法第3条「裁判所は一切の法律上の争訟を裁判し」にいう法律上の地位でないから争訟性がないので、宗門内の管長の職務執行については干渉しない』という趣旨を述べて、判決主文の重点を国家の認証した大谷派規則第5条の『代表役員』が真宗大谷派唯一の代表機関且つ執行機関である、という立場から『代表役員の職務をしてはならない』と命令を出せば宗教団体だからそれで充分であろう、と
考えたのであろう。宗教者の良心を信じたのである。
 しかし、真宗大谷派規則第5条に『代表役員は宗憲によりこの宗門の「管長」の職にある者をもって充てる。 代表役員は、この法人を代表しその事務を総理する』とあり、宗憲第15条に『本派に「管長」一人を置く、「管長」は本派を主管し代表する』とあるから、代表役員の職務を執行してはならない、と命令されたものが管長になれるわけがない。
 ことに判決理由書には、前記のとおり管長推戴会議の無効が明らかにされている以上、竹内良恵師の管長就任は存在しない。
 故に宗務所総務部のいう『宗門内部に対する管長としての職務は今後も竹内管長によって執行せられることに変りはない』とはどこから言えるのだろう。内部も外部もない。 竹内師は管長に推戴されなかった人なのである。 裁判所に対して恥かしい言葉だ。
 次ぎに、『対外的にのみ行為する代表役員の職務についてはその執行を停止する旨の判決』と書いているが、代表役員の職務は真宗大谷派の『唯一の代表機関且つ執行機関』である。対外も対内もない。すでに対するものである。さらに管長推戴会議無効と判定されたことが書いてあるが、それなら竹内管長は不存在だから管長の職務が『今後も竹内管長によって執行せられる云々』は全くおかしい。
 最後に当局は判決を不服として控訴する、とあるが無理ではなかろうか。 訴訟費は門信徒の上納金の艦費になりはしないか。
 推戴会議無効の判定によって竹内管長は消滅し、竹内師の大谷派代表役員の職務を禁じている仮処分命令は控訴のいずれにかかわらず、3月26日の推戴会議直後から実行されるのである。
 仮処分命令は国家の緊急命令で、本訴確立までは国民の誰もが守らねばならぬ。 宗教者は例外というわけにはゆかない。
 竹内師は4月1日に管長として嶺藤総長以下4名の参務を任命した。これが無効なのである。大谷派はいま総長・内局不在である。
 また竹内師が管長として招集した6日及び12日の宗議会、門徒評議員会は無効である。これは早急に招集しなおさねばならぬ。
 さらに竹内師に任命された宗務総長・内局参務の行った4月1日以来の宗務はすべて無効である。
 これらの是正は大量の宗務所事務となる。しかし、これを行わなければ真宗大谷派は国民の遵法義務から外れ、日本国のアウト・ローとなり、宗門はいよいよ大混乱の渦に巻き込まれてゆくだろう。

大谷派正常化は裁判所への愚弄か

 国家の裁判所の判定は多数決ではなく一人の裁判長の意見である。しかも、それが仮処分であるとき、本訴なり控訴なりが確定するまでは原告と被告も、いやしくも日本国民であれば従順にその判定に従わねばならぬ。
 しかるに竹内良恵師の大谷派代表役員職務執行停止の仮処分命令があるにもかかわらず、真宗大谷派は竹内良恵師が大谷派の代表役員として行った職務執行を取り消していない。
 昨年12月14日の京都地裁の仮処分命令は『竹内良恵は宗教法人真宗大谷派代表役員の職務を執行してはならない』 とある上『真宗大谷派は竹内良恵をして真宗大谷派代表役員の職務を執行させてはならない』と重ねて命じているのである。これに対し、竹内師自身もまた真宗大谷派の代表役員管長大谷光暢師も今日まで一ヶ月以上、この命令に従わず全く無関心であるのは法治国に住むものとして何という非国民的な態度であろう。
 被告にあたる被申請人竹内良恵師は、判決書の中に『管長推戴会議の決議は、結局無効というべく依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長、したがって法人大谷派の代表役員の地位にある、というべきであり、竹内良恵はそれらの地位になく、管長、代表役員の職務を執行しうる立場にはない』 と明記してあるのである。
 憲法20条の政教分離の精神により裁判所は裁判所法第3条で『一切の法律上の争訟を裁判』するだけに限定されているのである。故に宗門の内規たる宗憲による職位たる管長の職務執行停止ということに立入って主文で命令することはできない。したがって国家の宗教法人法に基く宗門の公認規定たる真宗大谷派規則の範囲で、大谷派の代表役員の職務執行を二重に停止する命令を出すにとどめた。
 裁判所としては、相手が宗教家であるから判決書の判決理由書を見れば良心的にわかってくれるであろう、という考えと思う。これは本欄ですでに述べたところであるが、今、裁判所の大谷光暢現管長の地位保全の必要性の記載を抜粋して見よう。

『竹内は管長代表役員の地位にあるとして宗議会を招集し、嶺藤亮を宗務総長に任命するなどの行為を行っていることが認められ、このことよりすると、竹内は代表役員として今後も内外の職務を行っていくことが予想される。したがって現に法人大谷派においては二人の代表役員が相対立して権限を行使する現象が存し、対外的にも対内的にも、更に一層の収拾し難い状況に発展しうる混乱が現に存し、それによって生ずる損害は大谷光暢らが将来本案訴訟における勝訴判決によっても回復しがたい現在の著しい損害というべきである』

と仮処分命令の重要性を述べているのである。
 竹内良恵師は裁判所に、これまでいわれてもなお不法な管長として嶺藤総長及び参務を任命したことや宗議会や門徒評議員会を違法に招集したことを取り消し得ないのか、裁判所は一票だ、自分たちは宗議会の多数をもつからかまわない、というのか。裁判所の判決を無視するなら真宗大谷派は法治国家否定の秘密結社に脱落してしまう。これで宗門の正常化などとよくもいえたものだ。
 勝訴になった大谷光暢法主は判決の日に期待が実現された喜びに溢れていた。私も原告として宗門のあかるい夜明けと思って心からなる喜びを申し上げたのである。
 まず法主台下は宗門唯一の管長代表役員の地位が国家の裁判所によって保証され、二人管長の混乱が解消されたのである。 保証金も自ら直に納付された。
 昨夏嶺藤内局の計画する本山東本願寺解消、法主門跡管長の廃止等宗務総長ファッシズムの宗憲改正案が発表されて以来、非常なショックを受けられた法主台下は止むなく本山東本願寺の宗派からの離脱を宣せられた。 悲痛な11月6日の声明は、今回の仮処分命令によってまったく解消されたのである。
 宣言の日に本山にはり出された『信者並びに利害関係人各位』あての『被包括関係の廃止の公告』というドライな掲示は不要となり内事門に下げられた『東本願寺々務所』の看板もなくなるはずである。さらに離脱独立に入用な運営資金調達のため枳殻邸を譲渡担保に設定したといわれるが、これも不必要、登記は抹消で枳殻邸は健在となり、枳殻邸蒸発などという寝ざめのわるい悪夢も解消である。
 しかるになにごとぞ、法主台下は今もって宗派の管長、代表役員としての離脱声明キャンセルのご発表がない。12月初旬の離脱親書の取り消しもなく、われわれには耳新しい名の仮責任役員とか仮総代とかいう不動産屋や金融業者に取り巻かれて、法主台下のご意志がもうろうとしているのである。
これはゆゆしき大事である。
 私は被申請人被告竹内良恵師の仮処分命令無視を批判してきたが肝腎の申請人原告として裁判所から明確に大谷派管長、代表役員の地位を保全され、判決の日にも非常なご満足であったが、法主、管長台下は仮処分命令に従ってまず本山離脱の中止宣言をなされ、法主管長台下を不法に押しのけて専横に振舞った竹内師の不法行為のすべての取り消しを命じ、4月1日の総長内局の任命から宗議会、門徒側役員の招集から一切の達令まですべてを台下がやり直し是正せられ、ご一派の宗務を明るく正しく主管総理なさるべきである。
 法主台下は嶺藤総長、 五辻議長らと最近会談せられ、新聞ではトップ会談などといっているが、この原被両告は裁判所の命令をどう実行するつもりか。そのことは当然話し合われなければならない。
 いやしくも真宗大谷派を正常化するという掛け声を叫ぶ総長、議長並びに宗議会の与野党は、まず宗門の国民的義務を正常にうけとめなければならない。脚下照顧せねばならぬ。
 法主ご住職台下は二度目の書類送検を受けていられる。管長として裁判所に地位保全を訴え、裁判所が適正と認めて台下の法主管長位を保証して原被告に命令した現時点である。それを原被告が実行せず無視するようだったら国家は真宗大谷派なる宗団は裁判所を愚弄する、と判断するに相違ない。
ことに法主ご住職台下は昨年7月に続いて今月また背任の疑いで二度目の書類送検をうけていられる事態になっている。今台下が裁判所の心証を損ねることは宗門にとって何という冒険であろう。

大谷派をめぐる問題点

真宗大谷派門徒衆の声なき声

 真宗大谷派金沢教区宗門興隆の会代表吉藤暢祥師は、願慶寺 善性寺・弘願寺並びに金沢東別院を会場として1月25・26の両日にわたり、京都から大谷光暢法主並びに裏方を招いて『東本願寺を守る門徒大会』を盛大に開いた。
 大谷派宗議会の多数与党の上に安坐する宗務総長内局が、宗祖親鸞聖人の第12代教如上人の東本願寺創立以来370余年の伝統たる法統の血脈相承を否定し、師主・法主・門跡を廃止して東本願寺を解散し、一切の権利を宗務総長の手に収めようとするファッシズム独裁体制計画に対する一般門信徒衆の声なき声の爆発的な表現であった。
 昭和37年、訓覇宗務総長の発表した同朋会運動の観念的・非民主的・官僚的体質に対して、声なき声の門信徒の抗議はすでに昨年秋以来、全国各地で盛り上ってきているが、今回の一連の集会の中で、 金沢別院満堂の盛会前に出雲路善嗣輪番が当日、別院を封鎖閉扉しようとした暴挙があったことは遺憾であった。
 主催者たる金沢教区宗門興隆の会では、開会一週間前に金沢別院住職を兼ねる京都の大谷光暢法主から別院宛に、金沢教区巡化の際の26日午後に本堂使用通知が発令されていたので、別院封鎖などとは思いもよらなかったろう。
 ところが22日に出雲路輪番は当日の本堂使用不許可を主催者に通知してきた。これは宗務総長の方針に媚びたものであったろう。しかし、 別院輪番は別院条例第7条・第8条によって住職・法主の『任命する』ところである『住職の命を受け寺務を代表する』職位にある。輪番は大谷光暢住職から巡化による本堂使用の通知を受けたならば、一も二もなく開扉して住職一行を迎うべきで、輪番の別院使用不許可は不法である。
 しかるに24日、さらに別院責任役員会3名が本堂不使用を決議したといって、当日は終日閉扉すると再び主催者側に通知してきた。
 別院の責任役員は、代表役員たる住職大谷光暢法主の巡化による別院本堂使用通知に対抗できる地位ではない。ことに金沢別院総代会では封鎖閉扉を承知しなかったのである。総代は『別院の護持経営に関して勧告及び助言を行い』、別院の『興隆に努めなければならない』のである。この総代会が住職法主のご巡化に際し、別院本堂を閉鎖するなどということを拒むはずはない。
 責任役員会には輪番や教区会議長が入っているから、強引な閉扉決議を行ったのであろう。しかし責任役員会は代表役員兼責任役員たる大谷光暢住職が招集すべきものである。住職・法主不在、不招集の責任役員会を開いて決議しては違法である。輪番の行動は領解に苦しむ。中央の宗務総長や宗議会の議長の違法・不法を地方輪番が模倣していることもいえる。
 しかも出雲路善嗣輪番は、12月に京都地裁から仮処分命令を受けて管長無効を宣せられた失格の竹内良恵師によって任命された無資格者で、大谷光暢住職から正式に任命されていないのである。大谷派宗門の混乱は底なしの泥沼である。
 しかし、主催者側としては26日の当日、大谷光暢住職法主一行を迎えて本堂閉扉では大変である。万一の場合には本堂前の青空巡化を覚悟して、いく張りかの大テントを用意するとともに、当日午前6時頃、住職大谷光暢法主名で金沢地裁に異例の開扉仮処分命令を申請した。法主は自分の住職する別院本堂に参詣するために裁判所へ提訴したのである。何という恥かしい真宗大谷派であろう。本堂前には、午前9時頃から熱心な門徒が参集して500名以上にも上りテントの陰で午後の大谷光暢法主一行9名の到着を待った。しかるに境内の一角にある納骨堂には嶺藤総長が立てこもり、『教団問題を学習する会』の開催を叫んで法主一行待ち受けの主催者側を攪乱しようとし、みっともないマイク合戦が始まった。
 正午、輪番が施錠した本堂の廊下づたいの本堂通路の鉄扉が開いていたので、数名の門信徒が本堂に入り、内側から本堂全部を開扉して本堂封閉の貼り紙をはがし、堂前で朝から待機していた1200人の門信徒を一気に堂内に入れ、寺尾一陽・宗門興隆運動副会長はマイクで、法主台下の話を聞きましょう、真実のお念仏にすがりましょう、と連呼した。
 同時に到着した大谷光暢住職法主並びに裏方、明照院連枝、一行が外陣の席につき講堂の門信徒の称名念仏があふれ、勤行の後、法主は止むなき本山の宗派離脱の心情を語られ、裏方もついで挨拶の後、門徒は質問の形で、法主とともに行く、うやまう気持ちが大切、相続講の問題などの発言があって、満堂和気あいあいとして群がる老若の参詣者の中へ入られた法主台下らは、ひとりひとりに握手された。
 私は、この模様を吉藤暢祥師から伺い、また北国新聞の写真記事などを見て有難いことだと感銘した。
 ただし、本山本願寺の離脱は宗祖親鸞聖人に対して、派祖教如上人に対しても申しわけのないことである。 大谷光暢法主の胸中は察するに余りあるものといわねばならない。
 一刻も早く嶺藤内局は、観念的で無謀非礼な宗憲改正案を撤回し、違法な推戴会議開催の責任をとって辞職し、ご疲労の極にいられる大谷光暢法主台下のご退隠を願い、大谷光紹新門跡を全面に仰いで真宗大谷派10年の混乱に終止符を打たねばならぬ。
 私はこれを大慈大悲の阿弥陀仏に祈念するものである。

大谷派法主は堂々たるべし

 今月3日、福井別院で東本願寺伝統護持大会が開かれ、法主・裏方・明照院一行が出席し、1200名の僧侶・門信徒が本堂いっぱいに集まった。先月の金沢別院の時のように、みな法主を拝み念仏を申すのである。
 法主が『心配をおかけして心苦しい、日夜解決のため努力しておる、皆さまも念仏とともに本願寺をもりたてて欲しい』と挨拶すれば、一も二もなく会場は念仏唱名となる。 大会長西島泰英師によって左の決議文が披露された。
1、管長補佐を故意に果さず宗門混乱の原因となった嶺藤内局の即時退陣と、本願寺の解体を内容とした宗憲改悪を企図する所謂改革派の責任を追求する。
2、本願寺の独立宣言は、已むを得ざる措置としてこれを支持する。
3、本山本願寺を中心に発展した真宗の伝統に立って本願寺と行動を共にする決意を有する。
4、上納金(大谷派割当御依頼等と称するものを含む)を停止するとともに宗派による企画活動に協力しない。
以上の決議を聞いた法主は気をよくされたかもしれない。
 しかし第2項の『本願寺の独立宣言は已むを得ざる措置としてこれを支持する』は慶長7年(1602)第12代教如上人の東本願寺建立を中心に集って今日の真宗大谷派一万末寺となった伝統を破るものである。
決議第3項の『本山本願寺を中心に発展した真宗の伝統に立って』というならば本山本願寺が一万末寺から離脱孤立することは出来ない筈である。
いま一万末寺から選挙された一握りの僧侶で組織する大谷派宗議会の多数が、その委任による総長内局とともに宗憲を改正し、歴代の師主を否定し、法主、管長を廃止し安心(あんじん) 信仰の正否は末寺代表の合議制で定めることとし宗祖親鸞聖人、派祖教如上人の御血統を尊ばないことにしようとしているのである。
 これは明らかに近く東本願寺の派祖教如上人以来の『本山本願寺を中心に発展した真宗の伝統」を破壊するものにほかならない。
 末寺の集まりが多数決で本山中心の伝統を破壊しようとするとき第24世大谷光暢法主はこれを阻止する権利と義務がある。
 法主は4月、京都地裁に提訴し違法無効な3月の管長推戴会議で指名された竹内良恵師の管長職追放を求め、 ご自分の管長の地位保全を要望されたのである。幸い、これに対し裁判所は12月中旬、仮処分をもって法主の要求の通り、『依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長したがって法人大谷派の代表役員の地位にある』『竹内良恵は管長、代表役員の職務を執行しうる立場にはない』 と判決されたのである。
 法主は裁判所に要請した道義の上からしても、この判決を実行せねばならぬ。
 裁判所の判決は当然のことを言ってくれたのである。 大谷光暢法主は正しく大谷派の管長であり代表役員である。法主は本山本願寺の伝承を守り宗憲に忠実な立場で自ら管長室に出向されて違法な偽管長を追い出し、堂々宗憲条例に基いて日々の宗務を正常化すべきである。法主の大失態である借財問題も法主の深い懺悔の下に正常な解決を見るべきで違法な本願寺財産売却などで整理せらるべきでない。
『本願寺の独立宣言は已むを得』るのである。直ちに取消さるべし。そして決議第1項にある違法な嶺藤内局を処罰し宗憲改悪案の中止を命ずるのである。一千万門徒の声なき声はどんなに喜ぶであろう。
 決議第1項にあるがごとく、いま大谷派の総長内局、宗議会が非違を強行しているのを横目に見て、一万末寺を捨てて本願寺を独立さすのは、せまい声聞(しょうもん) 根性で、日域大乗相応の地といわれた宗祖親鸞聖人の堂々たる教えの伝統に反する。
 法主は宗門の管長・代表役員である。法主には大谷派を主管する権利と義務が宗憲に明記されている。大谷派においては宗務総長や宗議会議長が最高責任者ではない。師主法主が最高の責任者である。法主は三位一体の宗門最高の責任者として、ことに宗祖親鸞聖人、派祖教如上人に対し第24代法主は特別な大責任がある。この責任を果すからこそ一万末寺・一千万門信徒が合掌念仏するのである。
 裁判所からも大谷派管長・代表役員と判決されながら、違法無法の連続であり仮処分命令を『一辺の裁判官の解釈』として一蹴しようとする国法無視の嶺藤宗務総長を免職もし得ず、伝統破壊の宗憲改悪阻止もせられず、ただ宗派を離脱して、本山独立の蜃気楼に酔っているのでは、結局北陸各地で念仏もろとも法主台下一行を随喜合掌した純真な僧侶・門信徒は、法主を御同情申す一方にやはりたよりなく思うだろう。『本願寺をもり立てる』とは、本山本願寺一カ寺のことではない。 ご本山と切っても切れない長い伝統で本末関係にある大谷派一万末寺を含めてのことである。

