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『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』第一章レジュメ

 この記事は、京都大学セクシュアリティ研究会で2020年2月18日におこなわれた『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』読書会のうち、「第一章」のレジュメです(文責:かしぱん)。

凡例:はレジュメ作成者の意見


○本章では、この本のプロジェクトの第一歩目が描かれている。すなわち、ミソジニ―の「素朴理解」が問題含みであることを示し、「ミソジニ―」という言葉がどういう意味で使われるべきかを提案している。「ミソジニ―」は家父長制的構造下で女性を監視し処罰する政治的現象である。以下、1章の順番通りに大雑把に内容をさらっていく。なお、括弧内の数字は課題本のページ数を示す。

* 問題提起:「ミソジニー」の意味が不明瞭である
「すべての女性が本当に何らかのかたちでミソジニーの対象となっているのだろうか。(58)」
「ミソジニーの概念について、その意味、用法、そしてそれが意図するものについて考察を行う。(58)」

* ミソジニーの素朴理解
「ある個人(かならずしもそうとはかぎらないが、典型的には男性とされる)のもつ、以下のような属性を指す。当該個人は、各々そしてすべての女性、または、女性一般にたいして、彼女たちが女性であるというそれだけの理由で、嫌悪、敵意、またはそれに類する感情を抱く傾向を有する。(59)」
・これは心理学的説明である
・素朴理解の問題点
① 狭い:家父長制イデオロギーから派生すると考えられる態度の数々を見逃す
② 焦点が十分ではない:敵意の標的は、特定の女性と特定の種類の女性の双方を包含することが認められるべき

* 本書が提示するミソジニーの概念
「ミソジニーは、家父長制秩序の内側で、女性の隷属を監視し、施行し、男性優位を支えるために働くシステムとして理解されるべき(60)」、つまり「政治的現象」として理解するのが生産的だと論じる。

* つまり本の前半ですること→「分析的」あるいは「改良的」プロジェクト、「概念倫理」「概念工学」と呼ばれる試み。(二章、特にp96)

* 「ミソジニーは第一義的に社会システムもしくは環境全体の属性である。女性がさまざまな敵意に直面することになるのは、彼女が男性の世界(家父長制社会)で女性であるからなのであり、つまり彼女は家父長制的標準(当該環境において利点を有する家父長制イデオロギーの教義)に応えていないとみなされるからなのである。……それらの敵意は、家父長制の敵であり、脅威であると認識される女性たちを監視し、処罰し、糾弾するシステムに組み込まれている。(60)」
→このフェミニズム分析によって、ミソジニーから性差別主義(sexism)から明確に区別する(三章)

* 1章から3つの事例を順に紹介していく。まずは「#YesAllWomen」運動のきっかけとなったアイラ・ヴィスタ事件


○アイラ・ヴィスタ銃乱射事件(p61~67)

* エリオット・ロジャーという男のインセル的報復事件
* ミソジニーが起こした事件として多くのフェミニズム評論家らに認識された。
* 「#YesAllWoman」(「男はみなそうじゃない」形式の弁解への反撃(カウンター))で、女性が男性からの攻撃、敵意、暴力行為、セクシュアルハラスメントを投稿。
→「ミソジニーが悪い」vs.「男が全員そうじゃない」の論戦が起こる。
* フェミニズム的分析を認めようとしない言説が多く出る。
・ヘザー・マクドナルドは事件を、精神疾患の問題とした。
さらに、現代社会を「われわれの文化は女性の成功を促し、褒め称えるという考えに取り憑かれている」とし、さまざまな領域で「かならず女性を含むようにという圧力の「恩恵」に浴してきたことをよく自覚していない女性がいるとすれば、どんなかたちで公的領域での活動をしているにせよ、それはまったく勘違いしている。」と言う。(64-5)
※最近のひろゆきの記事(女性専用車両あるから女性優遇みたいなレベルの話)みたいだと思った
←だが、(女性が優遇されているなら)男性からの攻撃が女性を抑えつけようと働いていると不平を述べる女性たちの存在を、どう理解すべきなのか?
* ほかには以下。すべて、「ロジャーは、本当は女性を憎んでいなかった。本当は……」系の語り
・ロジャーは欲望が過大だった
・ロジャーは男を憎んでいた
・ロジャーは女性を一切モノとして見ておらず、理想化していた。孤独が問題
・ロジャーは狂人だった
・ロジャーは人嫌いだった
・ロジャーは特定の女性だけを嫌悪していた
・ロジャーは男をより多く殺している
* 著者はこれに1つずつ反論することはしない。むしろ「ミソジニー」概念への理解を洗練させることで、これらの(ミソジニーを否定する)反論が当たっていない(=ロジャーの犯行はミソジニーが作動していた=ミソジニーを生み出す(男)社会に問題があること)を示そうとする

