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関心領域という映画

6月1日ファーストデーでいってきた。見終わって、咀嚼し続けるんだけどなんの旨味も出ない。いい意味でもなく悪い意味でもなく。怒りの対象が不在というか。だからといって、なんだこの映画は?っていう感情はない、むしろその真逆。わぁこれは・・・と息をのむほどに良い映画。ホラーであり、音は美しい。どこからどう説明すればいいかわからない(説明など求められていないのだけれど。)今私が読んでいる本の内容とも相まって、ほんとにいろんな感情、自分の経験から得た実体験の感情から、もともとある自分でもってた気持ちみたいなもんとが合わさってもうぐるぐるのぐちゃぐちゃになってしまったが、今日はまとまらないままにかいてみようと思った。多分、意味が不明なところがでてくると思うけれど、私があとから読み直したとき、その感想とか想いとか、一旦心にとどめたものを思い出せればいいと思う。

まずはじめに、この映画はアウシュビッツビルケナウの隣に住む裕福な家庭を描いているというのは見る前から知っていた。ただ、その家族は、塀を隔てた隣の収容所ことはほぼ全く知らずに暮らしているのだろうくらいに思っていた。勝手に、なんにも知らずに生きていることを描いているのかなーとやんわり思っていた。でも、少なくとも大人たちは知っていてたし、もちろん、彼らは、ゲルマン人(アーリア人)と呼ばれる民族とされていたため、彼ら家族はその時代優位な立場に置かれた人々だった。ナチス重役の夫に、妻そして子どもたち。映画の中で特にユダヤ人やポーランド人をあからさまに差別したり、非難したり、そんなシーンはない。ただただ裕福な家庭で、お手伝いさんがいて、しょーもない婦人会やパーティー(彼らにとってはしょーもなくない)が行われ、美しい庭があり、広く整った家の中が描かれている。隣はビルケナウ。映画の中のことだけなのに、心がざわつく。映画の中でも、収容所でおきていることは映し出されない(会話の中にはでてくる。収容されている人を荷物といい、ガス室で殺し、殺しを循環させる計画を話している)こうつらつら映画の内容をかいてしまっているが、なんかこれ、ここで言いたいことは映画の内容じゃない。裕福家族の大人たちは、迫害される人々に対して、感情がない。人間も動物で、いくら目の前でひどいことが起きていようと、自分がその問題の渦中にいないような、もはや、いくらひどいことが起きてたとて、それに慣れきってしまい、自分のことではないと切り捨ててしまうというか。もはや、自分さえよければ・・・を超えているし、思考停止とも少しちがう。人間が動物であることをまざまざと感じたし、私もその時代、その家族にいれば、なんの疑問ももたずにそこで幸せに暮らしていけるのかもしれない。家族に、特に妻には放漫さがあり、意地悪な態度や言動にいい気持ちはしないが、自分たちがここで暮らしたい、ここが幸せだと、他者の(隣の)無関心というものにどっぷり浸かっていて、不快な印象を持ちつつも彼女に悪意はない。意地悪な心も垣間見えるシーンもあったが、収容所で起きていることは彼女がそうしたかったとか、そうしてほしいとかも関係はないし、仮に彼女が私の家の隣に住んでいたとして、普通に私はご近所さんとして、特に問題なく暮らしていけるのではないかと、頭がいたくなる・・・。生まれて、気づいたら無条件で優位な立場が与えられていたとして、でもそれが私は優位な環境におかれているとかそういうことは考えられないということを見せつけられた。5月初旬に、親族の話でかなり重い差別的な話を聞いたのだが、その話の中で、当事者(私は加害者と呼びたい)が「そんなつもりはない」と言っているということを聞いたことを思い出した。その件は、あからさまな男尊女卑の話なのだが、染み付いた差別心は本人に全く自覚されないことがわかる。あーこれと似てるなぁと思いつつ映画をみていたのだが。さらに、そういう環境、例えばこのナチスについてだって、収容所での出来事を映し出した映像があったとしたら(あるけども)それをはじめてみた人は、もしかしたら私はナチス側にいたいと願う人もいるだろうと思う。ひどいことをされる側にはなりたくない、じゃあ、まだ大きいものについていたいと思うのが人間という動物の自然な心だと思う。そういう、動物的な心のままに心が育てば、こういう無関心な心が育ち、それが人間にとって心地よいともとられるのかもしれない。いじめだってそう。特定の人を排除する行為、これが人間にとって一番つらいことだと思う。否定した上、ないものとして扱う。人を雑に扱うというか。いじめる側、いじめられる側そして、その間にいる人たち。その他大勢。傍観者。周りの人々が自分もやられたくないからという自分を守るため何もしないならまだ理由が通る。(あかんけども)傍観者が完全にいじめに慣れて、いじめが横行する環境に馴染み、なんの興味関心もなくし、その環境に対して感情がなくなることが一番こわい。じゃあどうすればいいのかと。何をどう教育すれば人間はかしこい動物になれるのだろうかと。これだーという答えはないまま今日も1日が終わる。映画の中では、赤ちゃんや犬、来客がビルケナウからの音や匂い、雰囲気を感じ取り泣きわめいたり、咳き込んだり。そこに住む”幸せな”妻は、夜はグースカと快眠、そんな映画の描き方がすごいなぁと思った。最後の音楽のこわさと、映画を観終わってからくる、この映画の中だけじゃない、現代人にもある人間のこわさが、ホラー映画よりもおそろしく、これからも頻繁にこの映画のことや、無関心さについてを考えるんだろうな。でもって、自分が変えられることって、一人一人の存在を丁寧に扱うことくらいなものしか思いつかない、差別心旺盛の人が目の前に現れても、私はその人を矯正することなんてできないのだ・・・かくいう私も弱くて愚か者で、時にずるいなぁと思う・・だって今もこんななんか善人ぶった文章をかいていて、なんか卑怯な感じがして自分がいやになっていたりする。なんなん?どうすればいいかわからない、答えをみつけられないことが多すぎる。

まず、自分自身に無頓着になってはいけない。「わたしとはなんであるのか」という関心をもち続けるというか、自分をあきらめたくない。多分まずこれなのかなー。こどもたちは、きっと大人のこと、周りのことを空気のように吸い込んでいるだろうから、特定の人を排除するような言葉や態度をしない。絶対に。今日のところは、これをひとつの答えにしておこうかな。きっとまだまだある。あぁ!これかーとなったとき、わたしも自分の動物的な人間の心を穏やかでやらかいもんにできるのだろう・・・か?


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