真宗大谷派本山東本願寺の宗派離脱認証申請を直ちに取下げよ

 真宗大谷派東本願寺の宗派離脱は昭和54年2月21日、ついに、その認証を求める申請書が京都府知事に提出された。しかし、これは撤回されねばならぬ。
 17世紀初頭(1603)、徳川家康が征夷大将軍として江戸幕府を開いた前年、親鸞聖人の第12世教如上人は石山戦争後、信長に睨まれて廃嫡となり、20年間不遇であった。それを家康が同情して烏丸通りに東本願寺を建てさせたのである。
 父顕如上人の長男茶々麿として、仏敵織田信長と11年間戦った勇敢な若い教如上人の故なき長年のちっきょは全国的な同情を買い、背後の徳川幕府の力も働いて全国の一向宗の院家や有力寺院が東海・北陸を中心に、一斉に京都の新門教如上人の新しい東本願寺の下に末寺として崇敬を誓ったのである。
 教如上人を慕いもり立てるために全国大小の寺院が集まって東本願寺を本山・本寺と尊び、自らを末寺と称した。 宗祖第二世如信上人を初めとして嗣子相承制である本山住職は、宗祖のご高徳を肉身に嗣ぐお方として累代末寺の尊崇の中心となった。すなわち東本願寺には派祖教如上人以来のご血統直系のご住職が尊崇されている。
 本山東本願寺は京都に一軒立ちで孤立している伽藍ではない。本山本願寺は一万末寺があっての本山本願寺であり、一万末寺はまた、本山本願寺がなければ崇敬の中心を失って存立の宗教的意味がない。 本山本願寺プラス一万末寺イコール大谷派本願寺宗門なのである。
 本山東本願寺が一万末寺から離れるということは、派祖教如上人以来築き上げた伝統的現実、すなわち歴史的宗教的現実からいってナンセンスなのである。
 何故このナンセンスが現代に登場しようとするのか。近年は末寺側において、宗祖の血統の累代のご住職に対する尊崇の念が冷却しはじめたためである。
 大谷派東本願寺の、明治時代の第22代を現如上人が、本山両堂再建という雄偉な大業をなし遂げながら晩年の明治41年(1908)に時の政府から退任を勧告されて、 第23代彰如上人句仏法主に譲ったハプニングがあった。しかるに、句仏上人もまた、晩年経済的に破綻せられ僧籍剥奪・限定相続等の悲劇の中で、現在の第24世闡如上人光暢法主が嗣子として父上人の原被告にわかれて相続形式を法廷で裁定してもらったような恥弄の襲職であった。しかるに、その光暢法主はいま、手形濫発で末寺代表の宗議会が選んだ宗務総長に刑事告訴を受けている。
 明治末葉から大正と昭和戦後に亘る70余年三代の本山住職善知識の連続的な不出来は、東本願寺の法主住職生き仏の歴史的伝統を曇らせた。これは淋しい事実である。
 終戦の翌年、昭和21年9月に現大谷光暢管長が公布された宗憲及び本願寺法は、句仏上人の不始末を受けて法主の独走を防ぎ、法主が大谷派の宗務を行うには末寺の代表者会議である宗議会の代理をする宗務総長内局の補佐と同意にたより、法主は管長として宗派を主管し代表するけれど行政は内局が行い、また法主は本山本願寺の住職として本山を代表し本務の寺務を総理するけれども、その寺務は内局が宗務所の各部門で行うのである。
 ここで法主・住職・管長の三位を兼ねる宗祖血統の主管し総理する地位に対し、一万末寺代表者の実務力が台頭したのである。一見これは戦後の主権在民の新憲法に似ている。
しかし、政治集団の規約と宗教団体の規定はその本質が違う。
 日本国憲法では天皇家と国民の間に本山末寺の関係は逆である。 主権在民の精神からいえば国民が本(ほん) であって天皇家は末(まつ)でなければならない。
すなわち、大谷派宗憲は第1条に、 本(宗) 派は真宗大谷派と称し本山本願寺を中心として寺院教会・僧侶及び檀徒信徒を包括する宗門である、と明記し、公認の宗教法人真宗大谷派規則はこれをうけてこの法人はこの宗門の規程たる真宗大谷派宗憲による、といって宗憲の本末の差別を尊重している。
 宗憲では浄土真宗の法統を伝承するものを師主とし、師主は法主と称し本山本願寺の住職がこれにあたり、広く人心を教化し宗意安心の正否を判ずると記され、本山寺法ではさらに、本山本願寺の住職はこの宗派の僧侶の師範であって門徒の教化を指導する、と定められ本願寺は真宗大谷派唯一の本山であって全寺院教会の本寺とする。 大谷派に所属する寺院・教会・僧侶・門徒は本山を崇敬の中心として護持しなければならない、と書かれている。
 日本国憲法において天皇は、何か精神的なものを国民に伝承する師主でもなければ、信心の正否を判別したり人心を教化する権利も義務も明文に無い。また日本国民は天皇家を崇敬護持する責任を科せられていないのである。
 すなわち日本国憲法は人権に基づく平等の規定であって、信仰心に基づく本末上下の規定でないからである。
 宗教団体には崇拝の核心が必須である。すなわち師主が中心で宗門は成り立つ。
 例えば宗教法人立正佼成会規則では、会長(庭野日敬)は立正佼成会を統理する。30名の理事会が大谷派の宗議会に当るが、宗議会議員たる理事は選挙でなく庭野会長の任命である。立正佼成会の代表役員は理事長で会の事務を総理するが、これも会長の任命、その母体の責任役員11名も会長の任命で、大谷派の末寺に当る国内国外の各教会の支部の設立は会長が決定し、住職に当る教会長も支部長もみな会長が任命するのである。
 これでこそ立正佼成会員450万名は安心して一糸乱れず宗教的満足に勇むのである。
 いまわが大谷派は、一万末寺代表の宗議会多数党を代理する宗務総長が宗憲を改正して師主・法主の称号を廃し、宗祖の血統伝承を認めず本山本願寺を解散し、これを大谷派の宗教法人と合併し、管長制を廃止するとともに末寺代表の宗務総長が本山本願寺の全国的な巨額な動産・不動産を掌中に収め教如上人以来370余年本山本願寺を中心とした全国一万ヵ寺の大組織の運営支配を独裁しようと計画しているのである。これは教如上人以来、本山本願寺を中心に末寺一万ヵ寺の発展を見た数世紀の宗教的伝統の逆行であって、末寺が本山を臣従させようという正しく本末転倒の形である。宗務総長は無謀にも、宗門の信仰教義も流動的に協議制の多数決で行こうというのである。多数決は政治の運営方法で永久不動な礼拝の中心を求める宗教団体の原理ではない。
 ここ数年、大谷光暢法主の失態は眼に余るものがある。それが四男明照院連枝の誤まった提言によるものであろうとも、今日東本願寺本山真宗大谷派の大混乱の責任は大谷光暢法主にかかる。しかし、本山本願寺の住職・法主・管長として、末寺代表の宗務総長に違法無法な管長職解任が決議され、宗祖の血統に非ざる一末寺住職の管長就任を見ては怒り心頭に発したのは当然であろう。
 しかも末寺代表に過ぎない宗務総長が、派祖教如上人以来の本山本願寺の累代師主法主の地位を解消し、宗祖の法統の伝承を認めず、本山本願寺の解散などの宗憲改正を策するに至っては、光暢法主も止むなく宗教法人法の離脱自由の原則によって11月6日、本末の関係を捨てて本願寺の宗派離脱を声明されたことももっともなことと同情に耐えない次第である。
しかし、幸いにして越えて12月14日に京都地裁は、大谷光暢法主に対し宗務総長の違法な管長推戴会議の無効を判定し、依然として大谷光暢法主が大谷派管長・代表役員の地位にあり、竹内良恵師は管長・代表役員の職務を執行し得る立場にはない、という仮処分を言い渡したのである。
 これによって竹内良恵師は直ちに管長室を去り、大谷光暢法主が晴れて管長室に出向かれ、不正な竹内管長の行った宗務を正し、次いで宗務総長の無謀非礼な宗憲改正案を否定し、さらに昭和52年以来しばしば管長代務者を僭称し裁判所から3回に亘って、その職務執行停止の仮処分を受けながら、これを無視して執行した2年間の宗務総長の不法宗務も是正され、宗門は全く正常化一色の明るさをとりもどし得る絶好の時期を迎えたのであった。
 しかるに何ぞや、竹内師は裁判所の仮処分を無視して相変らず管長室に納まり、大谷光暢法主またこれを傍観して無関心である。そして、あるいは東海に、あるいは北陸に、たびたび巡化して本山の宗派離脱を説き、今月21日ついに京都府知事へ離脱認証の申請書を提出される挙に出られたのである。
 光暢法主は管長として昨年4月偽管長竹内師の職務執行の停止と自身の管長職位の保全を京都地裁に提訴され、宗議会議員及び門徒評議員会有志も同じ提訴に従った結果、原告なる光暢法主の主張が完全に認められる勝訴になったのである。
 しかるにいま、地裁の要請どおりの判決を棄て、府庁に宗派離脱の認証申請を提出することは国家の裁判所の仮処分命令に背くもので、裁判所を弄ぶ形となる。 いやしくも大宗派の法主・住職・管長たる公人の行動とは思われない。国家の裁判所を愚弄する結果になるとすれば、その法主が広く人心を教化できるであろうか。 法主は自ら宗憲を無視することになるのである
 かつ大切なことは、教如上人以来慕い集まって本山本願寺を崇敬の中心とし、その護持に生き甲斐を感ずる純真な全国30教区の末寺を置きざりにする形は、宗祖聖人に対し何と申わけするお考えであろうか。
 宗務総長は直ちに宗憲改正案を撤回し、竹内師は即刻管長室をあけて、ともに末寺代表の寺院住職として本山本願寺住職・大谷派管長たる大谷光暢法主の前に改悔懺悔して本山本願寺の宗派からの離脱中止を乞い、その認証申請の書類を京都府知事から取り下げるよう懇願すべきである。

大谷派法主の玲瓏性

昭和54年1月下旬から週刊文春に連載されている「東本願寺の十年戦争」では、最近その十回目に大谷光暢法主と裏方、それに紛争渦中の人物明照院連枝、武内克磨、三池新二門徒総代とのインタビューが披露されている。
 この記事では、疑惑の核心の一つたる福田氏から一億一千数百万円、幡新氏から三千万円、その他諸々の手形の額面二億数千万円の使途などが質問された。
 しかし法主は『二億数千万……わからんな』と答え、裏方も『知りません』と答えていられる。
 執筆者の上之郷記者は『はっきりさせておかないと、ご法主、お裏さんに余計な傷がつくことになる』 それで『そういうことはないということを証明する機会をお与えしているわけですよ』と申上げるのだが、明照院連枝が口を出すためか、法主から記者の納得の行くような発言がない。
 明照院や武内氏らの読むにたえない祇園あたりでの遊蕩ぶりが前の文春に出ているが、それに対しても、お裏方は『明照院が変なことしてるとかなんとか・・・遊んでばっかりいてとか。そんなことはありませんよ』といわれるだけである。
 上之郷記者は結局、こんにゃく問答で引き下り、かえって『大変率直な人柄』の光暢法主と『大変聰明な』智子裏方のペースにふりまわされたようである。
 大谷光暢法主や裏方は、ひとにどういわれようとも、それをちっとも気にしない、弁解しない、ひとにわからせようとはなさらないところがある。
 昭和48年暮れの宗議会議員の総選挙で与野党が逆転し、嶺藤師が宗務総長に選ばれたが、法主は管長として総長任命を2ヵ月渋った。その時は各教区から動員された白だすき、メガホンの、嶺藤派の若い僧侶団が門前にピケを張ったりして、大谷邸を囲んで数十日間喧騒を極めた。しかし法主も裏方もノイローゼになんかならない。いつも微笑を含んで平気なのである。私たちは、その泰然自若玲瓏たる態度に驚嘆した。
 嶺藤総長就任直後、法主は総長の詐術を体験し、総長と深い亀裂を生じた。
爾来その対立は、互に訴訟沙汰にまでエスカレートしたが、総長は宗務所のPR力を使って猛烈に大谷管長を非難し、各教務所長も教区会議長も内局に同調して大谷管長退任要求などを叫んだ。
 法主は昭和51年に4月と7月と二度、全国一万の末寺に親書を郵送されたが、抽象的で具体性に乏しいので、総長側の宣伝の前には無力だった。
 翌年12月は、また宗議会議員の改選があった。法主は手形濫発事件については深く反省し、自らこれを処理する決意をもっていられたので、これは選挙前に全国の末寺に伝える必要があると思った所が、その年の11月法主は末寺に親書を送って、これを伝える気持ちになられた。
全国の末寺は、ひたすら法主のお考えを知りたかったのである。宗務総長の一方的宣伝だけでは落ち着かなかった。われわれ中正なつもりの少数派議員が法主を尊ぶため、盲従者が追しょう者として悪宣伝されていたので、われわれは、この法主の親書の全国郵送に大いなる期待をかけていた。
法主親書 〈未発表案文〉 より <抄出>
 最近のわが宗門の秩序は、紊乱してそのとどまる所を知らない。 祖師聖人第24代の法灯をつぐ私は深愚にたえず、仏祖の御前にこの混乱の収拾を念じている。
 私は、ここ十数年来の願いを達しようとして昨年、老人福祉・青少年センター等の福祉施設「大谷の里」の実現を望んでいた次第である。
 しかるにこれについてたまたま意外にも手形詐取にあい、本願寺も思いもかけぬ債務の取り立てにあったのであった。
 手形所持人は本願寺の最も大切な寺宝御伝鈔等を差押えに来たため私は驚愕心痛し、早速裁判所に手続きさせ、一応虎口を逃れることが出来た。全く私は祖師聖人及び3代覚如上人に対して、お詫びの言葉を知らないのである。
昭和49年4月、私は嶺藤亮を宗務総長に任命したが、嶺藤宗務総長と五辻宗議会議長とは、その数日前に行われた私への誓約を無視して自ら京都府庁に出頭し、京都府知事に提出中の「本願寺規則一部変更認証申請」の公文書を私に何のことわりもなく無断で取り下げ、不法に占有したのである。これは背信行為であった。私は宗門の運営について最も私が信頼したいと願う宗務総長並びに宗議会議長が、このように私と離れていることを知った。
 昨年4月、宗務総長は私を差し置いて管長代務者を僭称した。これは宗憲無視であって、京都地方裁判所 宗務総長の管長代務者兼務は宗憲に違反すると認め、したがって、その職務の執行の停止を命令したのである。
 しかるに宗務総長は、裁判所の命令を無視して管長代務者の職務を執行し、宗議会の招集を行おうとしたので、私は管長として制止したが聞き入れず、独断で昨年6月宗議会の招集を行い、いわゆる与党議員有志だけの会合を開いて勝手な決議を行ない、これを第103宗議会と称した。
 本年6月も同様な違法宗議会の招集を敢てしようとしたので、裁判所は再び宗務総長に向かって総長代務者の職務執行停止を命じたのである。
 しかるに宗務総長は裁判所の命令にそむいて代務者の職務を執行し続け、かつ裁判所に向かって反訴したが、9月1日、裁判所は、宗務総長の管長代務者就任は重大かつ明白な誤謬に基いていると判決し厳然としてその反訴を却下した。
 宗憲を無視する宗政上の彼らの行動について私は、宗門の主管者として秩序維持の上からこれを禁止し、あくまで宗憲及び国法に従うことを命ずるものである。
 最近、約束手形の所持者が枳殻邸の土地競売を申出でた。私は、それを防止する方法を進めていたが、北陸、東海、九州を中心とする全国の寺院並びに門信徒の拠金によって先月中旬私は京都地方裁判所へ申出でてこの競売を中止することができた。
 これはひとえに本山を憂える全教区の懇念の結果であって、私は深い感銘とともに仏祖の御冤祈の表われとして静かに反省している。
 私は、私の不注意から起きた不測の事態整理の責任とともに宗門運営の秩序維持に向かって努力を傾けねばならないのである。
 私はさきごろ、内局の宗議会招集についての上申に対し4月4日に指示を与えた。宗議会の招集開会は宗憲に拠るべきで、宗憲違反と認める裁判所の決定は国家の勧告と考え国民の義務としてもこれに忠実でなければならないのである。
 しかるに宗務総長はこれを無視し裁判所から禁じられている管長代務者の職務を行い、不法な宗議会を招集し、諸決議を行った上、昨年6月の違法宗議会の決議とともに公布した。これはただに宗憲違反を強行するのみならず国家の裁判所を無視する行為である。
 宗議会内の多数与党が無批判に宗務総長の行動に賛成しても、国家の裁判所の仮処分の命令に背いては、祖師聖人に対しても、また真宗大谷派の国民的義務のためにも私はこれを許すことはできない。
 私は半世紀を超える在職の今日自ら深く反省し、残生に鞭って宗門の信心の昂揚と宗政の正常化のために心身を捧げ、仏祖の鴻恩に報いる覚悟である。
昭和52年11月
真宗大谷派管長
本願寺住職 大谷 光暢

この新書の全国一万末寺の受取状は、法主台下の真意が徹底し、総長内局一辺倒の宣伝の毒消しになったであろうことは疑いない。おそらく興法議員団も12月の選挙で、あの多数議席の獲得はできなかったろう。したがって、今日のような多数党の横車宗政は避けられたと思う。
 しかるに法主はついに、この親書を発送されなかった。親書には宗政のことを書くべきでないという保守的な宗務顧問長老の考えを聞かれたのかもしれないが、おそらく法主の説明嫌いなどの性格によったものと私は思う。
 この不発親書の案文では、裁判所の仮処分命令を重視して嶺藤総長を非難されている。しかし、法主ご自身も前年5月に、諸規程所定の手続きを経た場合を除いては管長、法主、住職の名義を用いて手形行為等の債務負担行為及び動産不動産の売買譲渡担保権設定等一切の処分行為をしてはならない、という裁判所の仮処分命令を受けていられる。とこ
ろが翌6月には聖護院等の土地建物の所有権移転仮登記をなされ、8月には山科別院臨接地と総長役宅敷地等を同じように仮登記なされておるのである。

真宗大谷派の非宗教性

 本山東本願寺と真宗大谷派の引き続く不協和音はマスコミによって全国に伝えられ、日本の仏教各宗も対岸の火災視していられない段階に来た。 "お東さんの騒ぎも何とか治まりませんかね"とは、京都駅から東本願寺前を通るタクシー運転手の溜息であるが、これは一般社会の声を代表するものであろう。
 紛乱の根本原因は、法主管長側も、反抗的な総長与党側も、宗祖親鸞聖人に対する崇敬の信仰が弱くなったためである。
 これは昭和37年6月の宗議会で訓覇宗務総長が、同朋会運動の必要を述べ、同朋教団が否でも応でも宗門近代化の使命を荷うて発足せざるを得ない、と演説したとき、親鸞聖人のことを親鸞々々と呼びつけにしたこと、また、それを管長法主が叱りもしなかったことが見られるのである。
 したがって法主も宗祖・派祖以来累代の師主の伝承に弱く、総長内局宗議会も無信心に随在し、嶺藤宗務総長ら内局が報恩講17ヶ月の法座に参詣しないことも、一般にこれを怪しまない程になった。
 加うるに昭和51年以来、嶺藤宗務総長は違法な管長代務者就任を京都地裁から否定されて、職務執行停止の仮処分命令を受けながら、これを無視し続けて最高の国権たる法律にそむいている。
 また昨年3月、宗務総長は宗規上違法な管長推戴会議を開き二人管長の決議をしたが、裁判所はこれを退け、決議無効の仮処分命令を宣した。しかるに、それを無視して違法者を相変らず管長室に行かせ、裁判所が命令した正しい大谷光暢管長の執務を妨げているのである。
 京都地裁から、大谷光暢法主は依然として管長であり代表役員であると、その地位を保全されながら、一方で宗派離脱の方向に動いている大谷管長は、裁判所に不義理な形になっているのも、宗門に裁判所の命令が行われない以上止むを得ないのではないかと思われる。
 違法に管長室を占拠している竹内師は3月19日、全国30教区の門徒評議員200余名を任命した。これは、あらかじめ宗務総長の意を受けた各教区の教務所長を干与して、各地門徒会推薦の形でカモフラージした官選によるもので、昨年3月の管長推戴会議の門徒評議会で会議進行を批判した門徒評議員たちは根こそぎ消去された。前年に比べて約8名の減員である。ただし、これらを任命した竹内師は管長名を僭称しているのだから、その任命は無効なはずである。
 これを無視して嶺藤総長は門徒評議員会を手中に入れたと思い、近く宗議会と門徒評議員会を招集して再び管長推戴会議を開き、京都地裁で無効と判決された竹内師を管長に選び直すのではないかと推測されているし、法嗣大谷光紹師の管長就任は永遠に封じられる。
 正しい理論からすれば、違法な竹内師によって任命され、正しい管長大谷光暢法主によって任命されない嶺藤師は、無資格な宗務総長である。したがって、その招集による宗議会及び門徒評議員会の構成する管長推戴会議は昨年の会議と同じく違法であり、いくら門徒評議員の出席数を揃えて法定数に合わせても、その招集開会そのものが違法なのだから、昨年同様その別管長の推戴決議は無効で、依然として管長は大谷光暢法主である。
 しかし、自分に都合のわるい裁判所の仮処分命令はこれを無視し、一辺の裁判官の解釈より大谷派宗門の方が強いと豪語する宗務総長は違法のまま決議し、違法承知で大谷光暢管長を解任し、竹内師を管長と指名することであろう。
 その場合、大谷管長並びに中道派宗議会議員は再び訴訟し、おそらく京都地裁は宗務総長に昨年末の仮処分命令に基づき再び推戴会議無効の命令を出すものと見られる。
 しかし裁判所の命令に不死身な管長内局及び宗議会与党は、違法承知で押しまくり実力で来いという姿勢になるであろう。
 一方、同派の宗憲改正委は今月から総会を開き、近く多数決で成案を定めて宗務総長に答申し、総長は違法管長を使役して宗議会を招集し、違法に決議して強行実施に邁進するかもしれない。
 改正宗憲と称するものは、まず真宗累代の師主、すなわち第二代如信上人以下蓮如上人、大谷派始祖教如上人を含め第24代現光暢法主に至る23代の師主、法主、本山住職を消去しようというのである。
宗門の宗意安心(信仰)の正否を判ずる師主法主を廃し、宗意安心の正否の判定は宗議会などの合意制にするという。信心・信仰を無力化するのである。
 本山本願寺には浄土真宗の法統を伝承する師主、法主たる住職を置かない。 宗祖の血統は、ただ本山に住んで同朋の形式的代表として教法を聞信し儀式を行っているだけの形にする。
 宗教法人本山東本願寺はこれを解散し、別に解散した真宗大谷派に吸収される形で無名の別法人を作り、その代表役員は宗務総長で本山本願寺の運営と財産監理及び宗派機構の一切をその手中に納める。 寺院教会の設立や規則の承認一万末寺住職の任命等人事一切が含まれる。
 一万末寺の代表会議である宗議会の選ぶ宗務総長の前に、宗祖の系統に通ずる大谷家は本山に住んで気息えんえんたる存在となる。
 慶長7年(1602) 第12代師主教如上人は、堀川本願寺の北舎に御裏として日の当らない20年を過したが家康に助けられ翌年、前橋の妙安寺からの祖像を拝し堀川の仮御影堂を烏丸に移築した。この時、全国の浄土真宗の末寺住職の半数が教如上人を慕って両堂の本建築ご遷座に協力して発足した本山本願寺であった。
 以来370余年、徳川時代、明治時代を通じ東本願寺は、西本願寺に較べて多くの苦難を乗り越えて本山両堂を維持してきた。
西本願寺は元和三年暮れに焼けたが、寛永13年(1636)に新築落成して以来、昭和の今日まで340余年間その威容を保っているのであるが、東本願寺は第19代乗如上人のとき天明8年(1788))正月に全焼。4年後、改築工事中に乗如上人が遷化され、第20代達如上人が13歳で継職し更に6年かかって落成を見た。
 しかるに達如上人が44歳のとき、文政6年冬(1823)に再び東本願寺は焼けた。達如上人は早速再建にとりかかり、天保6年春(1835)に落慶法要を厳修されたが、 安政5年6月 (1858) 東本願寺は三度び類焼の厄にあった。この時達如上人は79歳の高齢であった。42歳の新門厳如上人を督励し、福井御坊から新御堂を、尾張大垣から仮本堂の資材を得て万延元年(1860) 仮両堂の落成を見た。その時達如上人は80歳を超えていた。しかるに幕末元治元年7月 (1864)、達如上人85歳の晩年再び東本願寺は兵火によって烏有に帰したのである。実に達如上人は幼時から始めて4回の罹災にあわれ、翌年霜月の報恩講を前に浄土に赴かれた。
 東本願寺の5回目の両堂の建築は、第21代厳如上人が明治11年(1878)に計画を発表され、同13年起工したが78歳で示寂され、15年の歳月と深信きわまる全国門末寺院門徒の懸念で同28年落慶し現在世界最大の木造建築として参詣する内外の老若男女大衆に無言の宗教的感化を与えている。
 かかる累代の師主を無視消去する宗憲改正を違法に強行しようと企てる大谷派は戦後の唯物論に迷って非宗教性に堕落しているのではないか。嶺藤宗務総長は、累代の師主が現在の東本願寺維持のためにいかに苦労されたか、全国の末寺門徒が如何にご本山のために献身されたか、静かに思いを致し無謀違法な宗憲改正などに血道をあげず、直ちにこれを撤回し、胸奥に宗祖聖人の温かな念仏称名の信心をとりもどし、宗祖の血統を維持補佐すべきではないか。
 永遠に新しく若々しい宗祖親鸞聖人の非僧非俗の人間教をついだ累代師主の貴重な献身を思えば、宗祖の系統に属する大谷管長法主住職としては祖師、中興及び派祖累代の偉業の前に自ら反省され、現内局の伝統破棄の非宗教性を制止するため、すみやかに何らかの宗教的決意を具体化すべき時点に立ち至ったのではなかろうか。

