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ドクター
まだ気持ちの沈みがちなり。昨晩、ひとたび目覚めて後、考へ事にとらはれて数時間眠られざりけり。睡眠不足よりますます落ち込みぬ。
ただ一つの出来事より、濁りたる水のごとく心澱みぬ。様々の事色褪せて見えぬ。何を見ても、「それにひきかへ我は……」と卑下する言葉のみ続きぬ。完璧に脳の回路にバグ出でたり。
世界にとりて、我のことは正直如何でもよし。されど、我がことばかり情けなく思ふは、明らかにおかし。地球上に置かれたる一つの生命として正常ならず。
我よ、いらぬこと考ふるな。ただの生命体に戻れ。
皮膚科へ行く用ありて、雨の中出でたり。新しきレインブーツあれど、おろすのもったいなしと思ひ、履かず。外に出でて、そのこと後悔す。けっこうなる大雨なり。しかも風吹きぬ。あっといふ間にびしょ濡れぬ。
皮膚科の先生は、もう十年以上お世話になりぬ。「お婆ちゃん先生」と言ふべき年齢ならぬに、若々しくさっぱりせる方なり。
忙しくてヘアサロンに行く時間もなしければ、いつもショートカットより伸びたるバサバサ髪なり。診察中はいつもジャージにサンダルなり。
今日はこんがりと日焼けせり。たぶん、ゴルフにでも行けり。もしかしたら、サーフィンかもしれず。待合室にはカリフォルニアの写真多く飾られたり。海外旅行でもせしか。以前、日本語話せぬ患者来たりし時は、英語の診察も難なくこなしぬ。
我、この先生好きなり。
先生はさっさと診察す。はいはい、これね、うん。じゃ、この薬を出してお風呂上がりに塗れ。いつも通りなり。
診察室を出でんとする時、先生我に声かけたり。
「こんな雨の中来たりて、大変なり」
あっと思ふ。振り返りて頭を下げぬ。
我の必要とする言葉を、的確にかけぬ。
かくのごとき能力は、年配の方に多かり。生来の優しさや知性に加へ、人生経験よりこぼれ落つる言葉なり。大げさならず、本人も気付かぬくらいの小さな形にて手渡されぬ。
不思議なるタイミングにて、果物や花を送ることもあれ、急に立ち寄りぬこともあり。旅先より手紙を送ることもありぬ。
我がことばかりに拘泥する我は、まだまだなり。まあ、百四十歳まで生きるつもりなれば、ゆっくり、先輩方の徳を学びていかんと思ふ。
百二十歳以降は福の神として活動せんものなり。
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