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エヴァンゲリオンと自分

2021年 7月1日
シンエヴァ視聴終了。雨天。

正直、コロナワクチン接種に行った勢いと義務感、そして映画の日という相互作用が相まって無事、エヴァの最後を、庵野さんの卒業式を、自分の卒業式を見届ける事が出来た。

エヴァに対してはとうの昔に見切りを付けていたつもりなのに、意識下にまだその残滓が残っていた。
シンエヴァ終了間際、旧エヴァの終劇の場面が脳裏に浮かんだ。
当時を思い起こすと悲しいラストだった。
確かに残されたシンジとアスカに一縷の希望もあったのだが。
しかし、それを受け容れるには余りにも希望の純度が低すぎた。
白地に終劇の文字。

絶望と諦観──。

EOEが終わって真っ先に劇場を後にした1997年の夏──。

今でもその時の事を良く覚えている。
EOEを観たのは新宿バルト9。
帰りの山手線の電車内でパンフレットを眺めながら、虚無感に浸る自分が居た。
現実はこんなものだろうなという諦め。
それをアニメから感じ取ってしまっていた。我ながら今、思い起こしても滑稽である。
その後、EOEの感想は殆ど周囲の誰にも話さなかった。

そして当時、埼玉に在ったワンルームの部屋に帰り、まだ黎明期のインターネットでエヴァの公式ページを見た。
そこには掲示板があり、見るに堪えない罵詈雑言の嵐が書き込まれていた。
自分にはそこまで庵野さんを嫌悪するファンの気持ちが理解出来なかった。

同時に世の中が悪意に満ちている事を知り、更に虚無感に拍車が掛かった。
当然、制作者の庵野さんはもっとだろうと推し量る。

もちろん、EOEが希望を与えてくれる物語と言うと語弊はあるが、少なくとも庵野さんが血を流して作った作品なのは理解出来た。
だから、こちらも観ながら傷付いて血を流していたのだ。
擬似的にでも庵野さんの慟哭や叫び、苦しみを僅かでも共有して同じ血を流した人間として、石を投げる様な行為は出来なかった。
なにより、エヴァという作品が監督と観る側の対話だと知っていたから。
ただし、それはあくまで議論の範疇であって潰し合いじゃない。
対話は出来うる限り建設的であるべきだ。

そんなこんなで旧エヴァは終わり、自分の中でも消化不良だったが、時間の経過と共に気持ちは次第に薄らいでいった。

ファンというのは実に無責任なものです。

時は流れ2006年。
21世紀にも入り、すっかりエヴァの事は忘れていた年の青天の霹靂。
約10年ぶりにヱヴァが再始動する。

今さら何をすることが──。
出て来たのは先ず、その想いだった。

パチンコ化もあり収益は上々であろう、しかし、物語としては完結したに等しい作品をまた、どう再構成するのか?
そこが最大の疑問だった。
ところが、庵野さんの答えはシンプルなもので、"新しいエヴァは若い人達が観て幸せになれる様な作品にしたい"と言う事だった。
それならば"さもありなん"と思い、
序破の劇場版に足を運んだ。

正直、新エヴァシリーズは新しい世代、とりわけ若者向けとしては合格点だと思った。
一方で旧エヴァ世代からは一部、不評だったのも知っている。
ただ、彼らは未だに大人になり切れないチルドレン、モラトリアム人間なのだと自分の中で言い聞かせていた。

"新エヴァは旧エヴァの人間じゃ楽しめないよ、いい加減に大人になりなさい"と格好付けてる自分がいた。
旧エヴァの残滓を心の片隅に残したまま……。

2012年
待ちに待ったエヴァ新作Q。
この年はおそらく人生で心身ともに最悪の状態だったと思う。
それでもエヴァを観に行く為に這いつくばってでも劇場に行った。
感想は最悪だった。
絶不調だった心身が更に悪くなった。もうエヴァには触れるべきじゃないとも思った。
震災も前年にあり、とにかくエヴァに癒しを求めていた。
しかしこの時期、庵野さんは自分と同じ様な対人関係や人間不信の不遇に悩まされていた事を後で知ることとなる。
その事実に対しては深く同情したが、
流石にQから5年以上経ってもシンエヴァが公開されない事もあり、
2度目の諦めが来た。
此処が潮時なのだろうなと──。

それから数年後、
未曾有のウィルスが地球を襲った。
新型コロナウイルス。
いま現在も進行中でこの苦境をみなで乗り越えようとしている。

特に緊急時に芸術文化は不要と考えていた人達が大勢居たせいか、映画芝居鑑賞関係者は大ダメージを受けた。
それでも既にブランドとして確立していたエヴァンゲリオンが興業的に奮わずと言う事はなく、公開日から予想通りの数字を出し続けた。

