「マンガでやさしくわかるアドラー心理学」を読んだ衝撃を記す
今日のブログは本を読んだ感想を書きますが、これは書評ではありません。
書評というよりも、私が衝撃を受けたところだけ書き留めて置きたいがために書いています。
「マンガでやさしくわかるアドラー心理学」を読む
私が衝撃を受けたのは、「マンガでやさしくわかるアドラー心理学」。
2冊のシリーズものになっていて、マンガのストーリー仕立てで読みやすい。
衝撃も大きかったのですが、アドラーの本は学びが深いと感動もしております。
しばらく前に話題になった、「嫌われる勇気」もアドラーの本だったと思うのですが、その本を読んだときは、アドラー心理学の奥深さが全くわからなかったのです。
ビジネスを経験して、心理学的なことやスピリチュアルなことを学んでコーチとしての経験を積んでいく中で、アドラーの奥深さがわかったみたいです。
「嫌われる勇気」を読んだときは、表面部分を拾って、なんとなく良い本という位置づけで終わってしまい、読み返したいとは思わなかった。
今となっては、「嫌われる勇気」をもう一度、読んでみたいとウズウズしています。
前回とは全く違う学びがあると思うので。
人は出来事を客観視出来ない
で、本題でもある、たくさんの学びがあるこの本の中で、一番衝撃的だったことは、「人は出来事を客観視出来ない」という部分です。
※普通の人は、この部分を切り抜かないと思いますw
ビジネスをやってく上でも、心理学やスピリチュアルな学びをしていく上でも、出来事を客観視することを、常日頃やっていたつもりだったので、かなり衝撃でした。
出来事、物事は、すべて陰陽がセットになっていて、良い面もあれば悪い面もある。
と、いう事がなんとなく腑に落ちていたので、私自身、少しは客観的に物事を見られるようになっていたと思っていたのですよ。
ですが、アドラーの本を読むと、人は出来事を客観視出来ないらしい。
どんな人も、自分の色眼鏡で物事を見ているから。
それもすごくわかる。
同じ出来事を10人が見ていたら、10通りの見方があるからだ。
そんな中でも、抽象度が高かったり、視座が高い人は、客観的に出来事を見る事が出来ると思っていた。
だからこそ、人は出来事を客観視出来ないという部分に衝撃を受けたのだ。
どんな人でも、客観的に出来事を見る事が出来ないなんて。
出来事を客観視出来ない前提で生きる
だけど、正直なところ、ホッとした気持ちも湧き上がっている。
そもそも、「出来事を客観視することなんて出来ない」と、いう前提に生きていれば、生きるのが楽になる感じがしませんか?
私は、出来事は客観視出来ないといけないものだと思っていたから。
客観的に物事が見られないと、冷静な判断も出来ないし、なんとなくズレた生き方になってしまうのではないかと、思っていたから。
が、しかし、「出来事を客観視することなんて出来ない」と、いう前提に生きていれば、どう思っても、どう感じてもそれはそれでOKじゃないかと。
自分が持っている色眼鏡は、個性であり、その人そのものだから。
どんな見方をしても、OKであり、その見方を尊重すればいいだけ。
で、もし、そういう見方をしていて、苦しかったり、物事がうまくいかないならば、その見方を少し変えてみればいい。
違う色のメガネをかければいいだけじゃない?
そう思ったら、気持ちが楽になったのですよ。
心理学とか、スピリチュアルなことを学びだすと、苦しかったり、物事がうまくいかなければ、自分自身と向き合って、心の中を深掘りして~みたいな事をするわけで。
それはそれで、いいこともあれば、余計に苦しくなることもある。
サポートしてくれる人がいればいいけれど、自分でやろうとすると、苦しくなることが多い。
ならば、アドラーの、「出来事を客観視することなんて出来ない」、という前提に生きていれば、客観的に見られないのは自分が未熟なわけではなく、仕方ない事だよね。
で、すむ問題。
心の中をほじくり返して深掘りすることもしなくていい。
そもそも自分の色眼鏡で物事を見ているのだから、それを良しとするか、良くないと感じるならば、違う色眼鏡をかけて見方を変えればいいだけの問題。
と、私は理解したのですよ。
そう思ったら、これからの生き方が変わっていく予感がしています(^o^)
「マンガでやさしくわかるアドラー心理学」を読んて、感じたことを忘れたくなかったので、ここに記して置きます。
まだまだ、言語化出来ない部分もありますが、今日はここでおしまい!
【追記】
この本の内容は深いので、かなりのコンテンツが出来そうです。
ビジネス的なことや心理学?スピリチュアル的なことと組み合わせる事が出来るから。
コンテンツは、感じたことよりも、頭の中の知識を何度もぶち壊しながら、組み立て直し、わかりやすくする感じですかね。