真宗大谷派の盲動ー宗憲改正会の総会ー

 真宗大谷派では京都の宗務所で昭和54年4月19日、違法な宗憲改正委員会の総会を開いた。
 この宗憲改正委員会は嶺藤宗務総長が大谷派管長代務者として昭和51年六月に宗議会を招集開会して提案し、決議されたものである。
 しかし総長は、その前月に京都地裁から管長代務者就任の違法を指摘され、その職務の執行停止仮処分命令を受けていた。したがって宗議会招集開会の資格がなかった。すなわち、その宗議会は違法であって、何を決議しても無効であった。
 当時の少数野党議員は京都地裁に提訴して、その決議の無効を主張したが、宗務総長は公布実行しないことを裁判所に申出でたので、裁判所は実害なきものと判断し、空な決議だけと見て公布の禁止命令を出さなかった。
 しかるに宗務総長は、その後、裁判所からその職務の執行を停止されている管長代務者の職務を行って、これを公布実施し、数回の宗憲改正委を開いた。これは公布できない。しないと裁判所に申入れたことにそむいたもので国家の裁判所を欺いたことになる。
 真宗大谷派の宗務総長は国家の司法機関を欺したのである。 裁判所を欺いて行われる大谷派当局の、この違法な宗憲改正委員会には中立議員は欠席し、与党議員及び議員以外の委員が主に出席して来た。
しかし昨年6月3日、この委員会の発表した中間報告は真宗大谷派累代の師主を否定し、師主すなわち法主で本願寺の住職がこれにあたる―という法主も住職も廃止する。浄土真宗だけに存する宗祖の血統を宗祖の法統の伝承者としてあがめる700年の宗門感情を無視し、法主は宗憲安心の正否を判ずる重責から外され、単に本山に住んで儀式を行い真宗の教法を聞信する御同朋の形式的代表に過ぎなくなる。
 宗教法人本山本願寺 真宗大谷派もともに解散し合併して新宗教法人の真宗大谷派をつくり、その統率者は宗務総長として独裁体制を作る。 管長制は全廃し、法主は門番のような門主という肩書きを与えられ宗務総長の指揮下にちいさくなっていなければならない―というもので、一万末寺も百万門徒も大多数が唖然として驚いた内容であった。
 これに対しては全国諸教区で反対の声が出たが、今回の宗憲改正委員会の総会は厳しい反対を押し切って、この中間報告を確認したのであった。
 これに対しては中正な無所属議員団から厳しい反対意見や烈しい反対声明が公表されたのは当然であるが、この総会で決議された宗憲改正案から左記に拾ってみる。
 現行宗憲では、まず第1章総則第1条『本派は真宗大谷派と称し本山本願寺を中心として寺院、教会、僧侶及び檀徒、信徒を包括する宗門である』となっているが、改正案第1条では『この宗門は真宗大谷派と称する』だけで『本山本願寺を中心として』がない。さらに第3条『本派は真宗本廟を中心として僧侶、門徒、寺院を統合する宗門である』となって本山本願寺は完全に抹殺され、『真宗本廟』という名で『真宗大谷派』に吸収されている。
現行宗憲の第2章教義及び儀式、第4条『本派の教義は累代、第4条本派の教義は・・・・累代の師主がこれを相承する』は削られて消え、現行宗憲第6条 『本派は正法弘通の恩を謝するため・・・・・・宗祖及び伝灯歴代の師主を奉安する』は改正案(安置する影像) 第8条で『本派は正法弘通の恩徳を謝するため宗祖聖人、聖徳太子、七高僧及び歴代門主の影像を安置する』となり、伝灯歴代の師主が消され『門主』という新しい名称が現われ、現行宗憲第11条 『浄土真宗の法統を伝承する宗祖聖人の血統による師主』が法主、本山住職
とともに否定されるのである。したがって同第12条宗意安心の正否を判ずる法主が蒸発し、宗門の根本たる信仰の正否は宗務総長の任命する10名以内の委員会の多数決にまかせるのである。
 宗意安心・信仰の正否は、その伝持者たる個人の師主とともに宗団存立の根本条件である。これが多数決でグラグラしていては門信徒は迷う。
 現行宗憲では最初にこれを厳粛に強調しているが、改正案全97条の中で半ばを過ぎた『第51条宗義に関する言説についての正否を判ずるため董理院を置く』以下で片づけている。董理院というのが宗意信仰の正否を判ずる委員会のことなのである。大谷派宗務当局や宗議会議員は信心や信仰に弱いのではないか。
 また改正案(正依の聖教) 第6条 『本派正依の聖教は、次のとおりである』として1、浄土三部経 2、七高僧論釈章疏 3、宗祖聖人撰述とだけを数えて、現宗憲第7条の『1その他宗祖並びに歴代師主の撰述及び勧文』 とある1項が削られた。したがって、大谷派のお聖教の中には宗祖の『悲歎述懐和讃』や『帖外和讃』『御臨末御書』はお聖教でなく、宗祖御書簡集の『末灯鈔』も『御消息集』も外され、覚如上人の御伝鈔』も『報恩講式』も『執持鈔』『口伝鈔』『改邪鈔』も、また覚如上人の『歎徳文』『浄土真要鈔』もお聖教でなくなる。 末寺住職及び門信徒が毎朝あげる蓮如上人の『お文(御文章)』や『改悔文』も真宗大谷派ではお聖教のわく外ということになる。
累代師主の否定が改正案の第6条に具体化されているのである。
現宗憲では第3章法主で大谷派宗門の根本理念が定められているが、改正案にはこれがなく、第3章『真宗本廟』となり、第11条 『真宗本廟は宗祖聖人の真影を奉安する御影堂及び本堂を中心とする聖域であって本願寺とも称し……』である。 『本願寺』はわきへどかされた。
 これによって第三代覚如上人以来連綿と続いた本願寺の敬称は漸次消えてゆくであろう。これは東西本願寺といわれる歴史的現実に無知な、歴代師主のご恩徳否定の非宗教性の暴挙でなくて何であろう。今度の宗憲改正はさらに、本願寺法や本願寺規則を廃止してあくまで『本願寺』を葬り去ろうというのである。
 次いで改正案は第4章門主である。昨年6月3日の改正委中間報告では『法主の語は教主(釈尊)・宗主等とまぎらわしく、「法主」の呼称は改めるべきである。 例 「門主」』となって、門主は仮称であったが、今度の最終報告では仮称でなく、明らかに「法王」は消えて「門主」が正面に出た。
 原始仏教の阿含経等では『法主』も『宗主』も世尊(釈尊)をあがめる称号として使われている。真宗の伝統では親鸞聖人の血統の各時代の御一人をば釈迦弥陀の御代官として『法主』とも『宗主』とも言いならわし尊んできた。これは宗祖親鸞聖人を帰依尊崇する門末寺院・門信徒としては極めて自然な宗教感情で美わしい700年の伝統である。もし現代に各宗の祖師、たとえば弘法大師や日蓮上人の血統が続いていられたら、両本願寺の末寺門徒が法主門跡を尊ぶように、それぞれの宗派は現代に存在する各自の祖師の血統を尊崇するであろうことは疑いを容れない。
 しかるに改正案第4章の「門主の地位」というのは『門主は本派の僧侶及び門徒を代表して、真宗本廟の宗祖聖人真影の給仕並びに仏祖の崇敬に任ずる。門主は僧侶及び門徒の上首として門徒とともに真宗の教法を聞信する(第13条)」というクールな扱いである。
 西本願寺の浄土真宗本願寺派宗法では法主を門主と尊称するが、大谷派の改正案の『門主』とは大変な違いである。末寺門信徒の宗教感情が豊かに表現されている。
 西本願寺の宗法によると、まず『門主権』を規定している。『門主は法灯を伝承してこの宗門を統し、宗務を統裁する(第6条)』のである。次に『門主は本願寺住職が当る(第7条)』、『門主は宗意安心の正否を裁断する(第8条)』、『門主は宗務機関の申達によって宗務を行う(第9条)』、『門主は宗法、宗規及び宗則によって宗務員その他の任命を行う
(第10条)』のである。そして門主の宗務、14事項が規定され(第11条)ている、さらに門主の行う宗務の執行機関たる総局(内局)を代表総理する(宗務総長は、門主の指名する二人または三人の総長仮補者について宗会が選挙し、これを門主が任命するのである。
 すなわち門主は宗務総長の指名権を持つ。それで『この宗門は親鸞聖人を宗祖と仰ぎ門主を中心として……他力信仰の本義の開発に努める......ことを目的とする(第2条)』が生きてくるのである。
西本願寺の門主は宗門の中心にあって宗門を統一し宗務を統裁するのである。これでこそ浄土真宗本願寺派という宗教団体が成り立つのである。
 大谷派の改正宗憲は、たよるべき宗門の中心が外され、前述のように現行宗憲第1章第1条の最初に規定してある一千万門徒のメッカたる本山本願寺の名も消えるのである。
 崇敬の具体的な中心のない集団は宗教団体でない。宗門とはいえない。 大谷派の現行宗憲は立派に中心がある。すなわち法主が宗門の中心である。 『第3章第11条、本派においては浄土真宗の法統を伝承するものを師主とする。 本派の師主は法主と称し本山本願寺の住職がこれに当る。第12条、法主は広く人心を教化し、本派における宗意安心の正否を判ずる』のである。
 これでいいのである。これでなければ宗門とはいえない。 改正案は大谷派を世間の利益団体に変貌するものだ。
 改正案の門主は法統伝承の権威がなく、本山本願寺が抹殺されて、本願寺の寺名とともに住職もなく、宗意安心の正否を判ずる中心者が宗門から蒸発してしまう。
 改正案では管長制廃止とともに法主は管長にもなれない。現行宗憲第15条の『管長は本派を主管し代表する』ことが出来ないのである。
改正案第15条では『門主の宗務に関するすべての行為には内局の助言と承認を必要とし』、第16条では『門主はこの宗憲の定める宗務に関する事項のみを行い宗務行政に関する権能を有しない』のであって、門主は宗議会で指名された(第44条)猿まわしの宗務総長に使われる猿にされ、単なるスタンプ・マシンになるのである。
 そこで改正案は、宗務総長を指名する宗会が第5章第20条に規定され『宗会は本派の最高議決機関である』、第21条 『宗会は宗議会と参議会の両議会で構成』し宗議会は僧侶、参議会は門徒のものとして二院制をとっている。これは国家の衆議院・参議院の対等の形であるが、僧侶と門徒の宗門的性格の能動性、受動性を考えると二院制の対立、対等の形は宗門には合わない。現行宗憲の僧侶の宗議会(65名)、一千万門徒の門徒評議員会 (300名以内)の形の方が、世間の政治組織と違う宗教宗門の性格がピッタリしている
のである。 僧侶と門徒とは対立すべき立場でないと思う。 改正案の二院制は、改正委員会に信心が弱く宗教性がないための世間追従の馬脚をあらわしたものと思う。
 改正案第40条 『宗務行政は内局がこれを行う』という内局は、『宗務総長及び5人の参務でこれを組織する(第41条)』が、『宗務総長は参務を罷免することが出来る』上に『宗務総長は宗教法人なる本派の代表役員となる(第42条)』ところの大谷派の『最高決議機関』たる『宗会の議決でこれを指名する(第44条)』宗務総長は宗門の絶対権を握るのである。代表役員も宗教法人本山本願寺を吸収合併した新しい宏範にして強大な真宗大谷派の代表役員で、現行宗憲の師主・法主・本願寺住職・管長・宗務総長を兼ねるもので、改正案の宗務総長の権力は怖ろしいものになる。
現行宗憲第15条に『菅長は本派を主管し代表する』とあり代表役員のことは記されていないが、現行真宗大谷派規則第5条に『代表役員は宗憲によりこの宗門の管長の職にある者をもって充てる』とあるのに、管長を兼ねる改正案の宗務総長代表役員は手放しで『代表役員はこの法人を代表しその事務を総理する (改正案大谷派規則第7条)』のである。改正委の解説に従えば、宗務総長は (イ) 寺院教会の設立、合併、解散の承認(ロ) 寺院教会規則の判定並びに変更の承認 (ハ)住職教師の任免ーの権利がある。ことに改正案で別院は『別院に住職一人を置き門主がこれに当る。ただし門主以外の者を住職とすることができる(第69条)』 の次に『輪番は宗教法人たる別院の代表役員となる(第70条)』 この輪番は宗務総長が任免できる。そうなると改正案の宗務総長は代表役員として全国の寺院住職、別院代表役員輪番の任免権を掌握するのである。
 もちろんその手続きには順序があろうが、絶対権を握っている代表役員総長は目星をつけたら無理な任免もやりかねない。宗門最高の議決機関たる宗会を操縦しさえすればこわいものなしなのである。最近の宗務総長は国法にそむいて管長代務者の事務を執行し、宗憲条例に背いて竹内管長を選任し、裁判所から決議無効として竹内管長は代表役員としての職務執行停止を命ぜられても、宗務総長はこれを無視して宗議会与党はこれを責めない無法ぶりから類推すると、全国の別院も末寺住職も安心してはいられなくなるであろう。
 ことに現行宗憲の第50条 『侍董寮は法主の諮問に応じ宗議に関する事項について審議する。宗議に悖戻した者があるときは、法主の命を受けてこれを董理する』に対し改正案では『董理院(侍董寮) は董理10人以内で組織する。董理は講師及び嗣講の中から宗務総長がこれを任命しその任期は4年とする(52条)』から『宗義に関する重要事項を審議し及び宗務総長の申報により宗議に関する言説についての正否を判ずるため(第51条)』の董理院も宗務総長の膝下にある。すなわち現行宗憲第12条 『宗意安心の正否を判す
る』ことも宗務総長の手中にある。
 これを要するに宗憲改正案は現在の法主住職管長大谷光暢師並びに大谷家の脱線分裂による弥ぼう策と思うが、これには法主管長補佐にあたる宗務総長の反省と信心不足があると思うのである。宗務総長自ら宗憲条例に反し国法を無視する無能ぶりで宗憲を改正しても、そもそも宗憲条例違反を常習する宗務総長内局は改正の資格はないのではないか。ことに宗祖親鸞聖人の本願念仏の教え700年の伝統の破壊をはらむ宗憲改正案は、違法を重ね続けた宗議会の招集そのものが一昨年以来国法に背くものとして片輪の招集を強行している形で、いやしくも一国の憲法にあたる宗門の宗憲を改正するという考えは宗務総長及び宗議会与党の智能不足と非常識の暴露以外のなにものでもないと思う。
 冷静に考えて、この宗憲改正案は法主住職管長大谷光暢師に突きつけられた脅迫の短刀である。 大谷法主も止むなく宗務総長や宗議会と離れて本山本願寺独立を志向せざるを得ないのである。
 本山本願寺の独立離脱は派祖教如上人以来の一大悲劇である。これを中止して頂くためには一万末寺代表たる宗議会より選ばれた宗務総長の宗憲改正案撤回の道しかない。しかも改正案のめざす新しい宗教法人大谷派の成立は宗教法人真宗大谷派、同本山本願寺の解散を前提としているが、大谷派及び本願寺の代表役員たる大谷光暢師が二つの解散を承認することはとうてい考えられない。
 しからば違法に発足した宗憲改正委員会の2年間の協議も報告も全く無意味ではないか。
この先の見えない宗憲改正案をかついでどこまでも強行しようとするならば、実状を知る宗門の大部分は愛宗護法の涙をのんで二者択一、すなわち大谷光暢法主の宗派離脱・本山本願寺独立の道を補佐支持するに至るであろう。

東京本願寺独立問題

 昭和49年4月嶺藤亮師が宗務総長に任命されたが、嶺藤総長は任命の前夜五辻議長とともに大谷管長に対して、本願寺規則一部変更認証申請問題は京都府知事の判断にまかせ、これにはふれません、と誓った堅い約束を破った。すなわち管長が宗派の諸機関を経て、京都府知事に認証を申請中であった本山本願寺規則一部変更認証申請書を宗務総長の肩書きで京都府庁を信用させ、これを府庁の窓口から勝手に取り下げてしまった。
 この裏切り行為が管長の嶺藤管長に対する深い精神的亀裂となった。したがって嶺藤総長は管長から隔離されて補佐の任務が行えず、爾来5年にわたる宗門未曽有の内部分裂と宗務混乱のエスカレーションとなったのである。
管長の信頼を失い、管長補佐の職責不能の嶺藤総長によって宗憲に規定されている管長補佐が浮いてしまった。これは嶺藤総長が反省して自ら辞職し、誰か別の人物を宗議会から新らしく推挙すべきであったのに、そのままずっと居すわり、自ら宗憲に違反して管長を補佐せず、かえって管長に抗争した。 これが現在の真宗大谷派大混乱のスタートであった。
 宗憲及び大谷派規則に規定する内局の補任を受けない管長は、 世間知らずの才子の末子明照院を唯一のたよりにされた。これは台下にとって非常な悪縁であった。もし、法嗣が大谷光紹新門や霊源院暢順連枝を相談相手にされていたら今日の宗門の混乱はなかったろう。その結末が『大谷の里』の手形乱発となり、聖護院や宇治別院等の土地問題となり、管長を補佐すべき宗務総長が管長を刑事告訴し、管長も総長を公文書毀棄罪で告訴しかつ、総長解任を宜し、その得度を取消して破門を発表するなど、真宗大谷派宗門は宗憲や法規不在の全く真っ暗やみの大混乱となったのである。
 すなわち宗務総長は昭和51年、さらに宗憲を無視して管長代務者となったが、当然のことながら京都地方裁判所は、その職務の執行を停止した。その後、再度にわたって宗務総長は裁判所から管長代務者兼務の停止命令をうけたが、総長はこれを無視して違法に宗議会を招集し、昭和52年には宗憲改正を決議公布して管長権の総長への移譲を計ったが、すべて非合法、したがって無効であった。
 しかるに宗務総長は昨年3月、 宗憲条例にそむいて不法に管長推戴会議を開催し、宗議会の中立派議員の制止をきかず現法主管長を解任し、新潟県の一末寺の老住職を管長にする決議を行った。これは昨年12月、京都地方裁判所が右推戴会議の審議が乱脈不法で決議無効と仮処分判決し、依然として大谷法主が管長であり、竹内某師は管長の職務を執行すべき立場ではない、と命令したが、宗務総長は、この国家の命令を無視し、その老住職をずっと管長室に置き管長事務をさせて、裁判所の命令による大谷管長の入室執務を妨害している。
 内局はさらに、これも違法に宗憲改正委員会を作り、本年4月の最終報告では、宗祖の第2代如信、第3代覚如、第8代蓮如、等累代の善知識たる師主・法主・本山住職を抹殺し、われわれ大谷派門末が宗祖第12代の派祖教如上人以来崇敬の中心にしている東六条の本山本願寺を名実ともに解散し、真宗本願廟と改称して新法人大谷派に吸収し、宗務総長がその代表役員として本山、別院、末寺及び宗派一切の指揮にあたり、宗祖伝承の宗意安心も、その正否を判ずる法主を抹殺した宗憲案では唯物的で信心の弱い宗務総長が董理院(侍董寮)を任命して監察させ、結局は本山の11月の報恩講にも、ろくにお参りしないような総長が宗意安心を裁断するのである。かくて大谷派宗門はこれから信仰蒸発の不安にさらされることになり宗門の根底が揺れ動くのである。さらに莫大な京都及び全国各教区の別院の財産も宗務総長一個の手中に帰し、祖師聖人の法統をつぐご血統の大谷家は路傍の石のごとくに扱われ、辛うじて本山の中に住まわせてもらい、門主という名をつけられ、一挙手一投足、ただ宗務総長の頤使のもとに動く機械人形にさせられようとしている。
 宗務総長、内局、宗議会与党が腹を合わせたこの暴挙は、宗祖親鸞聖人の本願念仏の信心の冷却、祖師聖人の法統血統への崇敬の蒸発という末法滅尽の様相を呈している。親鸞聖人は鎌倉時代の昔『五濁の時機いたりては、道俗ともにあらそいて、念仏信ずるひとをみて疑謗破滅さかりなり』と予言されたが明察であった。
 また真宗中かの蓮如上人は真俗二の宗風を教えたが、現在の大谷派は真諦の念仏に弱く、俗論も守らぬ。すなわち裁判所の仮処分命令を無視する宗務総長や議長は、宗議会の少数派の中正な意見に耳を貸さず、宗議会の多数与党をたのんで違法に暴走して得意でいる。現在の大谷派の組織の中に念仏称名の宗教的な敬虔さが失われ国民の遵法義務が無視された。
 念々称名常懺悔の前向きな信仰の喜びを忘れ、支配欲の唯物鬼と化した現在の宗務当局、宗議会、宗務所をわれわれは魔性と見て遠離せねばならぬ。そして現在の宗憲を守って改正せず、今のままで本山本願寺を中心にして、本山の解散などは絶対に考えず、大谷法主を三位一体の法主・住職・管長と仰いて尊び、いままでのような大谷家の脱線を絶対に阻止し、本山本願寺法主が宗祖聖人の法統を伝承するご責任を果されるよう、われわれは宗祖聖人に対する報恩行として慎重厳重に補佐申し上ぐべきである。すなわちわれわれは念仏不在の現在の大谷派から分離独立し、ここに永遠に若々しい御同朋御同行の開山親鸞聖人の教えを喜ぶ新らしい温かい宗門を創建する機会を与えられたのである。
 われわれの祖先は慶長7年(1602)教如上人をもり立てた。そして全国の真宗寺院の半数が烏丸六条に東本願寺を新築して大谷派が生れたのである。われわれはその当時の清新な門末信徒の意気衝天の宗門的団結を想う。
 爾来、現代に至って370有余年である。今や宗門は新しいページをめくるべきだ。現時点では管長の宗派離脱声明は非常事態宣言と受けとめねばならぬ。念仏不在で唯物化し政治化した宗務当局与党が無謀な宗門乗取りの宗憲改正を中止しない限り、現在の大谷派は低次元に老化して宗教的存在意義を失うのであって、いまや正しく歴史的脱皮の時点に来た。
宗祖の血統たる大谷家も家憲に従って宗祖派祖の宗教的使命へ自信を堅固にし、前向きに念仏称名懺悔精進すべきである。 われわれは本山本願寺を中心に宗祖の血統の脱線を阻止し、昭和54年の新宗門を建立し、宗祖・蓮師・派祖の信心を現代の自信教人信して同一念仏の喜びを信楽すべきである。
 いま京都の本山本願寺の独立認証は行きなやんである。これは大谷家の脱線が是正されない限り延引されるであろう。われわれは真宗大谷派の東京教区1都8県500有寺の末寺団として本山本願寺のこの清浄化と、その自由独立の実現を願うものであるが、差しあたり東京本願寺の独立を達成させるべきではないか。これは新しい念仏宗門建設の第一歩である。すなわち清新な大谷光紹新門法嗣が住職として申請される東京本願寺独立の寺院規則変更は、監督官庁たる東京都庁としては何の支障もなく、むしろよろこんで速かに認証されることに間違いない。
 来月6日から違法に開かれる宗議会で無法な宗憲改正案が通過するとき、違法食言常習の宗務総長が絶対的独裁者に押しあげられ、全国一万ヵ寺の住職及び別院の代表役員任免の権利を掌握するのである。かくては東京本願寺住職たる新門大谷光紹法嗣の地位も風前のともしびである。新門は直ちに東京本願寺代表役員を剝奪されて東京本願寺から追い出されるかも知れないのである。考えても怖ろしいことではあるが、この危険を避けるために、われわれは早急に東京本願寺独立達成の具体的方策を大谷光紹新門に提言し、実行してもらうよう斡旋せねばならない。
 また、われわれ末寺も大谷派宗務総長の毒牙の届かない安全地帯に赴くためには東京本願寺と歩調を合わせ、各個の寺院が独立離脱の覚悟を定めなければならない。あえて真宗大谷派東京教区寺院各位に訴える。

