理解できない、ということ

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先日、福岡市文化芸術振興財団主催、ダンスセレクションinアートカフェに出演させていただきました。

どんな作品であったかはさておき、ご感想に「理解できなかった」という言葉をいただきましたので、私なりに思うことを残してみます。

(私の作品を見たことがなく、この文章を読んでいるかもしれない各関係者にまず伝えておきますが、私自身難解な作品というのは基本作っていないつもりです。※主観)



作品を理解できなかった方々へ。

まずはじめに、理解することは不可能です。



言語を用いると、答えが存在すると錯覚しがちです。

特にダンスは言語ではありませんので、”答え”という理解における必要最低限の要素が存在していません。


『思考する』という行為は言語を用います。『理解』は『思考』を用いるので言語を使用します。

ですので、理解するという行為*1は、ダンス作品において根本的に不可能であり、不要であり、それで良いと私は考えています。作品自体への理解は成立しません。例えて言うならば他人を理解しようとする行為と似ています。それは不可能であり、他人を理解できるという考えはとても傲慢です。人の思考や存在の内、言語化出来るものはいくらもありません。そして証明も不可能です。*2

ですから、理解できない、というのは作品に踏み込んで考えてくださった結果なのだと思います。ご自身の知識・経験を総動員しても理解できなかった。作品を尊重し、とても真摯で正直な、嬉しいご感想です。真っ直ぐ観ていただけたのだと想像します。

長く見てくださっている方々の中には、自身の受け取ったものを感想に置き換えることに慣れている方もいます。感覚や自身の思考の言語化に慣れていたり、長けていると可能です。*3
しかし、それは理解ではありません。言語化が得意だということです。
そういった方々と比較して、自分は理解できていない、と考える必要はありません。感想を言葉にしたいのであれば語彙を増やしたり、一つの作品にじっくり時間をかけて思考すること、多くの作品を見て視点を増やすこと、いろんな方と感想をシェアして多様な考えを知ることなどが大事だと私は考えています。


*1 言語を用いずに理解するということは可能かもしれません。しかしその場合、理解というより享受するという行為になります。

*2 理解したいのにできなかった、というのは快・不快で答えると不快に属するとは思いますが、そもそも芸術は鑑賞者を楽しい気持ちにさせることが前提や目的ではありません。そういったものももちろんありますが、芸術はエンターテインメントではありませんので、その不快さ、不愉快さを受け止め、ご自身で調理できるとそこに気づきや思考・活力の広がりなどが産まれるのではないかと想像いたします。芸術の価値の一つです。

*3 作品をAとし、それを鑑賞し受けたものをA'とすると、A'は言語ではないので、言語化する必要があります。つまり、A'をBにする作業が必要なのですが、ご存知の通り、それはもう既にA'ではなくなっています。多様なA'が存在しますが、鑑賞いただいた時点で受け取りは済んでいます。押し売り。笑


受け取ったものの感覚も特になく、よくわからんかったなーという方は、今はその作品を見ても響かないタイミングだったのかもしれません。
他の作品も見てみて、是非またいつかその作品にも戻ってきてみてください。鑑賞数の多さは作品を受け取る力に影響します。


そうじゃなくて理由が知りたいんです。作品の骨組みやコンセプトを理解したいんです。という方は、振付者や作品制作のバックグラウンドを調べる、もしくは振付者に直接聞いて良いと思います。聞かれて嫌な気持ちをする振付家もいるかもしれませんが、私は、作品に興味とリスペクトを持って尋ねていただけると、とても嬉しいです。好きです。末長くよろしくお願いいたします。

作品の入り、終わり、構成などの骨組み、コンセプト設定、衣裳、装置、大道具、小道具、照明、音楽、音響、空間、動き、動きの種類、フォルム、素材、質感、色味、香り、などなどたくさんの要素が複雑に絡み合って作品は出来ていますがその理由は確かに存在します。(これも全ては言語化出来ません。ごめんなさい。解説しているはずなのにどんどん迷宮入りしますね。)

作品を作る上で、作品の存在以外はなるべく言語化するべきで、理由は必要であると考えております。

何故言語化すべきかというところですが、作品を制作する人間はその作品を上演するまでに関わってくれる人々に説明する必要があるから、というのはとても大きな理由だと考えています。特に舞台作品は1人では作れないので。表現したいことを形にしていく行為の途中で、言葉は必要になります。

あとは作品制作のスタートにコンセプトを設定した場合、たくさんの制約が生まれます。制約とは何かを決める基準になりますし、作品にとっての理由になり得ます。そしてその制約は振付者自身の思考の外に設置されていますので、コンセプトが作品を作りあげることとなります。振付者が道具の一つになる行為であり、そこに振付者が準ずるためにも、理由を通して思考するという行為は、この制作過程において必須です。(同時に言語に縛られないことが必要です。言語化できない部分を恐れないことも必要だと最近は考えています。)




長くなりましたが、最近はこのように考えています。1人の振付家のただの思考として、誰かの参考になれば幸いです。「理解」という行為の枠組みがより広く、そしてくっきりとして自由な輪郭が産まれますように。

まだ今後考えは変わると思いますので、途中経過として。



追伸

今回の話は、鑑賞者が能動的であることが前提です。是非ご自身の知識や経験、歴史も用いて鑑賞してみてください。
受動的に見ることやどちらにも属さない見方、こちらで選べず作品自身に強制力があるものなどいろいろありますので、楽しんでもらえたら嬉しいなぁ。

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