「仕事ができる」とはどういう意味か?

「あの人は仕事ができる」、「あの人は仕事ができない」という言葉はよく聞く。良くないことだが、自分もよく使う、というかつい使ってしまう。最近はどうやら「あの人ができたら、じゃあ僕はできていないの?」「そういう自分はできる人間なの?」と内心思っている人も多く、この言葉を使ったとき、周りの訝しげな表情を見て、どうも使うのはよろしくない風潮になっている。これは正しい感覚だと思うので、みんなもあまり使わないほうがいいと思う。使いたいなら、具体的にこういう働きがクールだったよね、という表現にするのが良いだろう。仕事ができたらできただけ給料が上がっていくような環境や社会もあるだろうが、必ずしも、特に日本においてはそうではない。光には影がある。ぐいぐい売上を伸ばしたり、(本当は利益を上げることが大事だが)、決定ごとを進めていく人物の下には、苦言を呈さずそれを一生懸命支えている部下が大量にいる。それを忘れてはいけない・・・と気付いたのは2年前だ。

少し脱線するが、前職を辞めるタイミングで所属していた部署とは別の部署の連中とさよならがてら飲むことになった。入り口は忘れたが、イーロン・マスクや偉人の話をしていた際、1人のプログラマーが発した言葉がなぜか頭にへばりついた。今まで本や映画などたくさんのコンテンツを消費してきたつもりだったが、その発想を一度もしたことがなかったため、驚いた、と同時に20代後半になってようやく気付き、少し情けなくなった。同僚はこう言った。「ナポレオンとか、大英帝国として侵略をどんどん成功させて凄いって言われてるけど、僕はそうは思わないね。その下で何千人、へたしたら何万人が死んでいったねん、っていつも思うわけよ。だから、凄い凄いって持て囃されてる人間の下にはいったいどれだけの犠牲があるねんっていつも考えてしまうわ、恐らくイーロン・マスクもそうやろ」。イーロン・マスクは書籍も読んで、割と他人の努力を湯水のように使っている人物ではないのかなぁと最近自分は思うようになったが、それは端に置いておいて、恐らく、本や映画などは基本的に”光”の部分だけを描いていて、まぁそうしないと売れないし、多くは影の部分を描いていない。もしくはデータがなくて描けない。インスタグラムもその人のキラキラした人生はいつでも遡って見ることができるが、全国共通テストでコケた話などよっぽど当本人が変わり者でない限りこちらとしては知り得ない、そんなところだ。話は戻って、だから僕は今まで”偉人の下には数えきれない犠牲がある”という考えが定着していなかったのだと思う。同僚が発したその言葉に驚いたということは、ずっと上の役職の人だけ見て、下であくせく働いている人たちの姿を全く見れていなかったとも言える。恥ずかしいことだ。上司には部下がいて、その部下にはまた部下がいて、一番下っ端が一番働いている。特にGoogleやchatGPT、書籍、セミナーなどいくらでも”恐らく正解に近い回答”を無限に与えてくれるこの時代に、答え探しや舵取りをすることは楽なはずだから、上の役職の人はどんどん楽に、下の者はめっちゃ頑張っている構図が顕著になっているだろうし、今後もなっていくだろう。強いては、メンタルケアさえもカウンセラーに丸投げするから、新聞とコーヒーで一日が終わっている上司も多いはずだ、何人か実際に見てきた(笑)。

話を戻そう、じゃあナポレオンが「仕事ができる」と評価した人はいたのだろうか。この「仕事ができる」という言葉を使うときは大抵、”特定の個人を褒める、または貶す”時に使われる。チーム全体を褒めるときは使わない。サイバーエージェントは仕事ができる、とはあまり言わない。結局じゃあ個人の仕事の成果が大事になってくる。私個人としていつも定義している成果は、「将来生まれるであろう売上(=顧客満足度)」「直近で生まれるであろう売上」「コストダウン」の3つだ。その人の感性、目的意識、経験値、知識、技術力さまざまな要素によってできあがってくるのが成果だ。