大谷派の正常化を願う京都地裁の仮処分命令

 昨年(昭和53年)12月に京都地方裁判所が仮処分命令で、真宗大谷派の自称管長竹内良恵師の管長選任無効、したがって管長及び代表役員の職務を執行しうる立場にはない、と断定したにもかかわらず、宗務総長は竹内師を管長室に出動させて裁判所の仮処分命令を真向から軽蔑した。そして竹内管長名で6月6日からの宗議会の招集開催を宜し、宗務総長以下内局参務が連署した。
 私は、またしても繰り返す大谷派の国法無視を憂えた。仮処分命令に対しては、国民は本訴や控訴が決定するまでは無条件に順う義務がある。私は橿原信暁議員とともに、大谷派に昨年の裁判所の命令を遵守させ、大谷派を少なくとも国法無視の非国民性から救うために、また当然、大谷派の正常化のため5月21日京都地裁に仮処分命令を申請し、真宗大谷派と竹内師に違法宗議会を開催させないよう、開会日の前に差し止め命令を出すよう要請したのである。
 幸いにして京都地裁の杉本昭一裁判長は6月4日、われわれの要請を全面的に承認し、明白かつ断乎たる宗議会開催禁止の仮処分命令を出した。
主文は、まず真宗大谷派(現管長代表役員・大谷光暢師)に対し竹内良恵が大谷派管長名をもって6月6日午前10時からの宗議会の開催はこれを禁止する、つぎに竹内良恵は右の招集による宗議会の開催行為をしてはならない、という二重の禁止命令である。
 その理由書は40ページにわたる長文である。
まず大谷派が宗教法人となるための要件は代表役員と責任役員集団である。代表役員は唯一の代表機関で、執行管理機関として宗派の事務を総理し、責任役員集団は代表役員の補助的執行機関を兼ねた事務決定機関である。これは国家の認証した真宗大谷派規則に規定されていて、大谷派宗内法としての宗憲の定める管長は宗教信仰的職能に限られ、宗派の管理的・組織的権限は大谷派規則に定める大谷派代表役員の職務に帰する。
 宗議会は宗派の管理事務執行上の任意機関で、代表役員の宗派事務総理執行の意志決定機関たる責任役員団の延長であり、予算内規等財産管理的・組織的側面について意志決定を行う機関である。 執行機関ではない。
 今回の宗議会招集者竹内良恵は昭和53年12月14日の仮処分命令によって、真宗大谷派代表役員の職務を執行してはならないのであるから宗議会招集の資格がない。 現在においても依然、大谷光暢が代表役員管長の地位に在るものというべく、法律的に大谷光暢が代表役員として瑕疵なき(完全な)行為を行うことができる。
 この点は大谷光暢が宗派離脱通知を行ったとしても、離脱が完全に発動し大谷派の管長代表役員の地位を喪失していない以上は大谷光暢は、代表役員として行為を行うことができる。
 宗派事務の執行は唯一の執行機関兼代表機関たる代表役員のみが専有する権限としてなし得る。この場合、責任役員は下位的補助機関として関与し得るに過ぎない。 責任役員の意志決定と代表役員の執行行為は別個独立に論ずべく、意志決定が十分に満たされたからといって代表役員の執行行為の効力を補完(影響)しうるものではない。
 宗議会の招集は大谷派の予算という重要事項についての重要な行為である。これは代表役員の専権に属する。真宗大谷派の独自の機関たる宗議会の自律性(自由の権限)は宗議会自身の固有の権限内のことにとどまる。 他の機関たる代表役員のなす招集行為まで及ぶことは考えられない。
 今回の宗議会が昭和53年度補正予算案及び昭和54年度予算案の審議を予定している定期宗議会であり、右予算が大谷派の今後の宗教活動の裏付けとなる重要事項であり、大谷光暢が大谷派よりの離脱を宣言しているとしても本来招集権限のない者が右宗議会の開催を安易に強行することは違法である。
 けだし竹内(良恵)、内局(宗務総長)、宗議会、門徒評議員会が当庁各種仮処分(昭和51年5月、同52年6月、同年9月、53年12月、合計4回)の趣旨及び大谷光暢の管長解任の無効理由で、通常人において容易に判断しうるような明白重大な瑕疵であった点に十分留意し来たり、宗務総長が代表役員を補佐すべき立場にある機関としての職責に(善)処すれば大谷派の正常な事務の運営が全く期待されないでもない。(この)宗議会は招集権限のない者により招集されたものであり、この点でその開催は不適法かつ無効なものというべきである。
 竹内個人が無効な管長もしくは代表役員の名を一方的にかたっているのではなく、竹内の宗議会招集には真宗大谷派宗務所と印刷された用紙に宗達第2号の記載をなし、管長竹内良恵の名を載せ、宗務総長外参務4名を連ねてあり、これを宗議会議員宛に宗議会の招集の通知を記載している。
申請人等 (宗議会議員中山理々、橿原信暁)は大谷派の適正な組織運営につき参加協力すべき利害に基き、違法性の大きい竹内の無効な宗議会の開催の差止めを竹内のみならず、大谷派に対しても直接請求が出来ると解すべきである。招集権限のない者によって招集する宗議会の開催権能を直載に取りもどすことをもって相当と解すべく、したがってこの仮処分申請は全て理由があるのでこれを認容することとし主文のとおり決定する。

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 以上、杉本裁判長の周到な仮処分命令理由を抜粋し要約して見ると、さすがの頑迷な竹内師も宗務総長、内局、与党興法議員団も門徒評議員会も宗門人として改俊懺悔し、上述の文中にあるごとく依然として管長・代表役員である大谷光暢法主の前に至急正常な定期宗議会の招集開催をお願いに行くであろう。
私は、竹内師乃至宗務総長等がこれも上述の裁判長の理由書にあるごとく『通常人として容易に判断しうる』立場に立ち返ってもらいたい、と思う。
 明日、私は橿原信暁議員とともに宗務総長、並びに宗議会議長にあい、今度こそは国家の裁判所の懇切な命令に従って竹内筋の違法招集議会を開かず、正規の代表役員管長大谷光暢法主の定期宗議会招集の至急実現を乞い、紛争十年といわれる違法混乱の真宗大谷派宗政を正常化する正道を進みたいと思う。

東京本願寺独立の院議会を開く

 いよいよ東京本願寺では6月2日の責任役員会・総代会で独立のための新しい寺院規則が可決され、6日には僧侶20名の院議会で賛成14、反対5、棄権1でこれを可決した。会議は東京グランドホテル会議室で開かれた。
 私は反対意見の議員の録音の記録を読んだが、東京本願寺独立の意義を思い、温かい念仏宗門の再生発足のスタートとして期待をもった。
 議長は門信徒側の菱川実氏で、まず新門様の声明文が披露された。
声明文
御法主台下は昨年11月、本山本願寺の独立を宣言せられた。惟うに現下の宗門は宗祖親鸞聖人以来800年の長きに亘る法脈血脈の伝統が一挙に瓦解せんとする、門信徒不在の様相を呈しつつある。御法主台下は、その危機を深く憂えられて、先の御決断をなされたものと拝察する。
 この御法主台下の御決意を体して東京本願寺は、寺院・僧侶・門信徒各位の要望に応え、現状における最善の方法として已むに已まれず、ここに真宗大谷派との被包括関係を廃止する。
 願わくば寺院住職僧侶、門信徒各位と一体となり、信心を相続し本願寺を崇敬して、その本然の姿を顕現し、以てその法統を伝承し護持せんことを。
                                合掌
 昭和54年6月6日
   東京本願寺住職
                              大谷光紹

 この声明文が朗読されて直ちに審議に入っている。発言の要点をまとめて見たい。
O議員 東京本願寺が大谷派から離脱すると新門様は次ぎの法主になれない、法嗣殿であることの放棄なのです。 これは恐ろしい感じがする。私は、そのことの責任を負いかねる。
(註) 本山寺法第7条=本山本願寺の住職は別に門跡ともいい宗祖の系統に属する嫡出の男子が左の順序により継承する。
1、住職の長子 (以下5項)になっていて、 東京本願寺が独立しても大谷光紹新門が本山本願寺の法嗣殿であることには変りはない。独立は法嗣殿の放棄にはならない。
O議員 東京本願寺の宗派離脱は「一時避難」で、宗門が静かになれば元に戻ると新門様後援会の某師はいうが、誰がそれに責任をもてるか。
K議員 声明で『伝統が瓦解せんとする……危機』といわれたのは、法主が清沢満之の教学と異なることを離脱の理由にされたのと同じですか。
新門様 それはそれとして、私が「危機」といったのは、宗派当局の宗憲改正案は歴代の御方の書かれたものを除く、とか、法主という名を廃して門主とし、聞法だけ、あるいは儀式執行だけとかいわれている。こういうような風潮について 『伝統』が否定され、伝承がなくなる、と申したわけで、たとえば善知識ということは親鸞聖人の非常に大切な教えの一つと思います。「危機」というのは清沢満之の教学あるいは思想に結びつけて言ってはいません。
T議員 離脱した場合の本山本願寺との関係はどうなるのか。
藤井輪番 議案の審議が終っていないので何ともいえません。かりに独立ということになりましても東京本願寺は来る人には自由に来てもらいます。
N議員 私は十年以前からの宗門動乱の中で何とか親聖人の教えに従って教団の大掃除をしたいと思ってきた。 本山が離脱し本山のない大谷派は存立の価値がない。大谷派も解散すべきだ。今こそ関東に親鸞聖人の教えを広める本願寺を建てるべきである。 覚如上人の本願寺組織以来、 8代目蓮如上人そして12代目教如上人で東西本願寺が分かれた真宗史観を考えてきて、もうすでに末法来れり、東京本願寺の離脱は、もうその是非を論ずる時ではないのだ。
K議員 大谷派は解散せよというが、私たちはご門徒に対する責任がある。離脱すれば他教団と同じくなり、相互に対立論争が起り、今日まで同じ大谷派寺院として進めてきた共同教化も不可能になりかねない。教団不信、寺不信、僧不信が湧き起る。
N議員 私には新僧伽として東京本願寺の誕生、別派建立の願いがある。 対立抗争で離脱するのではない。もはや真宗念仏はなくなった。現在の大谷派は世間的な同志的結合あるのみである。世界が注目している関東に念仏者の教団が誕生すれば対立抗争の心配もなくなる。
KT議員 12月14日の仮処分裁判では、違法な竹内管長は退けられ、大谷管長台下が勝訴ときいている。日本は法治国家である。 法の決定に従うべきだと思う。 重病人が出て助かるか助からないか、というのが今である。 無事で有難いお経を頂いて本当によかったというお寺さんでなきゃいけないと思いますから、本日の議題に賛成します。
TB議員 私はN議員・KT議員に同感です。温かい、うるわしい、かいなをとり合って行ける宗門であってほしい。十数年前から願っていた。それが見えず長く苦しんでいた。もう議論を重ねても無駄です。今や本山御法主の意を体して、新門様に身を粉にして邁進したい。
N議員 ここに真宗がある、という新たなる教団の誕生である。これは自然にでき上って行くのである。大谷派は解散すれば新しい生命が誕生する。 新しくこの時期に生まれなければならないものが浄土真宗発祥の関東でということで、今更宗祖聖人に申しわけない。新しい宗門が誕生したら京都が懐しくて、大谷派から離脱した東本願寺が今の法主のあと新門様をきれいにお迎えすることになったら、われわれ東京に独立した教団は喜んで京都にお送りする。今回の東京本願寺独立議案には賛成である。
M議員 真宗は真俗二語の教えと思う。田舎の門信徒は本当に迷っている。 これからは伝統の大谷家を中心に親鸞聖人の伝統の行くべき道を行くよう念じます。
K議員 東京本願寺離脱は東京大谷専修学院の問題でもある。 学院の目的である大谷派教師資格取得はどうなるのか。
藤井輪番 学院は離脱後も無事一年間は終らせたい。
 大体以上で討論は終結して採決に入り、前述のごとく東京本願寺独立の新寺院規則が可決された。
 大谷派当局の観念的な宗務総長独裁のファッショ的宗憲改正案ー本山本願寺の寺号を廃止し、これを解散し、住職も不要、師主・主・門跡を全廃し、三位一体の管長制も無くして宗務総長が法主住職管長の権力を一身に集めるに反対する一般寺院門信徒の声なき声が最近もり上ってきた。
 東京本願寺の離脱独立は、その全国的な波の上に乗ったものである。今後本願寺が浄土真宗発祥の関東に不死鳥のように新しく誕生して、本当に温かい有難い新教団の中心にまで羽ばたく日を待望する。

真宗大谷派の不法宗議会

 京都地裁が真宗大谷派に対し、6月6日午前10時からの宗議会の開催はこれを禁止する、竹内良恵は宗議会の開催行為をしてはならない、という仮分処命令を出したのを無視して、不法にも大谷派宗議会は6月6日に開会された。
冒頭に与党の竜山幹事長が緊急動議を以て、該議会の開催を禁止する京都地方裁判所の仮処分命令に反対し、与党議員だけで議会の正当性を決議した。
裁判所の仮処分命令には異議の申立はできる。しかし異議を申し立てたからといって仮処分命令は取り消されないのである。仮処分というのは、急を要する場合国家が裁判所を通じて国民の個人あるいは法人の権利保全を防衛してくれるもので、異議申し立てが訴えられても、その訴訟に確定判決が下るまでは仮処分をうけた当事者は、その命令を厳守せねばならぬのである。
 故に竜山幹事長の緊急動議は決議されても、真宗大谷派を違法から護る不法宗議会開催禁止の裁判所の命令は生きているから、その決議は天に唾(つば)するもので全然無意味である。
 ただ、与党議員が集会して国法違反を決議したに止まる。これは白昼恐るべき宗教団体のアウトロー宣言というべきである。
 真宗大谷派は宗門の内部規範として、昭和21年9月に宗憲を制定した。しかし、個人が国家の法律に規律され、またその法律によって個人の権利が保証されるがごとく、宗教団体も国法に従う一個の法人格を持たなければ国家の法律の恩恵保護を受けることができない。
 国家は昭和26年4月、宗教法人法を公布して『この法律は宗教団体が礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し(宗教上の)その目的達成のための業務及び事業を運営することに資する(助力する)ため宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする』(同法第1条)とあり、続いて政教分離の立場を強調し、宗教団体が『教義をひろめ、儀式行事を行い、 その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない』
と宣言している。
 故に真宗大谷派は、宗教活動をするのに法律の保証を得、法律上の能力を獲得するために一般社会の法律関係の規則を作って法人格を取得した。すなわち宗教法人法に基いた公認規範として真宗大谷派規則を作り、昭和27年4月に国家の認証を受け宗教法人として登記されたのである。
 今回の仮処分理由書で、裁判所は『宗教法人法は本来、宗教団体が宗教活動を遂行できるように、その物的基盤を確立するため法人格を与えることを目的とするもので、宗教活動面を法律上の対象外とし、宗教団体の財産及び団体組織管理面を宗内外を通じて規律対象とし、その世俗的活動面の規則制定の認証を義務要件として法人格を付与するものである』と記されている。
 したがって真宗大谷派規則は、大谷派の信仰や教義や儀式や僧侶の身分や信徒のことなどには一切ふれない。これは内部規定の宗憲にまかせてある。
 緊急動議では『宗教上若しくは世俗上といった宗教行為の弁別は宗教団体自身が決定すべきことであって』と発言しているが、大谷派は既に自ら世俗上の行為を弁別し、これを一括して大谷派規則として認証を得ている。 大谷派規則が宗門の世俗上の行為全部をすでに規定しているのである。それで法人格を獲得した。このことを忘れてはならない。
 なお緊急動議は、宗教法人法第85条の公権力の宗教活動への干渉を禁止する趣旨に言及しているが、裁判所は大谷派規則の認証により、宗教活動にはノータッチである。すなわち裁判所は宗教法人法第85条に従って仮処分命令を下したのである。竜山幹事長の言及は全く的はずれであると思う。
 すなわち大谷派規則認証を申請したその時点で国家の方から真宗大谷派規則を認証して世俗的活動に関する規則を義務付け、この要件をみたすもののみに法人格付与の保障を与えているのである。
 例えば、国家は大谷派が宗憲等により宗教活動のため任意機関を作って大いに宗教活動をしてもらいたいが、宗教法人として代表者がいなければ法人格を認めることができない。すなわち大谷派にあっては代表役員が唯一の代表機関かつ執行機関であることは動かし得ない宗教法人となるための条件である。
 大谷派規則で『代表役員』は(宗内規定の)宗憲により、この宗門の管長の職にある者をもってあてる。代表役員はこの法人を代表し、その事務を総理する、と規定している。
 竜山幹事長や嶺藤宗務総長の属する与党の主張する管長無答責などは、宗教法人法の立法目的無知の致すところである。
 縷述のごとく大谷派規則は全部俗事規定であって、国家が政教分離の立場から認証したのである。
 代表者のない団体、執行総理する責任者のない法人は、首のない人間みたいなもので、この世には存在しない。 管長無答責などは世俗上では適用しない。
 宗教法人のいう代表役員は、法人格をもつ宗教法人大谷派の内外に向って唯一無二の業務執行総理機関かつ代表機関である。
 したがって宗門の内部規定の宗憲第19条では、管長は内局の補佐と同意とによって左の宗務を行うと記されてあるが、大谷派規則第12条では、内局は管長を補佐してこの法人の事務その他の宗務を行う、と定め、代表役員の執行責任をあいまいにする内局の『同意』を認めていない。
 管長としては宗教行為が含まれるが、代表役員としての管長には宗教行為はない。財務・組織・運営・管理等、世間の法律に関わる俗事行為に限るのである。
 今回の仮処分理由書では、昨年12月の仮処分で竹内師の管長職務執行停止をしなかった点について、右仮処分命令では大谷派管長が宗教上の地位のゆえに職務執行を停止していないことを理由に依然管長職の僭称を続け、宗議会の有効な成立は代表役員の業務執行権に属するというべきであるにもかかわらず、管長名を僭称して本来招集権のない者が右宗議会の開催を安易に強行することが違法であることを断定している。
 また、予算は宗教活動のいかに重要な裏付けであっても、財務の運営に関する事柄で宗教法人法の規律分野である、として宗教活動とは区別され、代表役員の権限事項であると明示している。
 真宗大谷派は白昼、国法を無視して冥より冥に入る迷路の独走である。
 東京本願寺も、宗派を離るという。名古屋別院も、近く独立の噂がある。 横浜もそうなるかも知れぬ。今秋には全国相当数の寺院が独立するであろう。
 国法無視の迷路独走では、やがて宗内法規も無視されよう。有識寺院別院は危険でついて行かれないのである。