正直、それが面白くなかった。
時事的に庵野さんがエヴァから卒業して、幸せになり、コロナで荒廃した世界が何か変わるのか?
他人を救えるのか?と
やっぱり、ただの自己満足でしか無いじゃないかと。
アニメに世界を変える力なんてない。
大いなる欺瞞だ──。
などと、それまでに無いほど反抗精神を庵野さんに募らせていた。
そして同じ時期に、庵野さんの師匠である宮崎駿さんにお会いする事になる。

そこで、あえて宮崎さんに「私は毎日毎日、エヴァンゲリオンを観て部屋に閉じこもっていますが、今日は淵の森の清掃に来れて良かったです。」などと、実際にやっても居ない事を聴いて、宮崎さんのエヴァに対する真意を問うてみた。

すると帰ってきた答えが、
「それは重症だ。末期ですよ。エヴァンゲリオンなんか観ちゃいけない。」

宮崎御大の言葉は大きかった──。
「そうですよね」と言わざるを得ない、場の空気を支配出来るほどの我の強さのある方だった。
自分の愛弟子の作品に対してまるで容赦がない。

じゃあ、シンエヴァはなるべく観ないようにしよう。
そう思いつつも、宮崎さんの考えとは裏腹に、今日、シンエヴァのラストシーンを観て、これまでに無い優しさを内包する幕引きに、過去、旧エヴァに失望した事、新エヴァに違和感を抱きつつも新しい世代の為ならという妥協した自分と、結局、まだエヴァンゲリオンに対する思いを完全に断ち切れない自分の、潜在意識の扉(*ガフの扉?)を開かれた気がして、心から涙が溢れた。
劇場内で息を殺し人知れず泣いた。

シンエヴァは若い世代だけではなく、旧エヴァを未だに引き摺っている世代をも優しく送り出してくれたのだ。

シンジと共に。

数十年掛かって会得した人間の懐の深さ、少年から大人へと成長した庵野秀明の姿。

これが観たかった。

師である宮崎駿監督を超えた瞬間を。

しかしながら、自分が心の琴線に触れた理由を不器用な自分にはやはり上手く語れない。

仮にもし、涙に訳があるとするならば、魂が宿るとされる「*ガフの扉」が開かれ、この20数年のあいだに経験したエヴァを愛する人たちとの出会いや別離(わかれ)そんな記憶を思い出したからなのだろう、きっと。


そして、それももう終わる。

自分が前に進むために。

結果的にシンエヴァのラストは間違いなく自分にとって青春の1ページだったと再認識させられるものだった。

それだけに映画作品というのは優しい終わり方、時に大団円こそ涙を誘う。

作品が長引けば長引くほど愛着がついて回るのも人間の性。

それが、作品とはくっついては離れ、くっついては離れる間柄だったとしても、やはり、いざ終わるとなると別れの寂しさも一入(ひとしお)な筈。

しかし、以外とその涙は悲しいものでは無かった…いや、寂しさはあったかな。

前述の通り、シンエヴァは庵野さんの卒業式であり、庵野さんとシンクロした自分の卒業式でもあり、いままでエヴァと共に歩んできた役者さん、スタッフさんの卒業式でもあり──。

つまりは、込み上げてきた涙はエヴァの最後を見届けたと言う万感の想いと別れの寂しさから来る涙だったのです。

正直、シンエヴァで泣くと言うシナリオは自分の中で皆無だったので完敗でした。

されど、涙は心の汗。

人の心には晴れの日もあれば、雨の日も曇りの日もある。

ならば、自然の摂理に任せて流せる時に涙は流しておくもの。

最後におめでとう庵野さん
おめでとう自分。
おめでとう全てのスタッフやチルドレン達。

そして、さようなら
すべてのエヴァンゲリオン。

シンジやマリと共にエヴァの無い世界の電車にようやく乗れた気がします。
行き着く先はもちろん現実の世界。


追記
アニメは世界を変えられない。
でも、一人一人の心は変えられる。
7月1日 23:51分現在 雨。
それでも心の中は晴れやかだ。
人の心が変われば、いずれ世界は変えられる。
だからアニメには力がある。

すべての創作に祝福を。
すべての人間に祝福を。
人間賛歌は常に苦しみと喜びの上に。

終劇


*ガフの扉
元はヘブライ人(古代イスラエル・ユダヤ)の伝説にある言葉で、「神の館」にある魂の住む部屋、「ガフの部屋」のことを意味する。 それによると、この世に生まれてくる子どもたちはすべて「ガフの部屋」で魂を授かって生まれてくるとのこと。この伝説ではガフの部屋は世界に1つ、しかし、エヴァ世界では1人1人がガフの部屋を持っているとされている。

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