同志社と立命館がこんがらがる人へ

”こんがらがる”はもともと糸がもつれて絡まる様を説明するところから生まれたらしい。

はじめは”こぐらがる”だったらしい。

さっさと本題にいくよ(自分に言い聞かす)。

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<結論first>

立命館・・・「命立つところに使命有り」という孟子の教えを大事にした西園寺公望(さいおんじきんもち)が命名。

同志社・・・会津(福島)出身だが、京都の教育や近代化に寄与したい山本覚馬(やまもとかくま)が、”同志”を名付けた。キリスト教学校を立ち上げたい新島襄は、山本覚馬の後ろ盾があったからこそ同志社学校を立ち上げることができた。

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 今回は立命館と同志社の覚え方を自分なりに整理したのでシェアしたい。いつも頭の中でこんがらがって、「どっちがどっちだったっけ・・・(;'∀')??」となる。そもそもどっちの大学にも遊びに行ったことがないので、尚更覚えられないのだ。友達に「立命出身です!」とか「同志社出身です!」と言われても、今回の題材の問題を抱えているからすぐ忘れる。second questionからのトーク深掘りもしないので、長期記憶にならず覚えられないのだ。

 さっそく、立命館から。

立命館の創始者は西園寺公望(さいもんじきんもち)という凄腕のおっさんだ。伊藤博文と一緒に日本政治の近代化をがんばって、総理大臣も2回やった、頭も賢いし、立ち回りも上手かったおっさん。


西園寺公望(さいおんじきんもち)


顔は優しそう、東山天皇の血筋なので変な名前になってる。フランスの大学を卒業していた関係で、国際肌。ずっと外務大臣もしていて、卒業後もずっとフランスとの親睦を深めた。

で、肝心な立命を立ち上げた証拠がここ。

私塾として立ち上げた。彼は京都のど真ん中の私邸に初めは詩を詠むぐらいの小さい会だったが、そのうち、時事問題を議論するまでになり、100人規模の私塾へ発展していったそう。いつの時代も「意識高い系」の存在は大事。

「立命」の由来は、フランスに留学に行ってた西園寺は、実は中国の学問をかなり尊敬していて、かなり色んな儒教や学者のアウトプットを勉強している。中国の「孟子」の一節から立命を取ったらしい。


立命由来の石碑

『殀壽不貳 修身以俟之 所以立命也』

「人間の寿命は、天命によって決められている。修養に努めてその天命を待つのが人間の本分の全うである」という意味らしい。

なにやら難しいが、生まれながらに自分の全うすべき使命があると訴えているっぽい。

だから、立命館。
そして、西園寺の国際的な理念、「多様な自由主義的価値観で国際的に活躍できる人を育てる」を今も立命館はfisrt phirosohyとして、最も大事にしている。

軍人になったり、儒学を勉強したり、フランスに行ってどっぷり10年学問も文化も学んだり、社長もやってみたり、でも最終的には政治家にいきついた西園寺。色々なテーマに興味関心があったから国の抱えていたどの課題にも取り組めたんだろう。「自分はなにを成し遂げるために生まれてきたのか?使命が与えられているはずだ」その思いはフランスに発つ前から確信していたからこそ、”立命”にこだわったのだろう。

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さて、次は同志社だ。

同志社

同志社を創立したのは新島襄(にいじま じょう)だ。

新島襄

この新島は、本当の名は下が「七五三太(しめた)」らしいが、上海からアメリカ行きの船の船長に「ジョー」の愛称で呼ばれ、それを気に入り、帰国後自分の名前を「襄」に変えたらしい。自由奔放でいかつい(笑

そして、洗礼を受け、どっぷりキリスト教に浸った後、帰国。

実は日本に帰るまでに、アメリカで岩倉使節団と遭遇し、英語力を褒められ、そのままヨーロッパ周回に付き添った。この時に政治家・木戸孝允と知り合った。

そして、木戸孝允が後押し、最初はキリスト教学校を大阪に立てようとしていたが、知事から良い反応をもらえず、京都知事は賛同を示したので、京都に開校したらしい。

初めは、新島とデイビス、生徒8人の学校だったらしい。

で、新島と一緒に学校開設書を京都市に提出した人物が山本 覚馬(やまもと かくま)という者で、実は彼の妹の八重と新島襄が結婚した。


山本覚馬(やまもとかくま)

そして、覚馬はかなり襄のことを気に入ってたみたく、6,000坪の土地をここに学校つくっていいよと、襄に譲った。

ここは完全に僕の憶測に過ぎないが、襄は、土地ももらって、妹の八重との結婚も許してくれた覚馬に相当、恩義を抱いていたのではないか。なので、学校の名前をぜひ考えてほしいと頼んだり・・・していた?のかもしれない。

この山本覚馬という人物は、非常に”THE幕末”な男である。
概観していくと・・・
会津藩士、砲術家の長男に生まれる、弓・馬・槍・刀を会得、オランダ語の砲術書で勉強、禁門の変で兵砲隊を引率、負傷し失明になる、西洋事情をまとめた本をだす、紀州藩(和歌山)や会津藩(福島)に合計4,300艇の銃購入の約束を取り付ける、鳥羽伏見の戦いで弟を失う、敵の薩摩藩が管轄する収容所に留置される(この収容場所が現在の同志社大学今出川キャンパス6,000坪のところ)、幽閉中に書いた意見書の内容が賢すぎて薩摩の島津や西郷が「すげぇ」って言って待遇up(毎日日本酒飲めるww)、仙台の病院へ移った時に岩倉具視と話し、釈放してもらう、京都府に戻り小中学校、女学校、病院の設立に専念、京都鉄道(嵯峨野線)敷設に寄与、

とまぁ、控えめに言っても、松岡修造より熱い男である。

道は違えどひたむきに信念をもって突き進む者を仲間であると信じ、ともに明日の日本を、明日の京都をつくっていく”同志”に命を尽くした男が、山本覚馬であり、彼がキリスト教に傾倒した新島襄を弟のように支援した。


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<まとめ>

立命館・・・「命立つところに使命有り」という孟子の教えを大事にした西園寺公望(さいおんじきんもち)が命名。

同志社・・・会津(福島)出身だが、京都の教育や近代化に寄与したい山本覚馬(やまもとかくま)が、”同志”を名付けた。キリスト教学校を立ち上げたい新島襄は、山本覚馬の後ろ盾があったからこそ同志社を立ち上げることができた。


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ちなみに、もつれた糸を解きほぐすには何よりも忍耐力が必要だと思う、すぐキレてたらダメだなと。

今回の記事も、3時間以上かかったが、忍耐あっての、結果かなと・・・。(笑

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