東本願寺報恩講に紛議あることなかれ

 真宗大谷派では毎年、本山東本願寺の報恩講七昼夜のご正忌が11月21日のお逮夜から28日お日中のご満座まで賑々しく勤修される。
 大谷派は法主側と内局側とが相変らず深い亀裂の谷を作って闘争中である。総長、内局は宗議会の4分の3の議席を背景に法主側を責め付け、手形乱発の脱線などによる本山の混乱経済を防止しようとし、そのためには宗憲を改正し本山東本願寺を解散し、伝統の法主、門跡並びに住職を廃止し、祖師親鸞聖人の血統を軽視し本願寺の寺名をやめ、宗門を挙げて一万末寺代表の宗議会が選ぶ宗務総長の独裁制を行おうとするものである。
 宗祖親鸞聖人、派祖教如上人の法統と血統をつぐと自信している大谷法主が、こういう下克上の変革を承認することはありえないのである。
 これが前法主句仏上人であったら、末寺らが集まって何をいうか、と一喝するところであるが、現在の大谷光暢法主は女性的で隠忍というか、自ら真宗大谷派から抜け出るという弱々しい姿勢をとった。
 現在、大谷派の宗教活動を支持している信仰的経済的基盤は全国百万家庭の門徒である。いずれも京都の東本願寺本山を崇敬の中心、弘教の本利と仰いで精神的な喜びを感じ、さらに本山本願寺を各々の檀那寺すなわち一万末寺の住職各位の手を通して経済的に護持しているのである。
 宗教法人法の制定以来、本山・末寺の関係はなくなったというのは誤りである。宗教法人法は宗門伝統の信仰や慣習に関係なく、宗教団体に有形の寺堂の施設の維持や宗教的業務運営のために、宗教団体に法律上の能力を与え、社会生活上の保護をするためのものである。
 そのため本山も末寺も区別をつけず、すべて大谷派という無形な中性的法人の中の平等な一個の構成員と見てしまうのである。組合の全員が他の一員を崇敬するという本末関係などは無縁である。宗教法人法による真宗大谷派規則には法主も門跡も本山も末寺ない。蓮如上人のいわれる『世間通途の義』に従い、政府に真宗大谷派なる宗教法人を認めさせて世間の法律上の能力を持ち法律上の保護をうける方便なのである。
 宗教団体は新旧の違いはあるがすべて創始者の教示の下に集まっている。すなわち真宗大谷派は宗祖親鸞の立教開宗の精神によって成り立ち、宗祖から12代目の嫡男教如上人が17世紀初頭に東本願寺を別立して、当時の全国真宗末寺の約半数が教如上人の法徳と仏教信仰への闘志そして理由のない廃嫡により表面活動ができず裏方20年という不当にして不幸な境遇に同情して、今の烏丸六条の東本願寺創立を護持し、教如上人を盛り立てたのである。ここには明確に宗祖の血統と本山と末寺の役割が濃密な一体として作用され
ている。これが真宗大谷派の伝統なのである。
 末寺には本山本願寺を解散し法主、ご住職を廃止する資格はない。末寺の集まりの宗議会は宗門最高の議決機関ではない。 宗祖伝承の地力念仏の法統が最上部にある。したがって法統を伝承すべき祖師聖人のご血統が最上位にいるのである。末寺代表の議決機関はその下にある。もし、ご血統が法統に弱くなったとき、あるいは世間通途の法からも逸脱する危険があるとき、末寺代表は宗祖及び派祖の精神に従って、ご血統にあやまり無きよう忠言補佐申さねばならぬ。
 しかし、かつて報恩講七ヶ日のご正忌に一座も出仕しなかった畸形僧が宗務総長としてまかり通り、裁判所の度び重なる仮処分命令、すなわち緊急命令に背いて宗議会や門徒評議員会を開くような宗務総長乃至自称管長であっては、脱線好きな法主住職管長に忠言補佐の資格はない。それは宗議会や宗務総長が法主住職管長を責める前に末寺の分際として反省せねばならぬ。すなわち現在の真宗大谷派としては、宗憲に管長は内局の補佐と同意によって宗務が行われるとある規定が行われず、大谷派は宗憲を無視して近視眼的分裂的歩行を続けている。
11月の報恩講七ヵ日の伝要について、本山本堂の奥の内事にいる離脱寺院有志の本願寺寺務所は最近、報恩謡実行委員会を組織し、大谷派宗務所の報恩講寺務の運営を退け、全国170余ヶ寺といわれる離脱末寺群の参集と護持金で宗派の介入なき独自の報恩講を執行したい、と決意したといわれ、一方、宗務院の本山参詣を実力で阻止し、座り込みや厳重なピケを行うといきまいているということである。
 蓮如上人は、御ふみに『報恩講七昼夜の時節にあいあたり、不法不信の根機においては往生浄土の信心獲得せしむべきものなり』と教えて、不法不信無宗教のものでも参詣して信仰を得なさい、と記された。
 離脱寺院末寺は現宗務当局とは信仰が違うというが、不法不信のものでも報恩講には参詣せよ、という御ふみの戒めを考えねばならないと思う。 本山の寺務は内局が行ない、その事務は宗務所の各部門において分掌する、という『本山寺法』の規定があるのだから、むしろ内局や宗務所を督励し、自らもこれに協力して祖師聖人の御前に平和な報恩講七カ日を勤めて頂きたいのである。
 また内局宗務所側が離脱寺院側の報恩講参詣奉仕を実力行使で阻止するなどということは、ご開山上人や蓮如上人不在の倒立行為であって、本山ご崇敬護持の根本精神を忘れた行動である。
 報恩講は真宗の生命である。第11代顕如上人は大谷派の派祖教如上人の父君で、織田信長が石山本願寺の攻略を企てた暴挙に対し十年間、本願寺を守りぬいたお方であるが、正親町天皇の休戦和平の勅旨に従ったあと、和歌山鷺の森から貝塚、天満と移り住まわれ、後に秀吉に招かれて六条堀川に現在の寺地を得たのである。 文禄元年(1592)11月、十一間四面の祖師堂が落成した時、病いを押して報恩講を勤修したが、三昼夜明けの24日のお逮夜のとき遂にご往生になったのである。運命を覚悟の報恩講であった。
 顕如上人の第三子、すなわち大谷派派祖教如上人の末弟で西本願寺を継いだ准如上人は、石山戦争の最中石山本願寺で生れ、教如上人より19歳も年下の方であるが、寛永8年(1630) 11月病い篤き中を強いて報恩講を勤め、ご満座の翌29日危篤に陥り、30日ご往生なされた。
 宗祖の血統というご自覚のもと大谷家にとって報恩講は、ご歴代が死を賭しての重大法要である。 報恩講中に紛議あることなかれ。
 ご責任は、ご住職・法主、大谷管長台下に及ぶであろう。

東本願寺報恩講の正常化を祈念する

 本願寺の報恩講の名称は宗祖親鸞聖人の法統第3代といわれる宗祖の曽孫覚如に始まる。
 覚如上人は永仁2年(1294)11月、京都東山の大谷本願寺で宗祖の33回忌法要を厳修し、宗祖親鸞の真影前で自作の祖徳讃仰の報恩講私記(漢文)を朗読した。その時、覚如上人は25歳の青年であったが、信仰にあふれた名文で今日でも本山本願寺の報恩講には祖影の前で必ず法主住職が導師として朗読するのである。その『私記』以来その題名を取って毎年11月の宗祖祥月七昼夜の大法要を『報恩講』というようになった。
 しかし、親鸞聖人の法統第2代の如信上人は京都で生まれ、宗祖から愛孫として訓育された信心と教養を身につけたが後に父善鸞の開拓した陸奥の国を慕い福島県東白河郡鮫川村の大網門徒の集落に行き善鸞の草庵に住した。この草庵は後に願入寺となったが、歴史家の推定によれば毎年11月の宗祖の御正忌に如信上人は遠い福島県の願入寺からはるばる京都へ上り『祖師聖人の報恩謝徳の七日七夜の勤行』の親修に見えた。そして少年覚如に法義を語ったのである。後年覚如は如信上人の32回忌のため、その法話を綴って記
録し口伝抄を編したが、如信上人在世中に書いた報恩講の私記には、すでに如信上人の影響が強く『毎年を論ぜず遼絶を遠しとせず、境関千里の雲を凌ぎて奥州より歩みを運び、隴(りょう)道万程の日を送りて諸国より群詣す』という文章が現われている。これは『奥州より歩みを運び』 如信上人の毎年の報恩講親修と、上人のおともの大網門徒の上洛を意味していると思う。
 如信上人は晩年61歳の老軀をおして上洛し11月の報恩講を厳修され、帰途12月末に茨城県常陸の国、金沢の里の弟子乗善の法竜寺に立寄られたが、老齢長途の旅の疲労で発病され、乗善に見取られて年明けの正月2日に示寂されている。
 私は前述のごとく、病いをおして報恩講法要に出仕された第11代顕如上人が七昼夜の第4日に示寂され、第13代准如上人が病艦の中を出仕されて28日御満座の2日後に往生の素懐を遂げられたという、宗祖血統の本願寺住職としての悲壮な死の報恩講の二つの例を挙げたが、第2代如信上人も、みちのくから最後の旅立ちで、さらに偉大な死の報恩講を親修されたというべきであろう。
 しかし、今年目睫にせまる京都本山東本願寺の報恩講は、われわれの切なる願いにもかかわらず、住職大谷光暢法主と嶺藤宗務総長との『愛憎違順』がエスカレートして、報恩講七昼夜の御正忌法要は東本願寺住職法主の宗派離脱決意に同調する全国の宗派離脱声明寺院170ヵ寺が取りしきって行う。信心のない内局、宗務所には手をふれさせない、本山寺法に『本山の寺務は内局が行ない、その事務は宗務所の各部門において分掌する』とある規定を破り、また宗憲の儀式規定及び儀式条例をも棚上げして、宗派当局を報恩講寺務からオフリミットにさせる、というのである。
 費用も宗派予算を返上し、離脱寺院が総額1700万円の運営費を負担し、庶務、会計、式務、警備、参拝接待などの事務は離脱寺院の『報恩講実行委員会』が行う。大師堂の法要出仕者は離脱寺院及び協力寺院に限るという。この企てに当然反発する総長内局宗務所側が実力阻止の挙に出る場合を予想し、警察署と緊密な連絡をとる、と意気込んでいる。
 これに対し宗務総長側は、報恩講は例年のごとく宗派宗務所の寺務として強行すると宣言し、配下の緊急対策委員長は離脱寺院住職の大師堂出仕を許さない方針により、宗派機関を総動員して具体的対策を実行する、と硬直している。具体的対策とはピケを張って物理力でもみあうことをいうのである。
 報恩講は宗憲の定める法要式の中の恒例法要の定会法要として最も重要なものである。宗憲に『法要式は仏祖を礼拝し、所依の経典を読誦し、仏徳を讃嘆して報恩の誠を尽す儀式である』と明示してある。
 宗祖親鸞聖人の真影を礼拝し、報恩の誠を尽す厳粛な御正忌報恩講に於て、僧侶たちが二手に別れての暴力沙汰を予想するとは何という気違い沙汰であろう。
 報恩講は2代如信上人、3代覚如上人以来本願寺宗門の最も厳粛な、しかも最もたのしい恒例法要なのである。これに導師たる宗祖血統の本山御住職法主は如信上人以来一命を捧げても親修報恩し奉る使命がある。
 本山本願寺御住職法主は報恩講七昼夜の大法要中、御代理として連枝中より上綱一名を任命されて法務運営一切を司らしめるのである。これは宗憲条例を越えた大責任の地位である。
 願くは御歴代の師主御照覧のもと、御住職法主には上綱を通じて宗憲条例に示されている至高至上の報恩精神堅持の道を進められ、僧職葛藤の外にあって『遼絶を遠しとせず、境関千里の雲を凌ぎて諸国より群詣する』 純真なおん同朋おん同行の仏恩報謝の浄行を嘉納あられんことを切に祈念するものである。
 宗務総長側も昭和49年4月就任の前夜から御住職法主管長を欺いた不信行為を反省し、かつては報恩講七昼夜21座の法要中、総長は宗務総長室にいながら本堂にも大師堂にも一座も出席しなかった非礼背恩を懺悔し、報恩講円満勤修の純信に立ちもどって御住職法主側、離脱声明寺院側の硬化脱線をなだめてもらいたいのである。

大谷派正常化に向けて

親鸞聖人の苦笑

 親鸞聖人は、その編著『教行信証』の冒頭において大無量寿経の経名を挙げ、「真実之教、浄土真宗」とした。智目戒行不能の愚禿親鸞に適合した教えは、大無量寿経の他力本願に帰依する浄土真宗であったのである。
 しかし親鸞聖人は、下智下根に対する現実的な教え、すなわち浄土真宗は自分の開発でない、歴史的にインド・中国・日本・『三朝』の浄土の宗師が真宗念仏を開く、と説き、また、論家宗師、浄土真宗を開きて、とも自著に記している。
 曽孫の覚如は親鸞聖人入滅33回忌の頃、親鸞伝絵を著わし、親鸞聖人の言葉として、三国の祖師おのおのこの一宗を挙行す、愚禿すすむるところさらに私なし、といってインドの竜樹・天親、中国の曇鸞・道綽・善導、日本の源信・法然の七聖者を浄土真宗の七祖師として、自分はその帰依者である、と言っている。また『教行信証』の中の自作の詩賦『正信偈』は、真宗の僧侶・門徒が朝夕仏前で親鸞聖人作詞の和讃とともに節をつけて朗唱するのであるが、その中に、本師源空法然上人は、真宗の教証を片州(日本)に興し
た、と賦し、和讃には、本師源空(法然) あらわれて、浄土真宗をひらきつつ、と歌って恩師法然上人が浄土真宗の開祖である、と讃仰している。
 しかるに、親鸞聖人以前の三国の七祖師たちは学徳高き持戒の名師であって、真宗のめざす下の凡夫、社会人ではない。それに対し親鸞聖人は真宗の現実的教学を身をもって体験した。僧形を保ちながら蓄妻持子の煩悩生活に投入して識者から生臭さとして批判され、迫害されながら、他力念仏ひとすじに生きて、凡夫として九十歳まで弥陀の本願を祈り抜いた。
 親鸞聖人の生涯は一粒の麦であったろうが、当時社会不安の大衆からはカリスマ的親近感が起ったに相違ない。愚禿親鸞聖人一人がためなりけり、と言った親鸞聖人を本願寺の聖人と敬慕し、御開山とあがめ、祖師聖人、宗祖聖人と尊称するに至った。300余年後、16世紀には戦争プロのワンマン織田信長の狂暴に抵抗する程の日本一の大教団にまで発展したのである。
 親鸞聖人は弘長2年(1262) 11月28日に他界した。この命日をピークとして一週間さかのぼり、京都の本山本願寺で住職法主が七昼夜の報恩講を主宰し、全国の末寺・門信徒がこれに出仕参詣する美わしいならわしは、親鸞聖人の孫、法統第2代如信上人から始まったことは、さきの頁にも記したが、本山東本願寺で延べ十万の参拝者を受け入れる大量の事務及び費用は末寺の拠金により、末寺の包括団体たる真宗大谷派宗務所が引き受ける規定になっている。
 ところが、本欄でたびたび記すように来る11月21日逮夜から始まる本山東本願寺報恩講御正忌法要には、あろうことか紛乱が予想されている。
昨年11月6日、本山住職大谷光暢管長が包括団体真宗大谷派から離脱する意向を声明して以来、これにならって現在大谷派末寺の中で約170ヵ寺が宗派離脱を表明し、所轄官庁にその認証を申請中である。今回その末寺団が独自に報恩講実行委員会を結成して本山の報恩講を行い、費用も負担し、例年のとおり内局・宗務所の報恩講事務管掌を許さない、というのである。これは本願寺本山寺法の規定にもないことなので、驚いた内局・宗務所側は俄然硬化し、実力をもって離脱寺院側の企画を阻止する構えである。
 これは前に詳しく述べたが、政争の外に立つ一般大谷派の末寺住職門信徒としては、憂慮にたえず、宗門は暗雲に閉された。
 11月1日から6日まで東京本願寺の報恩講厳修中、京都から本山御住職大谷光暢法主が5日のお逮夜に見え、新門・新々門おそろいで導師を勤めて盛大であった。そのあと大谷法主は、本山の報恩講は例年の通りで噂さされる混乱はない。唯だ離脱寺院は信心に熱心であるという意味を語られた。これはわれわれを安心させた。
 しかるに11月7日、京都の嶺藤総長は本山大師堂で『報恩講お待ち受け決起大会』を開き、離脱寺院の出仕を阻止する、そのため宗務所内に非常事態対策報恩講本部を設ける、と決議した。それは11月15日に設置され、21日から28日まで報恩講七昼夜の法要中、全国から延べ4000人の僧侶・門信徒・宗務所役職員を順次動員して警備・接待に当る、というもので、離脱寺院の出仕阻止の大袈裟な実力行使隊である。
 私は、これを聞いて再び心配になった。先頃マスコミの噂が混乱を伝えた当時、私は大谷派宗議会の無所属議員団はこの際、御住職法主、宗務総長、宗議会議長に対して不祥事態解消の要請を強く打ち出すようにと、同団の顧問役として世話役に頼んでおいたが、それは書面で提出されていた。大谷法主の東京談話だけでは安心が出来ず私は8日朝、京都滞留の無所属議員で三条教区の手島恵昭師、北海道教区の常塚文雄師とともに嶺藤宗務総長を総長室に訪ねた。
 いわゆる離脱寺院約170ヵ寺は離脱の意志を表明したに過ぎず、宗教法人法第26条に基いて離脱の寺院規則変更の認証を得たものは、まだ一カ寺もない。現時点においては全部が依然真宗大谷派に属している寺院なのである、と私は言った。それを総長が早まって寺籍簿から削除した。これがいわゆる離脱寺院を興奮させ今日の対抗状態にエスカレートさせたと思う。総長は、その誤りを反省し、寺籍削除を取消し、例年のごとく報恩講出仕を教務部で受付けなさい、そうすれば紛乱の根が断たれ、報恩講混乱の心配は全部な
くなってしまうのである、と言った。ところが総長は、宗教法人法が離脱手続を受けつけるのは信教自由の原則に基く、すなわち、離脱を表明した寺院は大谷派と信仰を異にするものと見る。それ故宗教法人法の規定は問題でない、いわゆる離脱寺院は声明とともに大谷派から除外されるのである、という。
 私は総長に、蓮如上人の御文(章) 4帳目8通の通称八カ条さまの始めのところに『七昼夜の時節にあひあたり、不法不信の根機に於ては、往生浄土の信心獲得せしむべきものなり』と仰有っているのを忘れたのか。報恩講に際しては、たとえ不法不信のものでも参詣して信心を獲得せよ、という蓮如さまの御考えである。いまいわゆる、離脱寺院と称する末寺は宗教法人法によって幸にして現在なお包括団体たる真宗大谷派にとどまっているのである。この動かすべからざる現実に従えば、昨日の大師堂の報恩講お待ち受け大会も、その決議も必要なくなるのではないか、と言ったが宗務総長は結局理解しない。
 手島師も、総長の宗教法人法無視を非難し、いわゆる離脱寺院に対する総長の無慈悲と冷酷を厳しく忠言したが何の効果もない。総長は国家の法律を無視して平気である。 昭和52年以来度重さなる京都地裁の仮処分命令無視の常習犯者であるが、いままた、われわれの前で宗教法人法無視の意志を固執して、てんとして恥じないのである。また、蓮如上人にそむき末寺住職各位に対する宗教的な抱擁力もない。木石に等しいワンマン意識しかない。宗祖聖人の『親鸞聖人もこの不信ありつるに』といって弟子唯円に密着して語ら
れたあの温か味はないのである。遅く見えた深田英雄師もあきれたというばかり。
 私は総長を見限って内事の本願寺々務所を訪ねたが、離脱寺院代表が不在だったので、曽我敏事務長を自宅に訪ね、いわゆる離脱寺院は現在、法的には大谷派に籍がある事実を語り、宗務所側の物理的実力行使があっても応戦しないで、あくまでも祖師聖人の報恩講には争いの形をやめ、敬虔な姿勢を堅持して下さい、と要請した。
 親鸞聖人は、自分は祖師ではない、開山ではない、といっている。 しかし、われわれは90歳まで生きて本願念仏の大衆化に苦労された恩徳を報じないわけにはいかない。しかし、その祥月命日にあたる七ヶ日の報恩講で、 自分を慕う僧侶の間に参拝の方法について実力行使の紛擾がある、と知ったら、親鸞聖人は自分の残した和讃『無明煩悩しげくして、塵数のごとく遍満す、愛憎違順することは、高峯岳山にことならず』を思い返して苦笑されるであろう。

