充足感ってこういうこと【彼は彼であって彼じゃない④】

電話で話した次の日、待ち合わせ場所の個室居酒屋へ到着すると、「彼」はすでに一杯目のビールを半分飲み終えていた。

私も生ビールと料理を少し注文すると、注文を終える前に彼がビールを飲み干して二杯目を追加注文した。

緊張していたのだろう。

他愛もない話をしていると、料理と二杯のビールが届いた。

「おつかれさま」とグラスをコツンと合わせて乾杯をし、料理の感想を軽く言い合う。

彼は必ず一言添えて「乾杯」をする。美味しいものには「美味しい」という。店員さんとも仲良く話す。

今まで何度も見てきた光景のはずなのに、2人きりという空間がお互いの言動ひとつひとつを際立たせ、

今日が最後だと、目に焼き付けろと言われているようだった。

2口目のビールを流し込んで正面を見ると彼がこちらを見ていたので、「ん?」と首をひねると

彼はそれに答えるように、ゆっくり話し始めた。


「俺は、君と、仲が良いと思ってたし、君も、同じように思ってる、と思ってた。

相談、、、してほしかった。

君の決意は固かったのかもしれないけど、それでも、俺には話してほしかった。」


言葉が少し足りなかったが、転勤の話だとすぐにわかった。いつも流暢に喋る彼が初めて見せる歯切れの悪さに、溝落ちのあたりがギュッとしぼんだ。

それから彼は、私の知らない話をし始めた。

プロジェクトチームの再編成をチームリーダーに相談していたこと

彼の下で働けるように交渉していたこと

私がどうしたらのびのびと仕事ができるのか考えていたこと

私は溝落ちのあたりが潰れないように、呼吸を深くしながら聞いていた。

「もう少し、だったんだよ」

出会った頃は中堅だった「彼」もこの頃には昇級を控えており、ようやく意見が通るようになってきたのだという。

彼とは色んな話題を共有してきたが、初めて聞く類いの話だったので驚いた。

そして、嬉しかった。

自分のことをこんなに考えてくれる人は、先輩どころか、これまでの恋人にすらいなかった。

「ありがとうございました。」

自然と頭が下がった。自然と感謝の言葉が出た。けれど不思議と、涙は出なかった。

これまで彼に必要とされている感覚はあったが、私の予測でしかなかった。

それが確信に変わった瞬間だったのだ。溝落ちの苦しさは無くなり、肺いっぱいにあたたかい空気が満たされていた。

もうこれで充分だと思った。

これだけの思い出があれば、転勤後も、「彼」がいなくても、頑張れる。そう思った。

それからは思い出話を挟みつつ、転勤後の話を少しして、2時間ほどで店を出た。

12月上旬

風がとても冷たい日だったことをよく覚えている。


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