【読書感想記】「かなわない」植本一子の沼。なんか劇薬?

怖い本だとわかっていた。わかっていたのに。

手に取ったのは今より前。冒頭の「遺影」を立ち読みして、すぐさま惹かれた。惹かれたけど、そのあとの小さな文字が2段になってページいっぱいに並んだ日記の静かな圧に気圧されて、棚に戻した。今じゃない、と思った。でもいつか読むだろうなと思った。

当時、千葉美術館で彼女の企画展の開催。気になる人がこの企画展を、彼女を推していたこと。かつての後輩が自然光のスタジオを立ち上げ、彼女とかぶるなーと思ったこと。その後輩の審美眼際立つお洒落な本棚に、彼女の本が並んでいたこと。母親を早くに亡くした一人っ子の元同僚が、かなり早い時期から彼女の本をすきだ言っていたこと。その元同僚の表情や雰囲気や佇まいや湿度のようなものや、ぽっかりと口をあけた見えない空洞があるようなかんじが、会ったこともない彼女になぜか似ていると感じていたこと。

そして、彼女の出身地の広島にわたしも縁があること。音楽が好きなこと。好きな音楽がわりとかぶっていること。同じ星座なこと。
そーゆーいろんなモノが重なり絡まり積み重なって、ついに、「かなわない」を手にしてしまった。「かなわない」が、ついに、わたしのもとにきてしまった。

かなりのハイペースで読み切ったので、夫からは「面白いんだね?」と言われたが、その返事には困った。面白い!とは決して言えない。けど、読み止めることができないのだ。読み進めさせられてしまう。勝手にどんどん、ずかずか、ずぶずぶ、読まされるのだ。

そして、読んでいる最中や、読み切った直後は、わたしは対岸にいた。はずなのに。

読んですぐは、家族に、親に、問題を抱えるまわりの友達を何人も思い出し、この本をすすめるかどうかは熟考しなきゃだな、なんて思っていた。寝た子を起こしてしまいかねない。
知るということは、知らなかった頃には二度と戻れないことだ。そう、確か安野モヨコのマンガで読んだ気がする。
知らない方がいいものもある。そう思った。

ただ読んでから一晩たって、前夜食べたものが胸やけを起こしている。胃もたれを起こしている。そんな重さがあった。
はっきり言って、わたしには親との確執は一切ない。ないのだが。なんだろう。何か陰のようなものがじわじわ忍び寄ってきているかんじがして怖いのだ。読んだあと思わず本棚の奥に入れた本の中から、陰のようなものが現実の世界にひたひたとすべりだしてきて、床からじわじわと広がってきて、気づくと背後に迫っているような。この感覚はなんだ? なんだろう? わからない! わからないから怖いんだ。

それは、可能性、のような気がした。
ココに記されていることは、あくまで彼女の個人的な物語ではあるけれど、それは圧倒的な現実で、現実に起きているという事実。

それが現実の事実である以上、わたしにも起こり得るかもしれないという可能性。そんなものを、単なる一読者に覆いかぶせてくるのだから、恐ろしい。いや、覆いかぶせてきたとか言うのはこちらの勝手で、彼女的にはそんな意図は一切、ないだろう。だから余計、そこが怖い。

彼女の日常を知ることで、ただの一読者でありながら彼女の世界にいとも簡単に存在してしまう。没入してしまう。その恐るべし筆致。なんの奇をてらった書き方をしているわけでもなく、ただとうとうと日々がつづられているだけなのに。すべてを詳細に書いているわけではないのに。絶妙に、事実がそのまま書かれている。行った店や会った人やつくった料理や家族への感情が。実際には、書く内容の取捨選択もしているのだろうけど、それすらしていないのでは?というくらいの日記からは、そのリアルな生活、彼女の心の内が如実に立体化してきて、知らない間にすっかり飲み込まれてしまう。

だってこれ、彼女の親も読むよね?夫も読むよね?子どもも仕事の人たちも目にするよね??? 読み進めながら何度もそう思った。素性の割れないアカウントでつぶやくような胸の内も、そのまんまボロンと投げだすように、何を気にする様子もなく書かれていた。まるで、誰も見ていない自分だけの日記帳に書くようにさらりと。いいの。これ。ほんとにここに書いちゃっていいことなの。そう何度も何度も思う一文が、そこかしこに転がっていた。

事実は小説より奇なりで、彼女の親との確執以上に、後半、彼女の思わぬ恋愛事情と修羅場すら飛び出してくる。おののいた。
最初は育児奮闘記かなという風情なのに、そのまんま日常の延長線上として書いてあるので、最初目にしたときは混乱した。
ただ、それを記すにあたり日記の日付はしばらく間が空いていて、日記を書くような心理状態にはなかったんだなと感じた。わかる。わたしも初めての恋愛におぼれていたとき、それまで毎夜のように書いていた日記を一切書かなくなっていた。それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。

読み終わってからしばらくすると、彼女のことが気になって気になってしょうがなくなっていて、他の本も漁り始めてしまった。
彼女に惹かれるとかではなく、ただただ、気になってしまうのだ。
ECDが死んでしまうとき、彼女はどんなふうに何を記しているのか。気になって仕方なくなっていた。どきどきしていた。

別の本の途中、ECDの家族が自殺してしまったところの描写で、心が耐えられなくなった。動悸がしてきて、自分の心臓の音がばくばくどきどきと耳のすぐそばで鳴っているように聞こえた。
昔、一度適応障害になったことがあるのだが、そのときのかんじによく似ていた。やばい、と感じた。すぐに読むのをやめた。頭では知りたくて、読みたくて、どっかギンギンとしているのに、心がもうむりだよ!やめなさい!と言っている気がした。

なぜそんなふうになったのかは分からない。妙齢。更年期。ホルモンバランスの乱高下。
その後、このままひとりでいてはいけない!と近所の行きつけの飲み屋に行き、まだばくばくする心臓と、いまいち目が泳いでる感を感じつつ隠しつつ、努めて知人と会話を持った。このことを話した方がよいと思った。

とっても明るく、みんなに優しいタナちゃんは、前にも書いたけど、お父さんが自死している。タナちゃんには本の詳細はふせつつ、「重めな本を読んだら心臓ばくばくしてきて~」と軽く言うと、
「ああ~あたしらの年齢、重いのは今はだめよ。読めなくなってくるよね」とさらりと返された。「ユーモラスなやつや、軽いエッセイとかがいいよ」と。そうなのか。みんな、知ってたの。

なんだか怖い体験をした。ひとの現実。そうそう安易に覗くもんじゃない。
そういえば、最初の頃はおもしろがって見ていた「家、ついて行ってイイですか?」も、今は一切見ていない。なんだか見ているうちに、気分が悪くなってきたのだ。他人の家の小汚いトイレや台所や万年床なんて見たくない。見たくないけど、それが圧倒的現実。それらが綺麗に整えられていたとしても、本人が明るく笑っていたとしても、良くも悪くも思わぬ展開や現状を抱えたひとりの人間の人生の一端を見て、その圧倒的な現実の有りよう、逃げ場のなさを突き付けられて、形容しがたい重い気持ちになってしまうことが増えたからだ。これ、エンパスというやつだろうか。

現実は、いま自分が抱えている自分の現実だけで十分なんだ。きっと。
そんなことをぼんやりと思う更年期。大人の思春期。

「かなわない」は、まだ当分、本棚の奥にいてもらおうと思う。
恐ろしい引力に満ち溢れた、圧倒的現実の本。

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