親鸞聖人悲泣の報恩講

 親鸞聖人は鎌倉時代の末法の世相を嘆いて 『釈迦如来かくれましまして、二千余年になりたまう、正像の二時はおわりにき、如来の遺弟悲泣せよ』と詠じた。その90歳往生5年前の85歳、正嘉元年春(1257)のことであった。
 真宗大谷派本山東本願寺では宗祖親鸞の恩徳を報謝する毎年11月、 宗祖の御正忌として一週間の報恩講法要が、去る21日から行われたが、大谷派離脱を声明した本山東本願寺及び全国約170ヶ寺と、離脱反対の宗務総長側の宗務所員末寺僧侶信徒とが、互に世界最大の木造建築といわれる大師(祖師) 堂で宗祖親鸞の真影を前にして占拠抗争を演じ、法要の主導権争いの暴状を露呈した。
 私は離脱寺院団が報恩講委員会を組織し、宗務総長側が緊急対策委員会で対抗すると聞いた時から本山東本願寺を創始した教如上人を盛り立てた全国の末寺住職門信徒の美わしい念仏奉仕の370余年の伝統を汚がす不祥事態として、幾度となく、3回に亘って恥ずべき対立分裂中止を勧告した。8日には宗務総長を訪ねて、法的にも宗教的にも大谷派離脱の現実は不存在なるゆえんを説き、大谷派除籍の取り消しを求め和光同塵の平穏な報恩講勤修を勧告したが、ついに容るるところとならず、離脱寺院側に行き総長宗務所側のバリケートやピケの物理的暴力には対抗応戦しないよう、宗祖報恩謝徳の第一義語を忘れないようにと希望したのであった。
 私は万一、本山東本願寺の聖域が分裂抗争の報恩講となる時、宗祖親鸞は自作正像末和讃の『愛憎違順することは、高峯岳山にことならず』を思って苦笑されるであろう、と書いたが、今冒頭に掲げた正像末和讃巻頭の『如来の遺弟悲泣せよ』の一節からすれば、宗祖は苦笑しながら実は悲泣せられるであろう。
 しかし、報恩講第1日開儀の前夜、対立する双方の代表者と無所属議員世話人深田英雄師がともに五辻宗議会議長に呼ばれて2時間も話し合った際、『報恩講を平穏に行いたいことでは双方の意見の一致を見た』ことを知らされ、また宗務総長も『宗門紛争解決の足掛りになると思うので話し合いをしたい。 離脱住職の出仕問題は法務の所管なので一任する』『出仕阻止は断念せざるを得ないことをほのめかした』(11月21日読売朝刊)と報道されたので私は安心した。
 21日、私はホテルに待機したが、反対に法要分裂のニュースが入ってくるので、半信半疑で午後1時、本山内事部に行ったところ、宗務総長宗務所側の竜山参務が数十名の記者団に囲まれて、今朝の会談で再び離脱寺院出仕排除に逆転したと会見していた。
 私は驚いたが、とに角教務部へ出仕を申込み、これをもって長い廊下をつたって本堂・大師堂裏の式務部へ届けに行った。ところが式務部の前の階段はバリケードで閉され、裏階段を上って行くと宗務所の職員らしい若い僧侶たちが多勢ピケを張って私を阻止しようとした。私が離脱寺院でないことがわかるとやっと通してくれた。しかし、式務部には内陣出仕の座席を定めるいつもの準堂衆受付けがいなかった。千葉参務が出仕待ちの住職たちに何か伝達していたが、たまたま東京の五島宗夫師がいて出仕の装束法衣に着替えようとしていた。私も再び内事に戻って装束を改めて内陣の後座敷へ座った。
 そこでは数十名の離脱寺院住職が出仕していた。法要はすでに開始されていた。 大谷光暢法主の導師で各連枝、五ヵ寺等によって荘厳に進められ、向こう側の後座席には宗務所側らしい住職が出仕していたようである。
私は誠にありがたい、やはり平穏な報恩講になったのだと喜んでいた。七昼夜最初のお逮夜法要である。法要が終ると大谷法主は外陣に降り、出仕連枝も、私の前に座って出仕していた離脱寺院住職も、すべて立上って法主退出のあとにつくのである。いつも法主は内陣の奥の後門へ向って退出するのにおかしいと思った。五島師も不思議なこと、といいながら外陣に降りて一行について退出した。
 われわれは内事へ向かったが、法主出仕の大師堂裏のお成り廊下、後堂、後門はすべて宗務総長宗務所側のバリケードやピケで通れず、法主と離脱寺院の一団は自動車を雇い、内事門から街路を迂回して本山大門に行き、そこから白洲の砂利道の境内を雅楽僧を先導にして一般参詣の群衆する大師堂の畳衆生席を通り、内陣に着座して無事に法要が勤まったのであったことを知らされて唖然とした。
 その夜、私はホテルで再び話合いがついて明日からは平穏ときいたので、翌22日晨朝(お朝時)には午前6時に内事に行き、晨朝法要出仕のため装束を改め式務部の受付へ向かった。ところが式務部の受付係の準堂衆がいなくて千葉参務がいた。参務は内陣後座席へ出仕するようにと言ったので、内陣へ行き南側の後座席へ独り座った。定刻7時より前であった。
 しかし、定刻が過ぎても内陣にどなたも出仕がなく、外陣との堺のお巻き障子も開かれず、親鸞聖人の御影像の扉も閉されたままである。そのうち内陣に灯火がつけられ、お巻き障子もあき、外陣へ列座堂衆が着座した。そのとき大師堂南側の入口の方で騒がしい音が聞えた。『通して下さい』という金切り声と『離脱寺院は帰れ』というシュプレヒコールである、どたん、ばたんともみあうような音が聞えた。これは阿弥陀堂のおつとめを終えた法主側離脱寺院一行が大師堂へ向かう途中、ピケ隊の阻止に出あった騒音だった。 前夜の平穏化ニュースも間違いであった。途端に外陣の堂衆はあわただしく退席し、外陣に最初から座っていた宗議会の与党議員数十名が晨朝勤行を勤めた。 祖師御影像は閉されたままであった。
 私は、その日は日中法要も逮夜も中止と聞いて出仕を思い止まったが、実際は日中には法主以下の離脱住職一行はバスで大門に至り徒歩で大師堂に上ったが、宗務総長側のピケとシュプレヒコールのため内陣に行かれず、外陣堺の竹矢来の一般席でパイプ椅子にかけ裏方とならんで法要を済ませたということであった。午後2時の逮夜は大師堂法要を中止し、内事の広間で行なったのであった。
 私は翌23日午前6時から内事に行き、装束を整えていた。
 7時に内事門からバスが出た。私も乗せてもらって導師霊源院大谷暢順連枝と離脱寺院一行とともに阿弥陀堂門でバスを降り、阿弥陀堂で晨朝勤行を行ない、広い廊下を渡って大師堂へ向かった。しかるに、そこにはスクラムを組んだ教衣輪袈裟の僧侶を中心とする、数十名の厳重なピケ隊がいて、『離脱寺院は帰れ』という烈しいシュプレヒコールで入堂を阻止した。離脱住職側がこれを突破しようとすると、『暴力々々』といって阻止する。自分たちがスクラムを組み、シュプレヒコールを叫んでいる暴力行使に気が付かないのである。
 止むなく霊源院連枝一行は阿弥陀堂を降りて大門へまわり、大師堂へ上って内陣へ行こうとした。私もついて行ったが、外陣の所に宗務所職員か地方教区僧侶か、その関係の門徒も少しまざってギッシリと座り、内陣へは上がれないのである。そして烈しいシュプレヒュールである。霊源院は止むなく大師堂一杯の参詣門信徒の中央をあけてもらってバイプ椅子に坐り、導師としてわれわれの助言で晨朝勤行を勤めたのである。
 23日午前10時のお日中、午後2時のお逮夜には法主、裏方が出られた。やはり内事門から自動車で大門へ行き、徒歩で大師堂へ上がられ、衆生席で離脱寺院一行とともに勤行を済まされた。しかし宗祖御影像は閉されたままである。宗祖もピケにあった形であった。退出して大門へ行かれるとき法主は、満堂の門徒一同に『迷惑をかけているが、念仏を頂いてすこやかに』と挨拶された。
 参詣者は法主を階段下で見送った。200名位は大門でバスに乗る法主、裏方を囲み、静かに去るバスの法主裏方に手を振っていた。
 私は、その逮夜出席を済ませて帰京した。
 私は、26日にはまた本山出仕に上洛したい。
 分裂報恩講の原因は離脱寺院に対する特別意識である。宗務総長に説いたように、本山本願寺はじめ離脱寺院というのは申請の寺院規則改正が官庁の認証を得てから発生するのである。しかるにいまだ一カ寺もその認証を得ていない。すなわち離脱寺院は一ヵ寺も存在しない。約170ヶ寺は真宗大谷派寺院としての寺院規則を使用していて決して離脱独立している状態ではない。これを宗務総長が感情的に宗派から除籍したのが大騒動の第一歩であった。宗務総長は僅少な数の離脱表明の寺院などは親心をもって抱きかかえてしかるべきである。離脱寺院がいきり立ったら、早まるなかれ、と興奮を冷さなければならないのである。それを軽率にも対抗意識を燃やしてピケやコールににがい僧侶を煽動し、大事な宗祖讃仰他の報恩講を泥まみれにしてしまった。宗祖親鸞聖人は弟子性信への書簡に『浄土真実信心の人は、この身こそ浅ましき不浄造悪の身なれども心は已に如来と等しければ、如来と等し、と申すこともあるべし、と知らせたまえ』と書いている。
 本山本願寺の報恩講を自分たちの手で行う、と考えた離脱寺院の中には、敬虔な真実信心の住職僧侶門徒がいたかもしれない。それは如来と等しい人たちである。同一念仏無別道故である。
 この分裂報恩講のエスカレーションについて、本願寺第24世住職として大谷光暢法主管長は重大な責任を感じて頂かねばならない、と思うが、その補佐の重責にある宗務総長も、祖師・蓮如師の教論を深く理解して欲しいのである。

分裂報恩講の愚挙

 真宗大谷派東本願寺では、宗祖親鸞を鑽仰する宗門最高の行事たる報恩講が罵声とピケに汚され、参詣の門信徒延べ十万と推算される群参の前で儀式の中心者たる導師大谷光暢法主、大谷光紹法嗣以下各連枝が祖像をまつる世界最大の木造建築といわれる本山大師堂内陣に出仕することができず、堂外の広縁に座して大谷派を離脱表明の寺院団その他有志寺院とともに勤修するという最悪の事態が、とうとう最後まで続いた。
 私は21日の第一日逮夜から23日まで参詣して一旦帰京し、26日に再び上洛
して27日の御日中後、帰京して夕方5時半からの読売ホールの都民報恩講に列し、築地本願寺の竜山副輪番導師の法要と藤島・雲藤両講師の講演拝聴の後、夜行で三度び上洛して28日御満座の辰朝と御日中に広縁で参加した。
 その御満座日中には、法主・裏方、新門新裏方をはじめ各連枝が相変わらずスピーカーの騒音と厳重なピケのため本堂へ入れず、敷居の外の縁側へパイプ椅子を並べて臨時座を作り、われわれは2時間、堂の板の間に坐って法主の式文、 嘆徳文読誦、伽陀斉唱及び正信偈、如来大悲和讃の阪東ぶし勤行に参詣した。
 拡声器があるので総勢約50名色裳付け五条で差し抜き(袴)に威儀を正し、 堂衆を交えた総出仕者の勤行唱和の声は境内に鳴り響いて荘重であった。 正座する私のすぐ前に椅子に掛けた真明院連枝は、勤行中溢れ出る涙をハンカチで抑えていた。私も胸が一杯になった。明治・大正・昭和の昨年まで、大師堂内陣で行われる厳粛な報恩講を思うものには悲しみを蔽い得ないのである。
 勤行が終って退堂され、大門(だいもん)に向かう法主・法嗣の御一行とわれわれ出仕者を囲んで多勢の門信徒が広い境内の白洲の砂利をふんで大門へ見送るのである。涙声で称名念仏する純真な門徒、法主疎外の報恩講にふんまんの叫びを揚げる信徒、私の顔見知りの東京の婦人会の門徒も眼に涙を浮かべていた。
 大門へ来て法主・法嗣(新門)のご挨拶があった時、本堂から降りて続いた参詣者は千人を越えたろう。バスに乗った法主・裏方、新門・新裏方がバスの窓から見送りの門信徒と握手している光景は美わしいというのか、悲しいというのか、悲喜こもごもというべきであろう。
 報恩講第一日の前夜、五辻宗議会議長の斡旋で宗議会両派代表及び離脱表明寺院代表が会談の結果、平和な話し合いがついたと報道された時、私たちは、そうあるべきだと思って喜んだが、翌21日前には決裂してしまったのである。
 22日夜に再び話し合いがもたれ、宗務所内局側から一法座だけ総ざんげの意味で、僧侶は全部外陣に座って法主・連枝各位を内陣に迎えて勤めよう、そのあと内陣南北の余間席に宗務所内局側寺院と離脱表明側寺院が別れて出仕し、内陣には法主・連枝各位が出座されて平穏な報恩講としよう、という申出でがあった。
 これに対し離脱側も早速賛成したが、それが翌日、提案者の内局側から撤回となって正常化が実を結ばなかった。
 25日午後5時から御伝鈔拝読が毎年の例で、全国の僧侶・門信徒が宗祖親鸞聖人の多難かつ金剛の信心90年の生涯を心に再現する敬虔な行事の夕である。
 この日は午前8時半から4回の話し合いが行われ、最後時間ぎりぎりに内局宗務所側は御成り廊下後堂のピケを外し内事から上衆、堂衆の捧げる御伝鈔をお迎えし、本堂で朗読が終るまで2時間は本堂裏その他のピケ中止と決定し内局参務がその実行を約束した。ところが実行できなかった。 ピケの宗務所職員や学生たちが内局参務のいうことをきかない、というのである。
 それで満堂の参詣門信徒は失望した。 そして宗務所内局側は、法主台下が御伝鈔をお渡し下さらないから拝読は中止、と室内放送した。 これは事実無根のことで、宗務所内局側が命令してもピケが解消できなかった。ピケが続いては長い廊下が通れず、御伝鈔を御本堂に捧持できないので、止むを得ず本堂での御伝鈔拝読中止となったのである。
 私はこれを知って、内局参務の命令も通らない宗務所とは、そもそも何かと思い、同時に自分たちのピケを棚にあげて事実と反対の放送を行なって、法主をわる者にする宗務所職員の無法に驚いたのである。
 分裂・欺瞞の報恩講のあと東本願寺真宗大谷派はどうなることだろう。これは法主も内局も、われわれ宗議会職員も一万末寺も、内に省みて他力念仏の信心を励み、互いに良識を重んじ、真俗二論の教えをかみしめて行くほかにはない。
 そもそも正式にいって所轄官庁は一ヵ寺の離脱寺院をも認めていないのである。現在大谷派の一万末寺は全部大谷派寺院として寺院規則を守っている。離脱寺院は居ないのである。 分裂報恩講は空しいものの上に抗争煩悩が燃え上ったのにすぎない。根本が誤っているのである。良識を失ったこの無知が昭和五十四年の報恩講を汚したことを本山も大谷派内局も、宗祖・蓮如師に懺悔しなければならないのではないか。

真宗大谷派違法の年

 真宗大谷派と本山本願寺の違法競演は宗祖親鸞聖人の恩徳をかみしめる例年11月の御正忌七昼夜の本山本願寺最高の大法要を混乱喧騒をもって汚染するに至った。
 根本的には本願寺住職法主にも大谷派宗務総長側にも親鸞聖人の他力念仏の教えが冷却したためであると思う。お互いに念仏称名を二の次ぎにして一万末寺・一千万門徒組織の支配権の争奪、枳殻邸・聖護院及び全国53別院の莫大な不動産をめぐる葛藤に一心一向の形である。
 したがって、そのためには宗憲も国法も無視して平気である。宗憲無視が宗内で競演されると国法も無視して非国民に堕落する。
 先日の分裂報恩講も大谷光暢住職法主が本願寺規則に『この寺院の寺務は大谷派の内局が行ない、その事務は大谷派宗務所の各部門において分掌する』とあるのを、報恩講の寺務を離脱寺院団にさせると考えたり、また宗務総長は、まだ全国で都道府県から離脱の認証を受けた寺院は1ヵ寺もないのに、単に離脱の表明をして手続中である160余ヶ寺を独断で大谷派から除籍して、大谷派でもなく離脱でもなく、宙に浮かせて強いて離脱寺院団の名称を冠らせた。これは宗教法人法違反である。
 これが和合僧の真宗教団として前代未聞の分裂報恩講となり、七昼夜闘争、睦み合いの恥をさらした。宗祖が『有情の邪見熾盛にて・・・・・・ 念仏の信者を疑謗して破壊瞋毒さかりなり』と嘆いた悲泣を地で現出した。
 真宗大谷派を離脱する意志を抱くものは信仰が違うとピケを張って参詣を拒む宗務総長、法主住職について離脱するものこそ正しい信仰であると情熱を湧かすひと握りの少数寺院団は、蓮如上人が、『この御正忌のうちに参詣をいたし、聖人の御前にまいらん人の中において信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし』と御文(章)に書いていられるのを忘れている。信心が違っても、ともに報恩講参詣を邪魔し合うというのは、もともと組織支配の争いにのぼせ上って宗祖崇敬報恩の思いが蒸発したのではないのではないか。
 また、分裂報恩講の最終日近く枳殻邸が譲渡担保の名義人からその3分の1が更に別の金融業者の所有名義となったことがニュースとして各新聞に発表され、更に昨年、法主住職が譲渡担保を契約した時の念書が公表されて、 実は売ったことになっていたことが明るみに出た。
 昨年11月、法主住職が枳殻邸3万5000平方メートルの土地を担保に数億円を借りたのは、離脱独立の費用ということであった。しかし「宗教法人」 本願寺規則には『この法人は借入または保証をすることができない』と明記してある。
 法主住職は自らの本願寺規則を無視された。これは昭和51年5月、京都地裁の仮処分で法主住職は 『本願寺の代表役員、法主、住職等の名義を用いて手形行為、金員貸借行為、保証行為等一切の債務負担行為(中略)をしてはならない』と判決された国家の裁判所の命令に違反している。 本山本願寺は大衆に法を説く前にまず国法に従順でなくてはならない。
 同時に真宗大谷派宗務総長も、今次分裂報恩講は国法たる宗教法人法無視を敢てした。
 また宗務総長の国法無視は常習的である。 昭和51年5月の管長代務者職務執行停止の仮処分命令違反以来、毎年の仮処分無視が続いたことは裁判所を憤激させた。また昨年3月の違法な管長推戴会議での竹内良恵不法管長代表役員は、裁判所から代表役員の職務執行の停止の仮処分命令を受けてもこれを無視し、その招集にかかる6月の宗議会は無効として開会を禁止されてもこれを強行し、開会中、議員に発言せしめ裁判所の開会禁止仮処分命令反対の決議を行うという国法無視の愚昧を暴露している。
仮処分命令は控訴のいかんにかかわらず、直ちに無条件に従わねばならない。本訴決定までは緊急命令として国民の誰もがこれに従う義務があることを知らない宗議会であり宗政当局である。これで一万末寺・一千万門徒を誇称する資格があるであろうか。
 本年(昭和54年)8月、大谷派東京教区では教区会が開かれ、宗門護持金の件、教区費徴収の件、 護持金及び教区費割当の件の3議題が審議された。 しかるにこれが裁決が行われ議長は賛成15、反対16、棄権1と宣した。宗門護持金、教区費並びにその割当は明らかに否決された、教区会は3議案を否決されて東京教区寺院は宗門護持金と教区費の割当が定まらず、教務所への納入が不可能となったのである。しかるにこの時、教務所長の差し金で議長は議長席にいるまま自らの一票を投じて強いて同数とし、更に議長裁定で
一票ありとしてさきの裁定をくつがえした。即刻これに異議を提出した議員の発言に議長はとり合わず、横車を押して終了した。
 議長が議長席にいて一票を投ずるなどということは常識外れで明らかな違法であり、そもそも議長が議長席にあって、一旦表決して反対を宜し議案不成立となったものを、さらに議長が議員として一票を投じたことは無法である。国家の衆議員規則第156条には表決更正の禁止を規定し議員は表決の禁止を求めることができない、と明記してある。当然の常識である。
 教区会はその直後、緊急動議で議長不信任を13対17で通過させたが、議長と教務所長の平あやまりで3議案をうやむやにさせられたということであるが、この問題はまだ解決せず、強硬議員は教区の正常化のため訴訟を提起するといっている。
 東京教区会の違法不法は、大谷派宗務総長以下の違法不法をそのまま見習ったものである。それに宗門を代表する法主住職管長の違法行為が重なっては、真宗大谷派は低劣醜怪な百鬼夜行の集団というほかはない。本山本願寺及び真宗大谷派は、まず一億国民とともに国家の法制に従って、その社会的存在の正常化を計り、その上で宗教団体としての使命を遂行すべきである。
 国法から見て地平線下に埋没している現状では、明治28年、十有五年の歳月をもってわれわれの先祖門信徒が建ててくれた世界最大の木造建築の本山大師堂が泣くであろう。