究極的には、人が人を評価することは非常に不可能というか、ナンセンスのように思える。測りやすい指標はもちろん数値化できるものが揉めなくて済むが、数値化するまでの準備や議論、システム構築/改修に時間がかかるため、それを決めるのは部長クラスの仕事だ、むしろそれをメインにしてくれても良いぐらい大事な気がする。人のどこを評価したらいいか?という話をしたい。僕が仮に自由に評価してもいいよと言われたなら、”自己成長性”を見るだろう。彼なりに、彼女なりに、ここが1点だから、まずは技術力を上げて4点にした、次にセンスやビジュアルを強化し、6点にした、次に目的を意識して顧客が満足する回答や商品を提供できているので8点、論理性が通っていて会社的に見ても申し分ない提案、利益率になっていたら10点、のような感じだ。まず自分がどこが一番足りないか、を上司と一緒に確認し、それを補うためには”何を強化”するか決めて、ひたすらやる。実はこれが奥深い。なぜならその道順は人それぞれだからだ。突破口を突破する、それだけで及第点はいくのではないか。極端な話だが有り得そうなケース。40歳を過ぎてオフィスワークに戻ってきた主夫/婦がいたとしよう。打つのがめちゃくちゃ遅く、すべての業務が遅い。自分でも悩んでいた。「私はやっぱりオフィスワークに戻れない、家に戻ろうか・・・?」そんなことはない。1ヶ月ずっと正しいキーボードフォーマットで寿司打でタイピングを鍛えるだけで、チャットやメールの返信もできるようになり、資料作成のスピードがぐんと上がるかもしれない、そしてたちまち新卒の仕事はすべてできるようになった、などだ。どこが勝ち筋か、ネックになっているかを見誤らない限り、勝てる。そこを間違えないために上司がいると言っても過言ではない。

さて、ここから、さっきまでの「自己成長性」がなぜ「仕事ができる」に繋がっていくのかを、自分なりに意見を述べたい。この自己成長性を上げていく練習をまずは上司と一緒にし、次は係長と一緒にやって、またまた次は課長と一緒にやって・・・とやっていくうちに、不思議なことに自分自身で、大抵の仕事、それも今までやったことのない仕事ができるようになっていくはずだ。実はこのプロセスの中には、本屋でよく見かける「自己肯定力」や「課題発見力」が隠れている。つまり、「うわぁ~、いよいよ課長がやっていたこの資料作成降りてきたよ~、いろんな部署の部長にヒアリングしながら作らないといけないから大変なんだよなぁ」「ひぇ~こんなに細かいExcelシートこれから毎日更新していかないといけないのかぁ?マニュアルもない、大変だ・・・」「明らかにうちに落ち度が無いのにお客さんに謝ってきてって言われた、辛い、どうしよう・・・」という状況になっても大丈夫。世の中にはそれができている人がいる。なぜできているのか、その人との差を縮めるという話ではない。”自分なりの成長物語を組み立てていく”のだ。

もちろん初めは失敗続き、練習したことも、勉強したことも、全然活かされていないような気がする。でも資料作成や発表、顧客対応、営業どれも不可能なものはない、誰かができているから、自分もできる。目の前の仕事を何回やってもクリアできないボス戦のように捉える。敵がこの攻撃をしたらこの方法で避ける。細かい攻撃はこの武器で重ねていく、怯んだときはこの大技で決める、敵の大技はこのタイミングでジャンプ・・・と1つ1つわかっていくうちに、1回戦よりも2回戦、2回戦よりも3回戦のほうが敵の体力は削れているはずだ。そしていずれは自分が勝ってしまう。それは大きな正解がいきなり降ってきたからできたのではない。小さい”正解”が集まって大きい正解になっているのだ。一つ一つスピードよく正解をよいしょ、こらしょと集めている過程を僕は「仕事ができた」と定義している。それがもしあなたができていたら周りは口にしなくても褒めてくれている。もちろん周りよりもずっと早くに、一番に、気付いて褒め称えてくれる人がいる、それは自分自身だ。


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