最終回は最後であって最後じゃない【彼は彼であって彼じゃない⑦】
12月中旬 その年1番の寒い日だった
待ち合わせ場所に到着すると、やっぱり彼はすでに1杯目のビールを飲んでいた。
彼の2杯目と私の1杯目の生ビールを注文して、料理を待っている間、彼が鞄から紙袋を出してきた。
「誕生日おめでとう」
その日の数日前が私の誕生日だったのだ。
すごく嬉しかった。
誕生日を覚えていてくれたことと、悩みながらプレゼントを選んでくれたこと。
彼はお世辞にも細かい性格とはいえない。
だからこそ尚更、嬉しかったのだ。
ビールが二杯と、小さな鍋が運ばれてきた。
「おめでとう」といって乾杯して、「あたたまるね」といって鍋をつついた。お店の人に年齢確認をされて、彼が腹を抱えて笑っていた。
いつものようにアニメの話をした。
転勤の話は、しなかった。
2時間くらいおしゃべりして店を後にした。
外は耳が痛くなるほど寒かった。
彼は私を見下ろして「ウチくる?」と言った。
私は彼を見上げて「うん」とゆっくり大きくひとつ頷いた。
街はいつも通り静かだった。革靴じゃなかったので、足音は響かなかった。
彼の家に着くと、力尽きたルンバが玄関でお出迎えしていた。
「たまにこうなるんだよね」と困ったような笑顔を浮かべる彼に続いて部屋に入る。
ソファはやっぱり少し固かった。
隣に座る彼との間に、バリケードはなかった。
沈黙と夜の静かさが、心臓の音を大きくした。
彼が私の方に向き直り、そっと手を取る。
“サイン”を示して“チャンス”をくれた彼
そんな彼に対して、ここまで来た時点で私の答えは決まっていた。
初めて触れる彼の肌はすべすべしていて、実年齢よりずっと若そうだった。
初対面で40歳に見えたことを思い出して1人でクスクス笑っていると、「なに?」と言って彼が瞳を覗いてきた。
「なんでもない ちょっとくすぐったかっただけです」
彼の大きな手をスリスリと撫でていたら彼が指先をキュッと握るので顔を見上げると、笑っているのか泣いているのか分からない表情をしていた。
感情を確かめたくて彼の顔に触れようとすると
「ハグしてもいい?」
と彼が聞いてきたので、頬に伸ばしかけた手をゆっくり背中に回した。
彼は私を包むように優しく抱き寄せてくれた。
彼の心臓は私のそれよりも大きく、そしてゆっくり鼓動していた。
初めは左手を背中に添えて、右手で私の髪を撫でていた彼だったが、緊張がほぐれてくると両手で力いっぱい私を抱きしめた。
思った以上に力が強くて「ぐぅ」という声が勝手に漏れた。
急に恥ずかしくなった私が
「ぐうの音が出ました…」と言うと、
なんだかそれが可笑しくて2人で顔を見合わせて笑った。
それから私たちは、お互いの髪の柔らかさを確かめたり、ほくろの数をかぞえたり、
離れてしまっても忘れないように、できるだけたくさん、相手の形を記憶に残した。
誰がどう見ても仲がいい先輩後輩だった私たちは
「ただの先輩後輩」ではなくなった。
その後、私が引っ越す日まで、できるだけ多くの時間を彼とすごした。
あれから季節がひとつ移り変わったけど、私たちの関係はあの日からなにも変わっていない。
私たちの間柄を表す言葉はいまだにみつからず、
改まって名前を付けようともしない私たちを
理解できないという人もいるだろう。
だけどそんなことはあまり関係ない。関係性にかかわらず、相手を幸せにしたり、逆に幸せにできない人も大勢いるからだ。
「彼」という単語が表す意味はいくつかある。
恋人やパートナーの男性を「カレ」と言うこともあるし、ただ単に男性(he)という意味で「彼」と言うこともある。
私にとって「彼」というのは彼(he)であって彼(カレ)ではない。
それでも、「彼」が笑っていてくれればそれで良いし、その笑顔の理由が私なら、それ以上の幸せはない。そう思うのだ。
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