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文化の担い手は誰?

音楽や映画に人生を救われた経験がない。自分の感受性が豊かではない自覚はある。だからかドラマチックな経験に結びついたことはないし、劇的に自分の人生を変えたこともない。昔からそういった人が羨ましかった。自分よりも音楽や映画を愛している人は、本当にたくさんいる。どこまでも偏執的に音楽や映画、アートを愛し、心底楽しそうに携わっている姿は度々自分のコンプレックスを刺激した。

それでも「自分の人生に文化が必要がないか」と問われると、明確にNoと言える。なぜなら小さな感動の積み重ね、ふいに触れた感情の欠片こそが今の自分を形作っているからだ。直接的な人との出会いもあったし、普遍的な人生の哲学の発見もあった。新しい文化に触れる度に僕の知的好奇心は引き出され、新しい扉が少しずつ開いていった。それこそが豊かさの正体ではないか。

今、新型コロナウィルスの影響のしわ寄せが様々な部分で出てきている。こういった有事の際に、最初にしわ寄せが来るのは文化的活動だ。「不要不急であり、必要ない」からだ。我々はなんのためにコミュニティを形成するのか、どうして経済活動をしているのか、なぜ生きているのか。無駄を享受し、文化的な活動を行い、豊かさを得るためではないのか。そうでなければなんのための発展なのか。文化を殺すのはいつだって関心のない人間だ。俺もそうなってしまうことがあるかもしれないし、あなたもそうなるかもしれない。でもそうはしたくないでしょうよ。

本当に、こんなことを書きたくない。こんな場所で書きたくない。書きたくないが、文化に関心のない大多数が決定を行っているのが現状であるなら、俺はそれを変えてしまいたい。文化が「自分には関係のない、不要不急のものだ」と言うのであれば、最高でハッピーだったり、どう感じたらいいかわからない感情、どうしようもなくたまらない体験や経験を味あわせてやる。感動を忘れたのなら思い出させてやる。文化の担い手は、今この社会を生きる全員だ。全員。

無関係ではいられなくしてやろう。

編集長:堤大樹

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