大阪高等裁判所の証言

 去年(昭和54年)の11月20日、東本願寺の混乱報恩講第一夜の前日に、私は、大阪高裁へ証人として出廷した。
 われわれは一昨年3月26日、違法な真宗大谷派管長推戴会議で選ばれた竹内良恵師は真実の正しい管長でない、という京都地裁への仮処分提訴を行なった。これに対し京都地裁が、公認の真宗大谷派規則により大谷派代表役員は宗門の管長が就任するので、杉本昭一裁判長は『竹内を新管長に推戴した管長推戴会議の決議は(中略)結局無効というべく、依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長したがって法人大谷派の代表役員の地位にあるというべきであり、竹内良恵はそれらの地位になく、管長・代表役員の職務を執行しう
る立場にはない』 と判決理由書に明記したのであった。
 しかし、判決主文には竹内師に代表役員の職務を執行させてはならない、
とだけあって、判りきったことで不必要と考えたか、裁判長は管長の職務執行の停止を並べて書かなかった。そのため、主文にないからといって驚いたことに竹内師は管長気取りなのである。
 これでは宗務上、相変らずの二人管長の形で仮処分命令が死んでしまう。裁判長は理由書に、竹内師は管長・代表役員の地位にいないと明記している以上、まさか竹内師は大谷派宗務所に出ては来まいと思ったろう。ところが坊さんというものは物わかりが悪い。 不法管長が管長室に居て、真管長の大谷光暢師の管長職務遂行を妨害しているのである。
 それで私は、橿原信暁宗議会議員と共に大阪高裁に控訴して、京都地裁のこの判決を一歩徹底して、くどいようだが世間知らずの坊さんにわかりやすく、二重な話だが竹内不法管長の職務執行停止とはっきりと主文に書き添えて頂きたいと申請したのである。
 11月20日の公判で大阪高等裁判所に出向いた私は、いろいろなことを聞かれた。 そして今年また、前週の2月1日にも呼ばれて重ねて質問に答えさせられた。
 昭和44年4月の開中事件、即ち現大谷光暢管長が管長職だけを法嗣大谷光紹に譲ろうとした問題、これが現在の宗門大混乱のスタートといわれるが、その時分からの質問で、三位一体とか管長推戴手続だとか、こまごまと大谷派十年の内紛史を聞かれた。
 私は終始、東本願寺及び真宗大谷派が少くとも国家の裁判所の緊急判決たる仮処分命令には従うように念じながら、実際は法主住職管長側も宗務総長内局宗議会も意外な脱線をしていることを頭に置いて、恥をしのんで問われるままに真相を答えたのである。
 証言中、私はフト昭和51年4月1日、親鸞聖人御誕生会法要のことを思い出した。午前10時大法要が始まり、大谷光暢法主が導師で荘重であったが、宗議会議員は誰もいなかった。それは同じ午前10時に宗務所の会議室で議員総会が招集されていたからである。
 私は法要に出仕したので議員終会には遅れて行った。管長台下が嶺藤総長を独断で罷免すると発表された直後であり、また『大谷の里』で本願寺住職の5億円手形乱発事件で興奮した宗務総長は全国30教区から京都本山に数千人の僧侶を動員して、この日に宗門危機突破大会を行ったのである。
 総会に間に合った私は、われわれ宗議会議員は示威運動を行う前に、静かに臨時宗議会を開いて危機の現状と突破の見通しを協議すべきではないか、と言った。しかし議員総会は行動本能に駆られ、そのままデモ隊の向う鉢巻、メガホン、垂れ幕の闘争ムードの渦に呑み込まれてしまった。いやしくも宗祖降誕を祝う大法要の日のことであった。
 その翌月、5月25日に京都地裁から法主管長並びに宗務総長に初めて仮処分命令がでたのである。この時両方が仮処分命令を尊重し、国民の義務と思って実行して呉れれば、大谷派も本山東本願寺も内局も宗議会、4年前から正常な軌道に乗り、動揺する現代社会に親鸞の優れた信仰の光りをともし、大衆の精神的灯台の使命につくことができたはずなのに、というのが門信徒はもちろん、一般社会人のコンセンサスであろうと思う。
 その時の仮処分の一つ、大谷光暢住職に対する京都地裁の職権濫用行為禁止の仮処分判決は、本山本願寺住職が諸規定の手続きを経ずして 『真宗大谷派又は本願寺の代表役員、法主、住職等の名義を用いて手形行為、金員貸借行為、保証行為等一切の債務負担行為及び動産の売買、譲渡、担保権設定等一切の処分行為をしてはならない』と命令しているの
である。
 大谷光暢住職台下が国家の裁判所の、この勧告命令を守って頂けば、今日の混乱はなかったはずである。しかし住職台下は仮処分命令の下りた直後の5月末日に、四男暢道氏の一億数千万円の負債の保証として本願寺財産たる聖護院別邸土地の債権者への仮登記を許され、大谷専修学院の学寮修練舎も同様仮登記された。
 混乱は新しくここに始まり、嶺藤亮宗務総長は本願寺責任役員として代表役員住職補佐の身分でありながら、大谷光暢住職台下を刑事告訴するに至った。これが混乱でなくて何んであろう。
 一方、嶺藤宗務総長はどうであるか。総長は同年4月、自ら管長代務者に就任したが、条例違反として同じ5月、京都地裁から管長代務者・代表役員代務者の職務を執行してはならないという仮処分命令をうけたのである。ところがその直後の6月2日に管長代務者の職務を執行して宗議会を開会し、宗憲改正案等の決議を行なったのである。
 われわれは宗門を国法から逸脱させてはならぬと心配し、橿原師とともに宗議会議員として裁判所の仮処分命令を無視する不法宗議会の開催無効、決議無効を主張し仮処分事案として京都地裁に提訴したのであった。
 地裁に対して嶺藤総長は、4月に宗議会の招集はしたが、5月に管長代務者の職務執行を停止された以上決議の公布施行はできない、またしない。宗議会は開催しても決議の公布施行ができないから、会議の決議凍結の仮処分の必要はない、と裁判所に説明した。
 裁判所は、 嶺藤総長が管長代務者の職務執行仮処分の『決定に一応従う意志のあることが認められる』 したがって『管長の公布のない議案を執行するとは認められない』故に『嶺藤が本件議案の公布、執行をなすおそれはない』と判断し、嶺藤招集の宗議会は実質的には無効力で実害はない、と判決したのである。それは昭和52年3月15日であった。
 しかるになにごとぞ、嶺藤総長はその舌の根もかわかぬうち、5月27日に管長代務者の名をもって宗憲改正等の決議案を公布したのである。
 これは公人としての嶺藤宗務総長が白昼、京都地裁を欺いた行為であって、私はこれを行った総長の真俗二謡の心を疑うものである。
 私は証人として、真宗大谷派内紛十年戦争のスタートといわれる、昭和44年4月の大谷光暢管長の御開中事情について少し述べた。すなわち東本願寺住職、大谷派法主及び管長の三位一体から管長職だけを法嗣大谷光紹師に譲る意向を光暢管長が当時の訓覇内局に開申され、訓覇内局が大谷派伝統の三位一体の原則を破る一大事案として論議白熱した紛争であった。
 しかし推戴条例は、宗議会と門徒評議員会が次期管長仮補者を決定して就任を乞うことを規定し、宗議会においても門徒評議員会においても『4分の
3以上が出席した会議で4分の3以上の多数を以ってこれを決めなければならない』 ときまっている。宗議会は65名以内なので法定数の出席が可能だが、門徒評議員は300以内だから出席4分の3の法定数は220名前後に及ぶのである。これを全国から京都へ上山させることはむしろ不可能に近い。これが管長推戴会議開催の事務的なボトルネックなのである。管長推戴会議条例では宗門の重大事項ゆえ委任状の使用は許されていない。毎年2回、予決算などを宗門の財務を主に審議するために招集される通常の門徒評議員会では、出席は5分の1以上なら開会出来、それも委任状出席が許されている。これは審議事項が門徒関係の条例及び財務に限られているためである。
 御開申後の6月の宗議会は特別な審議機関を要請した。それで訓覇内局は管長推戴条例を改正し、委任状の使用を認めさせて推戴事務の円滑化を意図した。しかし当時の宗議会野党は、訓覇内局に向かって、4月御開申以来荏苒(じんぜん)として推戴会議を行わず躊躇しているのは訓覇内局の怠慢である。 委任状は認めない現行の法規で開催はできる。できないのは、しないのである。内局に誠意がない。内局が各教区へ行って説得したら、門徒評議員の4分の3の出席は可能で問題でない、と当時少数野党を代表して中山尊照宗議会議員が熱弁を振い、訓覇内局不信任案をつきつけたのであった。もちろん少数否決に終った。
 私はそのころ、イスタンブールの協議会で世界宗教者平和会議(WCRP)の準備委員長をいいつかり、大谷派に全国的な協力をさせたいと考え会派の籍を外すつもりで宗議会議員をやめていた。しかし御開申問題の突発で私の大谷派のWCRPへの引入れ意図は水泡に帰した。
 今の嶺藤宗務総長は、当時訓覇内局の参務で財務部長であったので、管長推戴条例による門徒評議員会では委任状使用は許されないことを知っていた。
 そこで六月の宗議会が終ると、9月になって訓覇内局は、従来の管長推戴条例にかわる新推戴条例案を作る改正にとりかかった。
 その案の第10条には『管長の推戴に関する議事は宗議会議員又は門徒評議員それぞれ4分の3以上が出席した会議で、出席者のそれぞれ4分の3以上の多数をもってこれを議決しなければならない。ただし門徒評議員会については、委任状をもって出席とみなし、その委任状に仮補者の氏名を自署した推戴書の提出をもって意志表示とし、議決の数に加えることができる』と改正しようとしたのである。
 訓覇総長も嶺藤参務も又五辻議長も、この新推戴条例でなければ御開申の目標の法嗣光紹新門の管長推戴はできないと考えた。
 ただし、この改正委は数回行ったあと結論が出ないままに年末の宗議会議員総改選が行われ、次の名畑内局は、この新条例の審議を行うことなく、新条例はそのまま廃案として埋没し去った。そして星谷内局の時には御開中が解消になった。
 続いて昭和48年暮の宗議会議員総改選で、翌年4月嶺藤内局が出現し今日に至っているが、推戴条例は昭和22年4月制定のままで門徒評議員会の委任状使用は許されない。
 一昨年、嶺藤宗務総長は委任状使用が許されないまま3月に管長推戴会議を違法に招集した。嶺藤総長は昭和51年5月に京都地裁の野田栄一裁判長から『本案判決確定に至るまで被申請人嶺藤亮は宗教法人真宗大谷派管長代務者、同代表役員代務者の職務を執行してはならない』という仮処分決定を受けていたのである。すなわち管長推戴会議として宗議会並びに門徒評議員会を招集することは裁判所が嶺藤総長に対し禁じていた。だから昭和52年3月26日の管長推戴会議招集そのものが違法で推戴会議は不存在なのである。私は国禁を犯した嶺藤総長の良識を疑う。
 次に総長は門徒評議員会の招集状に欠席の門徒評議員から、代理人の委任状を同封して委任状集めをやった。そして代理人を門徒評議員から得られないときは、嶺藤亮が代理人になることでご了承下さいと書き添えてある。これはまた何としたことであろうか。
 御開申当時、推戴会議の門徒評議員会には委任状が認められないことを承知し、新推戴条例を改正すべきであるとしたところの現嶺藤総長が委任状の許されない推戴会議の招集者として委任状を求めることは意外である。ことに招集者嶺藤亮を代理人に自薦して添え書きするに至っては何たる矛盾撞着であろう。
 私はもちろん、こんな委しい証言をする時間がなかったが、大谷派宗務総長の宗務上の無節操を遺憾とする意味を述べた。
 裁判所の宗議会開催禁止の仮処分命令を無視した竹内良恵偽管長の開会した昨年6月6日の違法宗議会第一日に『今議会が適法に開かれたことを確認する決議』が行われたが、これは大江山の酒呑童子が手下を並べて強盗や追い剥ぎの適法を確認する決議をやっている感じである。
 私たちは教区の付託をうけて宗門の立法府たる宗議会に席を持つものとして、裁判所が違法と認めて、その開催を禁止しているものを宗議会と認めるわけには行かないのである。これを認めれば宗門に自殺行為を強いることになるのである。宗憲条例に従い裁判所に面倒をかけない正しい宗議会を私たちは乞い願い、宗門を国民の笑いものにしたくないために苦慮しているのである。
 その決議は、竹内管長の職務執行停止は却下されたというが、一昨年12月の地裁の仮処分を忘れているのである。その時『竹内良恵は管長、代表役員の職務を実行し得る立場にはない、依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長したがって大谷派の代表役員の地位にある』と理由書に明記されているのを読み直さなければならないのである。
 政府の認証した真宗大谷派規則には『代表役員は宗憲により、その宗門の管長の職にある者をもって充てる』とあって、法律的な代表役員は宗門では管長というので代表役員イコール管長である。代表役員の職務の執行を停止されることは管長の職務禁止にほかならない。だから前掲の仮処分命令が理由書に竹内良恵は管長、代表役員の職務は禁止されているのである。
 管長は明治5年に維新政府が寺門宗派を監督する立場で宗門におしつけた政治的事務職位である。故に団体の管理運営の責任者に名付ける代表役員とイコールなのだ。
 宗教法人法は宗教団体に法律上の能力を与えることを目的としている。すなわち宗教団体が財産を所有し維持運用し宗教事業を運営する世俗的な形をとらえて、これをたすけるのである。宗教そのものに対しては全く触れず管理運営の俗事面をとらえて政府が真宗大谷派規則を宗憲と別に認証してくれているのである。 真宗大谷派が宗教法人として認証された限りは官庁の世俗面の監督は当然で、世俗面か宗教面の判別は官庁がする。宗教団体自体はしない。すなわち裁判所の仮処分決定に対して大谷派は国民とともにこれに従わねばならないのである。裁判所に開催を禁止されても、宗議会の開催か否かは宗議会自体にあるというのでは法治国家の下の法人でなく、真宗大谷派は大江山の酒呑童子の群れの二十世紀版になる。
 私は真宗大谷派に育てられた明治の生き残りとして大谷派をアウトローの群れにしたくないのだ。
 真宗大谷派では、一昨年3月、管長推戴会議なるものが違法に宗務総長によって開催された。
 現在、真宗大谷派の管長は大正14年10月以来、大谷光暢法主である。その時、父君の光演句仏法主が引退の意向を示されたので、当時の宗憲たる宗制によって父法主の引退声明とともに、何らの手続きももちえずして、新法主として管長職を継がれたのである。
 昭和敗戦後、マッカーサーの民主主義風潮をうけて、管長職だけは全宗門の僧侶代表の宗議会と一千万門徒の代表たる門徒評議員会の両会が、宗祖親鸞聖人の嫡流を共同推戴のかたちで承継することが、宗祖の教えられたおん同朋おん同行の精神に合致すると考えられたのである。終戦当時20歳の青年であられた法嗣光紹新門の承継を民衆的にするため、父君光暢管長のご発意で、終戦直後の昭和22年4月に管長推戴条例が公布されたものであろうと思う。
 一昨年3月の時点で大谷光暢法主が管長位にいられる以上、宗務総長には管長推戴会議を開く資格がない。したがってその会議は管長推戴会議とはいえず、全く無意味な宗会であり、その決議は無効で、竹内某氏が推戴されても、すべてゼロである。それに加えて、その門徒評議員会では委任状を使った。毎年通常の門徒評議員会では、委任状を用いてもよい。しかし管長推戴会議は何十年に一度の重大会議であるから、条例で委任状は認めていない。
 かつて11年前、昭和44年4月に光暢管長は法嗣光紹新門に管長職だけを譲る意志を宗務総長訓覇信雄氏に伝えたが、訓覇氏は当時の筆頭参務、現嶺藤宗務総長および現在まで続いている当時の五辻宗議会議長とともに、推戴条例を改正し、推戴会議の門徒評議員会では、委任状を認めなければ法定数の門徒評議員本人の出席は不可能であると、内局は宗議会で答弁した。しかるに、その改正は今日まで、ついに行われず、光紹法嗣の管長推戴は取りやめになった。したがって、一昨年3月は従来通りの推戴条例である。
 京都地裁は、門徒評議員会そのものの不成立を指摘した上、会議の進行にも全出席者数から少数の反対者を差し引いて、その残りすべてを賛成数にかぞえるなどという、白票または棄権票を無視した決議方法を違法ときめつけた。
 京都地裁は、いろいろな角度で門徒評議員会の重大な瑕疵をみたので、その決議の無効を断定、すなわち竹内良恵師の管長推戴は否定されたのである。
政府の認証する宗教法人・真宗大谷派規則第五条によれば『代表役員は宗憲により、この宗門により、この宗門の管長の職にある者をもってあてる』 ときめられているから、管長でない者は代表役員になれない。だから竹内良恵師は管長でないから代表役員でもない。 裁判所は『依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長、したがって法人大谷派の代表役員の地位にある。竹内良恵はそれらの地位になく、管長代表役員の職務を執行しうる立場にはない』と決定したのである。そして裁判所はさらに真宗大谷派に向かって、すなわち
代表役員管長大谷光暢法主に対して、『竹内良恵をして真宗大谷派代表役員の職務を執行させてはならない』と命令したのである。
 しかるに竹内良恵師は、この裁判所の仮処分命令を無視し宗務所長室にいて、正しい管長代表役員である大谷光暢法主の執務を拒み通し、昨年6月に宗議会を招集した。
 裁判所は当然のこととして、無資格な竹内師の招集による6月宗議会の開催を禁止する仮処分命令を分したのであるが、竹内師は、これを無視して開会し、緊急動議を出させて裁判所の仮処分命令違反の反対を決議するがごとき、天に唾をする暴挙をあえてした。
 裁判所は、真宗大谷派の正しい代表役員管長である大谷光暢法主にも、竹内良恵が招集する6月6日の宗議会の開催は、これを禁止することを命令した。しかし大谷光暢代表役員管長は、多数与党と嶺藤総長の下にある宗務所、数百名の宗務職員の物理的力の前には、仮処分命令を実現することができなかった。
 しかし、正しい代表役員管長としては、国家の裁判所の命令援護のもとに、みずから正しい宗議会を開くよう、宗務総長に言明すべきではなかったか。
 宗務総長および議長が、真宗大谷派の宗憲を改正して宗祖親鸞聖人から必然的に伝承された法統のかたちを破壊し、宗祖以来累代の師主を否定し、現法主管長が信仰の正否を判定する義務と権利を剥奪し、本山本願寺を解散し、法主住職を廃止し、七百年の伝統を否定して宗祖の血統と法統を伝承すべき大谷家を追放し、真宗大谷派と本山本願寺の組織と不動産を末寺代表の宗務総長の手のうちに掌握し、本願寺教団の宗教ばなれを企てる現宗務総長内局、宗議会多数派の伝統破壊、信仰蒸発化の宗憲改正計画に対し、大谷光暢法主本山本願寺住職が抱括団体たる真宗大谷派を離脱すると声明したのも温和な大谷光暢法主管長としては無理からぬ決心であると評価されている。 そして全国で約二百ヶ寺の末寺が法主住職に同調している。
 しかし、大谷光暢法主は本山本願寺の住職として約一万ヵ寺にのぼる現在の真宗大谷派の被包括団体末寺を見捨てることは、宗祖聖人24代の血統をつぐ法主として大師堂の御宝前に座して、反省なく奉告することができない重大事である。
 たとえば本山本願寺が離脱独立しても、本山本願寺住職大谷光暢法主は真宗大谷派管長の職位は放棄できないのである。約一万ヵ寺近い末寺、本山を中心に仰ぐ住職門信徒に対して大谷光暢法主は、依然、真宗大谷派の管長代表役員として法統伝承、念仏教化の大貴任がのこるのである。
 私は、光暢法主がこの際、小乗仏教的なハムレット型の姿勢から大乗仏教の積極精神に立ち戻り、あくまで宗祖第24代法主管長として、念仏成仏の現代的な法統を聞信するため真宗大谷派の正しい宗議会、門徒評議員会を開き、宗祖、派祖以来の伝承を昂揚、大谷派一万末寺の上に晃々たる仏日を輝やかし、念仏称名の大合唱のもとに堂々たる教化を布くべきであると思う。
 いやしくも目下、真宗大谷派が国法を無視する大脱線を阻止し、中興上人の真俗二語の宗風を恢興すべきではないか。すべからく大谷光暢法主は真宗大谷派管長として、離脱寺院もよろこんで復帰しうるような真宗大谷派の正道を実現していただきたく、強く要望するものである。

砂上に無法な楼閣を築く

 真宗大谷派は、京都地方裁判所から一昨年12月以来、管長の職務の執行を停止されていて、管長でも代表役員でもないと厳重に仮処分判決を受けている竹内良恵師が昨年同様、本年6月にも管長名を使って宗議会を招集したので、裁判所は昨年よりはもっと厳しく、真宗大谷派の宗議会の開催を禁止し、竹内師の開催行為も、もちろん禁止した。ところが竹内師は再び京都地裁の、この仮処分命令を無視して宗議会を開いたが、当然、裁判所は宗議会が何を決議しても無効だといっている。
 しかし、その中で6月18日、議会は嶺藤宗務総長の退任を認めて五辻実誠宗議会議長が後任総長となり、古賀制二議員が宗議会議長に選任された。これはマスコミに宣伝され、挨拶状なども私のところへ来ている。
 われわれは、6月宗議会の一切の決議無効の建前をとる京都地裁に対して、五辻総長及び古賀議長の職務執行停止を申請せねばならぬのである。さきに宗議会開催禁止を申請した無所属議員団の当然のしめくくりである。私は同志議員に依嘱され、無所属議員団顧問として仮処分申請した。 下記は申請に添付した報告書である。

報告書要旨
 私は真宗大谷派の宗議会議員であります。
 宗教法人真宗大谷派及び宗門真宗大谷派の代表役員、管長は、本山本願寺住職大谷光暢師であります。しかるに嶺藤宗務総長は昭和51年4月19日に自らを違法に管長代務者に選ばしめて権力をふるおうとした。 これは翌月5月25日京都地方裁判所よりその違法を指摘され、仮処分決定を受け (昭和51年(ヨ)第314号仮処分申請事件)、嶺藤亮は管長代務者及び代表役員代務者の職務を執行してはならない、と命ぜられたのであります。
 しかし、嶺藤師は京都地裁の右仮処分命令を無視して、同年6月1日管長代務者の名を使って宗議会及び門徒評議員会を招集開催しました。
 私は京都地裁に対し、同志議員15名とともに右宗議会招集の違法、不成立を指摘し、右宗議会決議の執行停止の仮処分を申請しました(昭和51年(ヨ)509号仮処分申請事件)。
その時、嶺藤師は、自身が管長代務者の職務執行停止中である故、右宗議会決議の公布ができない。公布しなければ決議は実行されない。実害はないと陳述して、翌年2月15日京都地裁の決議無効の仮処分を免れたのであります。しかし、同年5月27日には、その陳述をひるがえし嶺藤師は管長代務者の名をもって右宗議会の決議、ことに宗憲改正案などを公布しました。これは宗務総長として京都地方裁判所を欺いたのであります。
 嶺藤師はさらに、昭和51年6月に再び管長代務者名を用いて宗議会及び門徒評議員会を招集し、われわれを唖然たらしめましたが、次いで昭和53年3月26日、管長代務者名をもって宗議会及び門徒評議員会を招集し、これを管長推戴条例による管長推戴会議としたのであります。
 右会議は招集者が無資格なので根本的に不成立なのであります。なお、管長推戴条例の規定する法定出席数に欠けていたのですが、嶺藤師は宗務総長として開催を強行せしめ、右条例の目的に矛盾し、規定に記載なき現管長の解任を議し、かつ突如提案せられたる新管長仮補者、竹内良恵師推戴賛成者数が法定数に達せず、賛成者数不足のまま現管長大谷光暢師を解任し、新管長竹内良恵師の管長推戴を決議したのであります。
 私は宗門の命運にかかる、この違法と混乱の危機を座視するに忍びず、橿原信暁宗議会議員及び大村計策門徒評議員と共に京都地方裁判所に、右会議決議無効と、その執行停止を求めました(昭和53年(ヨ)第499号仮処分申請事件)。幸いに京都地裁は同年12月14日竹内良恵の代表役員就任を認めず、その職務を執行してはならない、真宗大谷派は竹内良恵をして代表役員の職務を執行させてはならない、と仮処分判決を下し、管長推戴会議の決議は結局無効というべく、依然として大谷光暢が宗門大谷派の管長、法人大谷派の代表役員の地位にあるというべきであり、竹内良恵はそれらの地位になく、管長代表役員の職務を執行しうる立場にはない、と明記せられたのであります。
 しかるに竹内良恵師は、この明白な京都地方裁判所の仮処分判決による命令を無視し、翌昭和54年6月6日、宗議会の開催行為に及ばんとしたのであります。
 私は橿原議員とともに京都地方裁判所に対して、竹内師の右宗議会開催行為禁止の仮処分命令を申請しました(昭和54年(ヨ)第340号仮処分申請事件)。京都地裁は私の申請を全面的に認め、6月4日仮処分判決を下し、真宗大谷派に対し、竹内良恵が管長名をもって招集した6月6日の宗議会の開催はこれを禁止する。竹内良恵は右宗議会の開催行為をしてはならない、と命ぜられたのであります。
しかるに竹内師は京都地裁の仮処分命令に違背し、大谷光暢管長を無視して6月6日宗議会を開催したのでありました。
 私は竹内師の裁判所の命令に対する重なる違背行為に驚いたのであります。
 ところが本年6月6日に竹内師は再び管長名をもって宗議会を招集、開催の通達を出しました。今回は私ども12名の宗議会議員が申請人として、京都地裁に昨年6月と同様、竹内師の右宗議会開催行為禁止の仮処分命令を申請しました(京都地裁昭和55年(ヨ)第340号、仮処分申請事件)。 京都地裁は6月4日、昨年と同じく竹内良恵の宗議会の開催行為禁止、真宗大谷派に対しては右宗議会開催を禁止するという仮処分命令を出したのであります。
 大谷光暢真宗大谷派管長は、この仮処分に先立って宗務所に唯一の招集権者として宗議会招集手続きを命じましたが、竹内師は右宗議会開催を昨年のごとく自ら強行し、国家の裁判所の仮処分判決による命令を顧みないのであります。
 裁判所の開催禁止の仮処分命令に違背された会合で決議されたことは宗議会の決議と違い、一切の決議は無効と裁判所から伺っています。しかし、右会合では6月18日、嶺藤亮師の宗務総長辞任を認め、後任として五辻実誠宗議会議長の宗務総長推挙及び議長の後任として古賀制二師の選任を決議しました。 決議は一切無効なのですが、管長を僭称する竹内良恵師は6月24日、五辻宗務総長、古賀議長の任命を行いました。
①6月4日京都地方裁判所の仮処分命令に違背して昭和55年6月6日開催された宗議会は宗議会にあらず、その決議は何らの権威なきもので決議はすべて無効である。
②昭和53年2月14日京都地方裁判所の仮処分命令によって、竹内良恵は管長及び代表役員の職務を執行し得る立場にはない、と明記されているのであるから、竹内師の行った五辻実誠宗務総長、古賀制二宗議会議長の任命は無効である。
 したがって私は、大谷派の混乱を防ぐために、右②の五辻実誠及び古賀制二がその地位にないことを実際化するため、右両名推挙又は選出の決議無効を本訴訟をもって確認したいと考えますが、その本訴の結果を持っていては、その間に無資格、無権限な右両名がその違法な地位を利用して、いかなる無法な行為を行うかわかりません、宗門真宗大谷派、法人真宗大谷派の混乱、損失は源の知れないものがあります。
 すでに彼らは、今秋には臨時宗議会を開催して、一昨年以来問題になっている宗憲改正並びに大谷派規則の改正を実現する意図を公表しております。 このことだけでも宗門にとっては700年来の美しい伝統の破壊であります。宗門は宗教性を喪失します。宗祖親鸞聖人の貴重な教旨は真宗大谷派の中に、ますます稀薄となりはしまいかと心配されます。
なにとぞ至急に保全の措置を講ぜられたく切にお願いします。
昭和55年7月5日