○「ミソジニーとは何か」とはどのような問いなのか(p67~76)

* 「ミソジニー」の意味、用法、指示対象についての問い。3つアプローチ方法がある。
①「概念的」プロジェクト:伝統的なアプリオリ的方法、反省的均衡や概念分析などを使って探求する。(哲学的方法)
②「記述的」プロジェクト:語の外延(実際の使用)を見る。アポステリオリな方法。経験的探求をともなう。(社会学的方法)
③「分析的」もしくは「改良的」プロジェクト:語の要点(言葉によって何を意味すべきか)を見極め、それに最も適合するような概念の定式化を試みる。(概念工学的方法)←社会進歩にとって重要
* 3つのアプローチは相互補完的で、①と②は滑らかに③に接続することが可能。→本書では③を意識しつつ、①,②に順に取り組む。
* 先の反論集は、素朴理解が前提にある。素朴理解の要点は2つ。
①ミソジニストは、全ての女性が女性だからという理由で一般的に女性を嫌悪する
②個人の心理で説明される
・②が素朴理解において問題。→心理を認識(把握)できるのは本人だけ。本当に嫌悪の感情を持っていたかどうかを、他人がジャッジすることはできない。
→被害を受けた女性にとってミソジニーを認識的に接近不可能にする(つまり、ミソジニーという言葉で出来事を(フェミニズム的に)問題化することが出来なくなる)。被害者にとって口封じ的(silencing)である。
* 「ミソジニー」という言葉には、ジェンダー抑圧の最も敵対的で不快な一面を際立たせるという概念的役割がある。これを失うのは惜しい。
* また、まったく無実の身でありながら、ミソジニーの嫌疑を掛けられた人にたいして正義を為すことを難しくする(70)→※何でもミソジニ―って言えちゃうような状況はよくないということ?
* さらに、心理的に不明瞭な概念は、現象の存在を怪しくしてしまう(認識論的に不可視なものにすると、存在論的にも地位を失ってしまいうる)。

