Solos 終演

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年の瀬まさかのクリスマス。

「Solos」へとご来場いただきました皆様、そして舞台を作り上げたたくさんのスタッフ・関係者・ダンサー、ご来場が叶わずとも応援をいただいた皆様に、心よりお礼申し上げます。

人との繋がり、関係性で出来上がった舞台だったととても感じた公演でした。


昨年コロナ禍で、全ての仕事が一旦キャンセルになり少し悲しかったのですが、産まれた時間を通してやりたかったことができるのでは、と嬉しい気持ちもありました。

ということで、ギリシャ語の勉強を始めたり(途中で断念)、本を読んだり(積読がとても増えた)はじめました。

あとは、ずっと見れていなかった映画をひたすら見る、ということを始めました。目標は1週間に3本。2月から始めたこの作業は、「Solos」の本格的なリハーサルが始まる、10月末まで続きました。ちなみに、公演が終わったのでこの作業は再開するつもりです。

たくさんの情報に触れ、歴史を掘り返し、作品リサーチの為の文献を読み、全く関係ないような映画を見たり、美術館へ足を運ぶ頻度を増やし、今興味があり、できることはひたすら手を出す。

もっとロジカルに、多角的にものごとを見てみたい。もっとフラットになりたい。

そういった欲望が芽生え、気づくと、物事に決まった価値がない、善悪の概念は不確かである、そういったところに着地しました。

知れば知るほど、知識の足りなさを知ることになり、辿り着いたのは、私が私の専門性に立ち返るといういことでした。

表現に対する手段を、私は選べる立場じゃなかった。私は既にこの道をここまで歩いてきてしまった。

そのことに気づいた時、なんだかすっきりとして、諦めよう、と感じたのを覚えています。


その後も細々とインプットを続けながら、昨年初めて、ひたすら情報を集めてリサーチをしながら作った「静寂は怒る」。全てに理由があるのではないかと、探して探して、一体どんなものが最終的に舞台に立ち上がるのか、分からないまま賭けのように会場に入り、作り上げました。

こんなものができることを私は 全く想像していなかった。この経験がとてもとても癖になり、私というちっぽけな存在ではたどり着けない場所に向かう手段を、その時に少し掴みかけました。

次に、昨年夏に作り上げた「Vanitas」。

どうしても新しい作り方を試したい、と初めて文化庁の助成金を申請して、作り上げた作品です。ずっと上演できていなかった。

スタジオでひたすら沙織さんと会話し、コンセプトを見つけるところから始めました。私は彼女の身体を通して何を見ることができるのだろう。何も分からないまま、行き先を決めず、出発点を探す。

そして2人で見つけた出発点からリサーチと対話を重ね、「Vanitas」が出来上がりました。音楽を担当いただいた、マツミシンノスケさんともスタジオで話し合いながら、素晴らしい選曲をいただきました。
振付はほぼ全て沙織さん。音楽の選曲・作曲はマツミさん。

そして「ミルク」。

今年に入って、春頃だったかな。作りたいと思った作品です。
フリーランスという性質もあり、所属に関係せず、多様なスタジオに関わらせていただいており、この福岡のたくさんのスタジオ達を俯瞰してみたい。どのように私が活動できるような今のこの土壌は作られたのか、知りたい。良い点・悪い点ではなく、なるべくフラットに事実を知りたい。そこからどんな作品が産まれるのか知りたい。出発点は早めに見つかったので、あとはそれを踊れるダンサーを見つけるだけでした。

「匡史朗の作品出てもええよ」

智香子さんからそんな一言が頂ける日が来るとは思っておらず、ぽかーん、としたのを覚えています。

「え、いいんですか?じゃあ、考えます。いいですね?」

「ええよ」

一般的にはダンサーは出してくださいってお願いする立場になることが多いのですが、全くの逆パターン。さすがはChikakoさん。私達の関係性が一発でわかります。

福岡出身ではない智香子さんが、福岡のバレエ界を語る作品を踊るなんて、とってもナンセンスでメイクセンスだと思い、三つ目のソロが決まりました。


そして、文化庁AFF補助金の申請が通りました。

2つソロが出来ていて、1つは構想ができています。あとはもう1つ。

「惑星」

本当は最初に、ダンサーのいない作品を作ろうと考えたのですが、小説を読み込むうちにやはりダンサーが必要だ、と感じました。シンプルに動けるダンサー。

「ひろなさーん、、、実は舞台のお誘いで、、、、出てくれないかなーなんてー、、、」

『実は膝を怪我したんだけど、、、』

ダメ元の私と、満身創痍のひろなさん。ひっそりとした電話の後、どういった動きが出来るのか、どこまでが可能か、その動きの中で「惑星」を踊ることができるのか、スタジオでトライしてみることに。