竹内違法管長が念仏者なら

 私は真宗大谷派東本願寺の末寺住職として、宗教法人真宗大谷派の代表役員即ち真宗大谷派宗門の管長は、開山親鸞聖人のご血統として、その法統を伝承する本山本願寺住職かつ大谷派宗門の法主たる方が就任されるものと思っているのである。俗に三位一体というが、これが100年前の明治14年、真宗大谷派という宗派名が始まってからの長いならわしであった。
 ついで戦後、昭和21年9月真宗大谷派宗憲が制定され、翌年4月管長推戴条例を公布し、宗祖の血統の方であれば未成年者でも管長に推戴されると規定して、この伝統は制度化されたのである。
しかるに一昨年の昭和53年3月、嶺藤総長は大谷光暢管長が管長として現存されているにもかかわらず、新管長推戴のための宗議会並びに門徒評議員会を違法に招集し、これを管長推戴会議と称した。宗議会や門徒評議員会は宗門の最重要会議で、管長ご自身だけに招集、開催の義務が負わせられ、宗憲で管長の宗務の随一に規定されているのである。
 したがって嶺藤宗務総長は、その資格権限なきままに宗議会、門徒評議員会を招集したので、その二つの会は当然違法であって、両方が合わさってできるはずの管長推戴会議は成立不可能であった。
 しかるに嶺藤宗務総長はこれを強行し、開山親鸞聖人の血統には全く無縁の越後の一末寺の竹内良恵老住職を管長に推戴し、本人は浅はかにも承諾した。真宗大谷派は宗祖親鸞聖人より第24代大谷光暢法主に至って宗祖の血統でないものを管長に祭り上げた格好になる。驚いたのは全国の一般末寺門信徒である。
 私は同憂の住職、宗議会議員及び門徒評議員と共に裁判所の判断を乞うた。京都地裁は、右推戴会議の違法乱脈な審議過程を巨細に調査の結果、そもそも招集の違法から始まって審議の至る所に違法、無法が連続的に続いているので、いわゆる管長推会議は欠陥会議であって、その決議は無効、竹内老住職は宗門の管長に推戴されていない、すなわち管長ではない、したがって大谷派代表役員でない、宗門の管長は依然として大谷光暢法主である、法人大谷派の代表役員も光暢法主である、という仮処分判決による命令が出たのである。
 仮処分命令というと軽く考える人があるが、実は、これは裁判所が審理中の訴訟事件について、たとえば原告の主張が正しいと判断して、反訴が出ても大丈夫という見とおしから緊急に出す判決による命令であって、これを受けた人は何人(なんびと)も直ちに従わねばならないのである。本裁判にかけていると2年、3年と長引くので、その間不法な相手方の悪行のため損害を受けては気の毒というので、正しい人を保護するための裁判長の緊急命令である。
 しかるに竹内老は、これを無視して従わなかった。それは命令の主文の最初に『竹内良恵は宗教法人真宗大谷派代表役員の職務を執行してはならない』と明記してあるが、次に管長の職務執行を停止する、という文字が抜けているためだ、というのである。しかし、
主文の説明の長い理由書の中には竹内は管長、代表役員の職務を執行しうる立場にはない、と明記されているのである。
 しかし、所轄官庁の認証する宗教法人真宗大谷派は、自らの宗教法人大谷派規則の中に代表役員一名を設定し、法人大谷派を代表しその事務を総理するのである。そして、代表役員は宗憲により、この宗門の管長の職にある者をもってあてる、と明記されている。
(法人大谷派規則第5条)。
 宗憲は宗門の内規として重要最高のものであるが、対外的にすなわち公的には宗憲を法律化した宗教法人真宗大谷派規則が有効に活用されるのである。したがって裁判所は信教自由の日本国憲法第20条に従って宗門の内規たる宗憲にふれることを避け、万事宗教法人法に基いて官庁に認証された宗教法人真宗大谷派規則によって判断、判決、命令するのである。
 京都地裁が主文に竹内老の管長の職務執行停止を略したのは、前掲の大谷派規則第5条によって管長に推戴されなかった竹内は管長でない、管長でない竹内は代表役員でない、という三段論法であるから、すでに代表役員の職務執行の停止を判決命令した以上、その前に管長でないことは明らかなことだから改めて管長でないこと、すなわち管長の職務執行の停止を記す必要はない、と考えたのである。
 主文の詳細な理由書には、竹内老が管長に推戴されなかった事情が詳しく記され、結論として竹内良恵は管長の職務を執行しうる立場にはない、と書かれているのである。 竹内良恵老は国家の裁判所によって、あきらかに管長でないと記されても相変らず管長室に納まって、現管長大谷光暢法主の管長執務を妨げている。私は竹内老の念仏者としての良心を疑うのである。
 しかし、とにかく私は竹内老の違法を退けねばならぬ。大谷派正常化のため止むを得ない。しかし、竹内良恵老の無反省、非常識が管長の職務執行停止を判決の主文に省略しないよう大阪高裁へ、またかような控訴の手続きをしなければならないことを残念に思うものである。
 裁判所は仮処分命令により、竹内良恵に6月6日の宗議会開催行為を禁じているから、その決議は全部無効であると宣言している。嶺藤亮総長の退職も、五辻実誠議長の総長推挙も、古賀制二議員の議長就任も蜃気楼の一幻影に過ぎない。
 大谷派の宗務は空中楼閣でいいのか、冗談ではない。このためにも私は、無所属議員各位の要望を代理して憎まれ役をひきうけ、五辻君や古賀君には気の毒だが、両兄が正しい宗議会で選任され、正しい任命をうけるまでは職務執行の停止を裁判所に申請の余儀なきに至っている。まことに竹内良恵老の不法行為は、大谷派をついに八幡の藪のまん中へ追い込んだのである。

真宗大谷派正常化最大の転機

 私は昭和51年6月以来、国家の裁判所の仮処分命令に違背し、本年6月まで5年間にわたり、なお非国民的無法状態を暴走しつつあるマンモス既成宗団真宗大谷派が、今や無法解消の一大転機に恵まれようとしていると思う。
それは本年6月、違法管長竹内良恵が京都地方裁判所から昨年6月同様、宗議会開催行為を禁止する二度目の仮処分命令をうけながら、これを無視して開催し、会議の最終日に嶺藤宗務総長の辞任を承認し、五辻議長をその後任総長に推挙し、議長後任に古賀議長を選任する決議を行った逆縁に始まる。
 国家の裁判所の命令に背いた決議は当然無効だから、新総長も新議長も職務執行はできないはずである。議長は不在でも副議長が代理出来るが、宗務総長の職務執行が禁止される場合、代理者がないから裁判所は代行者を任命することになる。
 私は12名の大谷派宗議会無所属議員を代理して京都地裁に右の職務執行の停止および宗務総長代行者の任命を申請中である。
 裁判所は常に宗教法人法に基いて判決している。したがって裁判所は宗派の教義、信仰、儀式にふれず団体法人としての管理運営の違法を除去するだけである。宗務総長は宗教法人真宗大谷派責任役員なのだから宗教法人法のいう責任役員として、五辻師の総長の管理運営の職務を代行する者すなわち遵法精神に沿った法律家を選んでくれるであろう。その代行者は真宗大谷派の国法無視をすべて修正してくれるであろう。もちろん内局のみならず管長法主住職の違法も許されなくなるはずである。私は京都弁護士会長であった訴訟代理入酒見哲郎弁護士を通じて長文の報告書を送って京都地方裁判所の具体的な仮処分判決命令を懇請した。
 宗教者がみずからの宗教々団の運営正常化のために裁判所の力をかりることは恥かしいことである。しかし私たちは国民として政府に納税して正常な日常生活を保証して貰っている。宗門真宗大谷派も法人真宗大谷派規則をつくって政府に認証して貰い、法律上の保護をうけている。違法者は保護されない理屈になる。国家の裁判所は大伽藍の筋塀の中ばかりにいて世間の道理にうとい、いわゆる宗教家に対する筋塀のそとの一般社会の良識を代表するものである、と私は思う。筋塀内の大谷派宗議会では少教意見として無所属議員の忠告は常に軽蔑無視されている。しかし過去5年間毎年の裁判所の仮処分命令はわれわれ少数議員の意見を支持してくれている。 真宗大谷派東本願寺問題は今や国民的環視の中におかれている。われわれ大谷派の者は国民的良識に耳を傾けなければならない。 殿堂伽藍の筋塀内での慢心はアナクロニズムの標本としての価値しかないであろう。左に私の報告書の中で、二、三の点を指摘したい。
 政治と宗教とは多数と単数との相違がある。政治が多数決で終始しているのに対し、宗教は単数の個人の信仰教義人格を中心にして外部の不特定多数が集まり、歳月を経て大小宗団の形に発展組織されるのである。宗団の主人はあくまでも単数の開祖にある。開祖を崇敬渇仰して集った複数の寺院檀信徒はその附着体である。真宗にあってはほかの宗派と違って鎌倉時代の開祖親鸞聖人の血族が昭和の現代に続き、これを開祖の教義信仰の伝承者、法脈者として開祖のように尊び、親しみ全宗門の中心と崇めて宗務が運営されるのであって、開祖を中心にして歴史の年月を重ねて多数となった末寺や門信徒は宗団の主人ではない、随従者である。宗教宗派に主権在民という政治のイデオロギーは決してあてはまらない。
 故に終戦直後、昭和21年9月マッカーサー元帥指揮の澎たる民主主義思想の中で早くも公布された真宗大谷派宗門の宗憲は、冒頭の第1章第1条に、本派は真宗大谷派と称し、本山本願寺を中心として寺院、教会その他の所属団体僧侶及び檀徒信徒を包括する宗門である、と記されている。宗門には明らかな中心がある。民主主義、多数決主義ではない。
 昭和26年に制定された宗教法人法によって、翌27年4月に政府から認証された宗教法人真宗大谷派規則も第3条に、この法人は、この宗門の規程たる真宗大谷派宗憲により、宗祖親鸞聖人の立教開宗の本旨に基づいて、教義をひろめ、儀式行事を行い、僧侶及び門徒を教化育成し、社会の教化を図り、寺院及び教会を包括するとある。すなわち宗教法人真宗大谷派において僧侶及び門徒は教化育成包括されるのであって、僧侶及び門徒は真宗大谷派の主人公ではない。
 宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする宗教法人法に基づく宗教法人大谷派規則も宗教法人として認証される母体たる真宗大谷派宗門を生かしその宗憲を尊重しているのは当然であって全末寺、僧侶、檀信徒が『本山本願寺を中心とする』という宗教感情に従う宗門を政府は認めているのである。この私的な宗門真宗大谷派に法律上の能力を与えようとしてその上に宗教法人真宗大谷派という外套がかぶさっているのである。
 私の裁判所への報告書は、わが国仏教々団として鎌倉時代から展開した大衆宗派随一の存在たる真宗大谷派が昭和51年以来、大谷法主においても宗務当局宗務総長側においても国法にふれると思われる行動の禁止を念願しているのである。しかし、その前に宗教法人として根本的な宗教路線を見失っていることを私は指摘した。
 宗教集団は単数の側が中心であって複数の多は二次的な自然発生付着の形であるから決して宗団の中心、全体ではないのである。
去る7月25日、私は大阪高裁で証人として証言台に立たされ裁判長の前で宣誓した。この時、宗務総長側の弁護団の長老、表権七氏が私に対し、最初に立って証言を求めた。その質問は、真宗大谷派は終戦直後制定された宗憲によって、主権在民なのではないかということであった。
 氏は青年時代、東京の警視庁に奉職し、昭和11年豪雪中の二・二六事件を知っており、その後、京都に移って法曹界入り、現在は、その重鎮として関西方面では第一流の方である。昔、警視庁念仏課長として上手な衛生講話で鳴らした真宗大谷派長浜教区通覚寺の井口浄海師の女婿として仏縁深厚の弁護士でいられる。
 私も昔の若い時分、東京で知っていた筈の表さんなので、裁判所の廊下で名刺を取り交わしてなつかしい浄海課長の昔話が出た。井口浄海師は、三人のお子さんに宗祖論著の教行信証の題名の三字を一字ずつ別けて名前をつけられたという篤信の住職でもあった。
 今、表弁護士はいかめしい法曽界の長老として、証言台に立つ私に近付いてのしかかるように質問の第一矢を放った。
しかし、因縁深い先生に対し無遠慮な親しみを感じて私は、表弁護士の質問に答えて
「宗門の中心は個にある。個の親鸞聖人を崇敬鑽仰して集った複数の末寺僧檀門信徒は中心でも主体でもない。表先生が戦後の新憲法の主権在民を大谷派宗門の原理であると思っているのなら、宗教のABCも知らないことになる」と逆に忠告した。
大谷派宗憲第一条の『本山本願寺を中心として』集ってできた真宗大谷派の主人はご開山親鸞聖人であり、本山東本願寺なのである。一億一千万日本国民は天皇陛下に対して主権在民を宣言しているが、その政治イデオロギーは大谷派宗門には絶対に通用しない。
 冗談ではない。御同朋、御同行とは宗祖親鸞聖人のわれわれに対するお言葉なので、われわれの方から宗祖に要求すべき言葉ではない。このニュアンスを知らないで大谷派は主権在民だ、民主主義だと呼号することは宗教を政治の図式に引き下げることで、宗教団体の政治図式よりずっと深い、ダイメンションの違う立場で政治を見下ろしているのである。政治の図式によって宗教団体を主権在民というのは、宗教を政治のレベルに引き下げようとする、すなわち宗教を知らない、親鸞聖人を知らない門外漢の空想である。
 私は昭和37年6月、初めて大谷派宗議会に出席し、訓覇宗務総長の施政方針演説をきいた。それは前の年の宗祖700回大遠忌をうけて、人類に方向を与えるという親鸞聖人の永遠に新鮮な大衆仏教のリバイバルとしての同朋会運動の発足を宣した歴史的演説であった。
 ところが総長は、演説の中で盛んに親鸞、親鸞と宗祖を呼びつけにするので大いに耳ざわりであった。私は素人質問をやり、訓覇総長に、本山の膝元の内輪同士の宗議会議員の議会で話をするのに、何の遠慮があって宗祖聖人を呼びつけにするのか、他宗門の方のいる会合ならばいざ知らず、はなはだ不信不遜な発言だ。われわれはカントやヘーゲルを不世出の大哲学者として敬意を払うが、その哲学を研究するものとして私たちはカント聖人とかヘーゲル上人などとはいわない。それは研究者として対等の立場からだ。宗務総長が親鸞聖人の教えを現代に生かそうとする同朋会運動の宣言に際して、ご開山聖人を呼びつけにするのでは総長が宗祖と対等の研究者の立場をとることになる。それならば総長は真宗の門外漢だから本山の大門の外に出さない。およそ崇拝、敬虔の思いなきところに宗教団体はないーというような無遠慮な注意を叫んだことがある。
 訓覇総長は政治家らしく、以後気を付けます、と答えたようであったが、敬虔の思いなきところに宗門はない、という考えは今でも私は真理であると思っている。
 私は大阪高裁で、裁判長の前の証言台で表先生に対して誠に無遠慮な話を答えにしたのだが、表弁護士は私の古い昔なじみにめんじてか、裁判長の前で素直に、大谷派は主権在民という発言は取り消します、と言われた。私はさすがに浄海課長の愛婿に見込まれた真宗の御同行だと敬服した。
 こういう弁護士さんを訴訟代理人に頂きながら、真宗大谷派当局嶺藤宗務総長は何故、
 昭和51年5月、京都地裁から管長代務者を否認され、その職務執行停止の仮処分命令に接しながら、それを無視して6月の宗議会を開催したか。その宗議会で乱暴な宗憲改正などを一方的に決議し、ただし自分は管長代務者としての職務執行が停止されているから、その決議した条例の公布ができない、したがって実害はないと裁判長を欺いて、私たちの該宗議会無効の訴えをはぐらかした。裁判長を欺いたというのは、翌年、宗務総長は禁じられている管長代務者の行為を行って宗憲改正等の決議を公布したからである。嶺藤宗務総長は明らかに国家の裁判所の裁判長を欺いたのである。
 さらに総長は、同年6月の宗議会および門徒評議員会を開催したが、これも明らかに毒を喰わば皿までという宗務総長はおかしいではないのか。公私を問わず国民の誰れもが遵守の義務を負う裁判所の仮処分命令を、警察の強制力が及ばないからといって宗教法人大谷派がこれを無視してよい、という理屈は出てこない。むしろ違反者真宗大谷派は一般国民の遵守義務の水準以下の非国民的存在というべきで、これで宗教法人として社会の教化を図る説法布教の資格があるのだろうかと疑われるだけだ。
 昭和53年3月に宗務総長はまた管長代務者の職務を行い、宗議会と門徒評議員会を招集して管長推戴会議を開き、現大谷光暢管長を解任して竹内良恵師を管長に推戴したが、もちろん違法百出で同年12月に京都地裁は、管長推戴会議の無効を判決し、竹内良恵は大谷派代表役員(管長)の職務執行の停止を命ぜられ、依然として大谷光暢が管長、代表役員の地位にあると宣告した。
 しかるに竹内良恵は宗務総長をまねて、また国家の裁判所の仮処分命令を無視し、管長室を占拠して大谷管長の執務を妨害した。 そしてまた翌昭和54年6月に宗議会を招集した。もちろん違法なので、その開催は裁判所から禁止命令が出たが、竹内師はこれを無視した。しかるに本年6月、再び竹内師は管長名をもって宗議会を招集したので、昨年同様、京都地裁は再びこの開催行為の禁止を命じた。ところが竹内師は再び裁判所の命令を無視して開催した。
 裁判所はこれを宗議会と認めずにいたが、6月18日の議会最終日に嶺藤亮宗務総長の辞任を承認し、後任として五辻実誠議長の宗務総長推挙および議長後任古賀制二議員の選任を決議した。裁判所は、この会議は宗議会にあらずと判定しているが、五辻宗務総長も古賀議長も違法無資格な竹内良恵によって任命され、現に執務中である。私は有志12名の宗議会議員の代理として裁判所に正しい仮処分判決を申請したのである。
 こんどの竹内良恵師の裁判所無視は看過出来ない白昼の不詳事である。直ちにまず、五辻宗務総長の職務執行停止を命じてもらうと同時に裁判所が、その代行者を任命してくれることである。
 裁判所の任命するこの代行者によって、大谷光暢管長のもとに宗議会および門徒評議員会招集開会の上申書が提出されるであろう。そこで5年ぶりに宗門は大谷光暢管長の招集する正しい宗議会、門徒評議員会が開かれ、ここに真宗大谷派は裁判所を無視しつづけてきた非国民的な暗黒宗政に終止符を打ち、宗門大谷派 法人大谷派は本来の宗教的使命にたちもどり明るく脚光を浴びて、一万末寺、一千万門徒、否な一億一千万国民を安心させるであろう。私は、これをあえて真宗大谷派正常化最大の転機と見るのである。

著者

中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 1981年7月27日)は、東京都出身の日本宗教家実業家浄土真宗東本願寺派法善寺住職。東京大学卒業。派の仏教人として知られ、世界平和の推進に尽力。日本仏教鑚仰会理事長、世界宗教者平和会議日本委員会常務理事、ガンジー平和連盟理事長、東京博善社社長、仏教タイムス社長、真宗大谷派宗議会議員などの要職を歴任した。『Wikipedia』より


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