* 「素朴理解」はその環境におけるミソジニーの蔓延が説明できなくなる。
環境=家父長制の説明
「女性という女性、または、ほとんどの女性は、その内部のある特定の男性または男性たちとの関係において隷属的な立場に置かれ、それによって男性が女性にたいして、(その他の関連する交差的要因を含めて)ジェンダーにもとづいて、優位な立場を占める。(71)」
・ただし
①隷属は傾向であり、常に現にそうなっていると言えない。
②別の家父長制システムでは、女性が隷属的地位に置かれている可能性がある(ある家父長制システムで優位にある男性が、別の家父長制システムでは、隷属的地位にある女性よりも劣位となるようなことがありうる)。
③支配-隷属の関係は局所的(ローカル注1)である。
・また、実際の状況(「女性の隷属の実質的内容」)と家父長制システムの階級的説明が緊張関係にある可能性もある。
→女性役割に仕える女性を褒め称える表現や、それが「自然」だという説明と、家父長制的説明の対立
←筆者が論じているのはこうした性別コード(役割)の環境的説明=「強制執行のメカニズム」としての現れ
* 「素朴理解」だと、この家父長制の環境においてミソジニ―が発動することが奇妙になる。つまり、彼の利害に友好的に仕える女性には満足していると考えるのが妥当であれば、女性一般を嫌うという「素朴理解」のミソジニ―は成立しえない。
・ロジャーのような「非モテ」系の人にとってみても、自分に愛情(気遣いでもいい)をくれる女性がいたら、その女性を高く評価したりすることは十分考えられる(※挨拶されただけで好きになっちゃう的な)。「素朴理解」の場合、彼はこの点でミソジニストではなくなる。
* ミソジニ―の「素朴理解」は、No true Scotsmanの誤謬を呼び込む(「真のミソジニストは……」と述べることで、「素朴理解」への反論に再反論する)。
* まとめ
・「「素朴理解」にしたがうと、ミソジニ―はつまるところ過度に心理学主義的な(ことに、恐怖症もしくは病的な憎悪についての理論モデルにもとづく)観念へと転じられる。社会的権力関係のシステム的な一面、そしてそれを統治するイデオロギー(=家父長制)に付随する一徴候であるというより、むしろ精神疾患的な、さもなければ、不合理な思考様式をめぐる問題となってしまう。(75-6)」

注1:「ローカル」とは、その現場、その場面といったことを指す。つまり意味のまとまりとして対象を捉えることであり、行為(ミクロ)と構造(マクロ)の両方を切り離さない。前田ほか編(2007)『ワードマップ エスノメソドロジー――人びとの実践から学ぶ』を参照。

○ミソジニ―のありうる姿(p76~)

* 「素朴理解」とは異なる理解を探るために、ミソジニ―のごく自然な姿から考えていく。
「家父長制的文化において一部の女性が担う、注意深く、愛らしいしもべという社会的役割に照らしてみると、その答えとして検討すべき明白な可能性が現われる。すなわち、女性にたいする敵意や攻撃といった反応が自然に引き起こされるのは、社会的役割を取りしきる規範や期待に、女性が目に見えるようなかたちで抵抗したり、違反したりするときである。(76)」
* レストランの比喩:空腹の客が店に来て注文しようとしている(自分の権力と、自分が置かれた脆弱な立場(空腹)を感じている)。だがウエイトレスは横柄で、彼を無視している。客は当然苛立つ。
・この比喩からは、ミソジニ―に不必要なものがわかる。
①全ての女性を標的にしなくていい。選別的に、従順でなかったり怠慢だったりした女性が標的。
②ミソジニ―と性的欲望は両立する。→自分の欲望(空腹)が満たされないことが、怒りを増長。
・また、ミソジニ―の標的は家父長制(その場のコード)に歯向かう人であることもわかる→フェミニストもターゲットになりうる。
* フェミニスト作家リンディ・ウエストの経験
・彼女に対して「荒らし行為」を繰り返す男性が、数年後改心したので、ウエストは彼にインタビューを行った。
・そこで彼は、彼女のハッキリした文章に怒りを覚えたと語る。
・また彼は、母や妹を愛していると語っている。→ミソジニ―と両立可能であることを示す。
* よくある反論「女性を女性だから嫌うのがミソジニ―なら、一部の女性だけ嫌うのはおかしくないか?」
←家父長制は女性を排除はしないのだから、ミソジニ―の標的が女性という女性一般であることはありえない。
* ミソジニ―の範囲拡大
・「パンチング・ダウン」行動
たまたまそこに居合わせた、他に頼る先がないという理由で八つ当たりすることで家父長制的権力を回復しようとする行為
・ロジャーの事件も、被害女性は、彼が恥を感じていた種類の女性たちの単なる代理だった。
これは、ロジャーが妄想的(精神病者)だったことを意味しない。加害者が正気を保ち、道徳的責任を負える場合でも、ミソジニ―は、しばしばこうした性質の妄想を伴うことがある。
→これを示すために次章でラッシュ・リンボウの事例を見ていく。

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