あとは皆様ご存じのひろなさんの鋭い聴覚。そこからの体現。
即興はできない、と断言したひろなさんに、只管細やかに振りをつける作業。フリを作るってとてもセンシティブでストレスなのに、なんだか懐かしい作業で、暖かい気持ちが蘇ってきました。この動きが大島の動きですよ。というものが少し見えました。

音楽の宮本真理さんの相変わらずの鋭敏なセンスによる美しい楽曲。

ああ、このひろなさんと真理さんの2人だからこそこういう作品になったんだなぁ、と見ていて気づく。


そして、今回初めて菅原さんという制作の方に業務を依頼しました。かつてないほど、任せっぱなしにして、ごめんなさい、と思いながらめちゃくちゃお任せしました。ものすごいお任せした。ほんとに。

このスーパーマンみたいなお方がいなかったらこの公演は成り立ちませんでした。「集中できる環境を作ることができます」とお伝えくださって、ちょっと高いけど、ええい!せっかくの補助金だ!こんな時に使わないでどうする!やったれ!と依頼して本当に良かった。凄かった。凄い人。

そして林さん。もう長々と制作してくださってる感じがしますけど、実は2年くらい?多分。もうすぐ3年かな。

私の人生相談みたいなものから聞いてくれる稀有な制作さん。舞台美術を勉強中。
いつだって「好きにやろうよ」「やりたいことやろうよ」と後押ししてくれる、心温まる、しかし鋭い矛を持つSnCの制作さん。今回はSNSの広報を担当いただきました。あとは、大島の文章チェックなども。今は遠く離れたスウェーデンから制作業務をこなしていただいてます。

そしてフライヤーにお名前を載せるのを失念していて、自分を土に埋めたいなって思ったんですが、演出アドバイザーの悠さん。

近年の大島作品はほとんど見ていただいています。
特にコンセプトが強くあるものは絶対に相談をしている。
何か相談した時はフラットに、「匡史朗君は何を表現したいの?」という問いを返してくれる。ハッとさせられる。「“私”はね。”私”はそう思うけど、全然気にしなくていい。どうしたいの?」とか、もう、丁寧に作品のことを見つめて、声をかけてくれる悠さんに、感動しっぱなしです。

そして舞台スタッフの皆様。

「妥協したくないです。今の環境をフルに使って、やれることをやり尽くしたいです。御用聞きではなくて、どうか一緒に作品を作ってくれませんか。」

という、すっげー雑な要望に、応えてくれて、「掃除がなーめんどくさいんだよなー」って多分100回くらい言いながらもやってくれて。笑
作品上演時間より転換の時間を長くしたくない、ってめっちゃ効率あげてくれて。

コンセプトはもちろん、この演出どう思いますか?という相談から全部聞いていただきました。

つまるところ、私だけじゃ、なんにもできなかった。


分かったのですが、私は表現する種を生み出すこと・行き先を見つけること・一緒にその種を育て、咲かせてくれる方々を探すことが仕事なのです。そして、協働してくれる方々が働きやすい心や環境を作ることが仕事なのです。(できていたかはともかく)

振付家って千差万別な仕事の仕方をするんでしょうけれども、やっと私の指針が見えてきたなぁと感じた舞台でした。私は私の分身を作りたいわけじゃなく、まだ見たことのないものを、みんなで探しに行きたい。

たくさん考えて、リサーチして、産まれた種はとても大事で。頭おかしいんじゃないかなっていろんな人が言ってくるけど、なんだかんだ一緒に大事にしてくれるメンバーが揃ってくれて、無事に終演しました。

皆様、ありがとうございました。

今は作っていきたいと思っていますので、しばらくお付き合いいただけますと幸いです。


2021,12,28  大島匡史朗


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