防御力ゼロのバリケード【彼は彼であって彼じゃない⑤】
時刻は午後8時
2時間前に外にいた時よりも風が一層冷たくなっていた。
「2次会どうする?いく?」
と聞かれたので、「行きますか!」といつものように返事をする。
お忘れかもしれませんが、私のスタンスはこの時でも変わらず、
何も始まらせない何も終わらせない。
できるだけ「いつも通り」を心がけて
変に防御を固くしたり、変に意識したりしないよう心がけていた。
「お腹もいっぱいだし、ウチで飲み直す?」
こちらが脳内でスタンスの確認をしていた矢先、彼が仕掛けてきた。
「う、う〜ん。あー。」
動揺しまくる私をみて、彼が笑いながらひと言。
「なにもしないよ」
彼の沽券を守るために先にオチをいってしまうと、この日は本当に、なにもなかった。本当に。
押しに弱い私は、今日が彼とゆっくり話す最後の機会だということもあって、大きく一度頷き、彼の後ろを歩き始めた。
横風がとても冷たい日だった。
私よりも20センチ以上大きな彼の隣を歩くと、風が少し弱まってあたたかかった。
夜の8時といっても街はすでに静まりかえっていて、レンガが敷き詰められた道に革靴の音が響く。
家に着くまで何を話したか覚えていないが、ひたすら「寒いね」と言っていた気がする。
実は、彼の家に行くのは初めてじゃない。
職場の人たちと何回か訪れたことがある。トイレの場所も、電気の位置も、ルンバがどこに隠れているのかも知っていた。
だけどこの日は、初めて訪れる場所のように感じた。
他に人がいない分、彼のにおいを強く感じたし、2人きりの部屋はとても広く、いつもみんなに譲っていたソファは思ったよりも固かった。
彼がハイボールを作っている間に私は、彼が座るであろう場所と自分の間にクッションを置いて、せっせとバリケードを作っていた。
両手にグラスを持った彼が、クッションバリケードを見て笑っていたが、撤去されることはなかった。
その後はアマプラをみながらアニメや漫画の話をしていたが、何を観ていたのかひとつも思い出せないのであった。
気がつけば時計の針は12時をまわっていた。
「電車もないし、明日俺が車で送るよ」
さすがに歩いて帰れる距離ではなかったので、お言葉に甘えることにした。
深夜、2人きりの部屋、沈黙。
男女の仲が深まる条件は充分に揃っていた。
「彼」が秒針と同じ速さでぽつりぽつりと話し始める。
「申し訳ないことをした。
君は能力も高い。この職場は君にとって、とても窮屈だっただろう。
もっと早く話を聞いてあげればよかった。」
彼が私の転勤に責任を感じてしまうのは良くないと思い、私もようやく、ひとつずつ説明した。
異動願いを出していた経緯と、悲しむ顔が見たくなくて相談できなかったということを。
そして最後にこう付け加えた。
「あなたがいたから2年半やってこれた。でなきゃとっくに辞めていた。楽しかった。」
それを聞いた彼はようやく笑って、「嬉しい」と、何度も何度も言っていた。
朝が来て、気づいた時にはクッションバリケードは無くなっていたが、
それでも私たちは未だに「ただの仲がいい先輩後輩」だった。
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