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ファスナー

かつての日、連休のうちにて、わずかな人々のみが往来する坂道の上、線路を見ゆること能わんとす。まだ空は青く、線路と空のあいだ、オレンジの光の帯にて飾られたり。木々の緑も先週より一層濃く見えたり。

二日ぶりに外に出でたり。編集の御方よりフィードバックを待つ間、用事を済ませんとするも、電車にて一大事に気付かれたり。ズボンのファスナー、開きたることを。一番上のボタンは留まりしも、全開にてあるべし。立ちたる私、前に座る男性にはまさに丸見えなり。慌てて跳ね退きたり。男性はスマホを覗き入るも、気付かざることを願いつつ、ファスナーを閉じる機会を窺う。

車内は満員にあらざるも、程よく人混み、周りは人々に囲まれたり。沿線に住む知り合い、またはオンラインのみの関係者に会いたるならば、この姿、大変なこととなるべし。

苦肉の策として、上着を重ね、その上からバッグを重ねて隠すこととなり。奇妙なバッグの持ち方となるも、一人のクセの強き者と思われたし。更に、優しげな年配の女性の前に移り、もしファスナーが開きたることあれば、彼女にはにこやかに対応せられんと信じたり。

「あら、前が……」
「そうなんです。閉め忘れちゃって」
「わかるわ。私も普段スカートだから、たまにズボンを履くとね」
「やっちゃいました(笑)」
「いいわよ、ささっとファスナー上げちゃいなさい」
「ありがとうございます!」

と脳内にて会話を繰り返しつつ、女性は電車を降りたり。次の駅にてようやく降り、トイレを求め遠くまで歩きたり。その姿、まるで何かを隠し持つ不審者の如し。

エスカレーターにて、前後の人に挟まれた隙に、ファスナーを一瞬で上げたり。安堵しつつ改札を出で、外は既に暗く、駅ビルの光、煌めく。素敵なる駅なりと思いつつも、家から駅まで、ファスナー全開のままで歩きたることを思い出し、あの駅には帰りたくなきと思う。ズボンの前ファスナーに、アラートをつけてほしいなと思いつつ、家路に着いたり。

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