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プレ皇室研究: 古代の鏡の分配システムの変化

古代において、銅鐸を配布する、銅剣を配布する、鏡を配布するなどの行為があります。(権威財といいます。同じことを中国は、金印や璧などで実施するのですが、璧のほうが格上です。)
貴重な銅製品を、王様ランクの人から、部下や他の地域のお客さんなどに配るのです。
そして、その行為者が変わるということは、王様が変わったことになります。
鏡については、基本、天照大神の形代なので配るのです。皇室です。

この論文が面白いです。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf


上記より引用


最後のまとめのところを引用します。
「北部九州を中心とする鏡の分配システムと,近畿地方を中心とする鏡の分配システムの実態をそれぞれの視点から整理してきた。鏡には,「保有する」ことが表象する紐帯=共通性と,数量や形態の違いによって表象される序列=差異性という二面性が共存している。漢鏡 6・7 期鏡が流入する時期には,北部九州では配布主体たる中核的存在が不在となり分配システムが終焉を迎えるのに対して,汎日本列島に及ぶ紐帯の形成と瀬戸内海や近畿地方を中心とした地域社会の優越性が現出しており,新たな分配システムの胎動がみえているのである。こうした日本列島における中国鏡流通の変化は,庄内式期後半以後に生じた交易ルートや地域間ネットワークの変化とも前後する動きであったと評価しておきたい。今後検討すべき課題は少なくないが,近畿地方を中心とした分配システムの成立時期とその位置づけについて素描を試みた次第である。」

ぷ、これって神武東征の印なのだよ。
だって天照大神の子孫だから、鏡をばらまくのだ。
まあ、ずっと前は中国から鏡をもらっていたが、その行為が王様のしぐさなので、日本でも真似したのだwww

この漢鏡6-7期というのは、まさに神武東征なのだ。
AD100-200 の間になっています。このあたりが、神武天皇の時代なのです。
私はまあ、150-200年の間と思っているので、あまり外していないと思いますな。


また、鏡を配りだすのが、紀元前100年とか、前漢の時代なので、天照大神がいたのも、その前後だと思います。
一応、紀元前200年がイザナギ・イザナミ、紀元前150-100年あたりが、天照大神を想定しています。

そして、近畿地方に配布元が移動しますと、これが大和朝廷になります。
ただ、畿内にはニギハヤヒがいたので、話が複雑です。

「近畿地方の鏡保有はどの段階まで遡れるのであろうか。姿のみえない伝世鏡をさておいて,実在する資料に基づけば,漢鏡 3 期鏡や 4 期鏡の鏡片や小形仿製鏡が存在することと,漢鏡 3 期鏡を模倣した非九州系の小形仿製鏡が存在することから,北部九州に漢鏡 3 期の鏡が流入する中期後半以後,近畿地方にも中国鏡が存在していたことは確かである[上野 2011]。」

BC100から、西暦0年近くくらいまでですね。
うーん、ニギハヤヒが畿内に入る前後かなあと推測します。
まあ、目端のきく渡来人が他にもいて、鏡を輸入していたのかもです。
(ところで、ニギハヤヒって長生きしすぎていて、ちょっとおかしいのだ。だって、ニニギの兄弟らしいが、神武天皇のときまで生きてるっていうの、変でしょwww でたよ、また「古事記」のインチキがーwww まあ、息子が出てくるんだけど、3-4代分じゃないかなあと思うのだった。ニギハヤヒ2世とか3世とか。)



「近畿地方を中心とする鏡分配システムの成立時期に関しては,現状で 3 つの意見が並立している。一つは,三角縁神獣鏡を以て成立したと考える見解であり[辻田 2007b],一つは漢鏡 7 期鏡を以て成立したと考える見解である。漢鏡 7 期鏡に成立を求める場合にも,漢鏡 7 期を細分して画文帯神獣鏡を以て成立したとする見解と[岡村 1999],細分をせずに漢鏡 7 期に成立したとする見解がある[福永 2005a・b]。ここでは,それぞれ三角縁説,画文帯説,漢鏡 7 期説と呼ぶことにしよう。
そこには,漢鏡 7 期鏡をめぐる取り扱いと,出土鏡をめぐる「遺物論」と「遺構論」という評価する視点の違いが見いだせる[上野 2011]。」

まあ、7期なので、大和王権が畿内に成立していた時期です。というか、ちょうど橿原宮ができた直後くらいじゃないかなあと思います。AD200年前後です。

「まず,漢鏡 7 期鏡について,整理してみよう。現状の後漢鏡研究の成果は,近畿の分配システムの議論に影響を及ぼす。画文帯説では,漢鏡 7 期の区分は,画象鏡や夔鳳鏡,上方作系浮彫式獣帯鏡を第 1 段階とし,画文帯神獣鏡を第 2 段階として,斜縁神獣鏡を第 3 段階とする[岡村1999]。しかし,第 1 段階とした画象鏡は,製作年代が 1 世紀の漢鏡 5 期にまで遡り[上野 2001,岡村 2010],その製作は漢鏡 7 期まで継続する。夔鳳鏡も,漢鏡 6 期と 7 期からの 3 世紀を通じて生産が継続しているのである[秋山 1998]。画文帯神獣鏡についても,第 1 段階とした諸鏡に必ずしも後出するとは限らず,斜縁神獣鏡も「吾作明鏡」で始まる四言句の定型銘文をもつものが大半であり,画象鏡や画文帯神獣鏡と同じ段階の製作が想定され,殊更三国時代に下げて考える必要はない。少なくとも,鏡の製作年代を考える上では,漢鏡 7 期を細分することは難しい。日本列島への流入を考える上での便宜的な区分という断りを反映するように,漢鏡 7 期の細部は分布状況の違いに注目した理論的な枠組みである色彩が強い。加えて,画象鏡や夔鳳鏡,あるいは神獣鏡のように,漢鏡 6 期と漢鏡 7 期を通して生産が継続する鏡には,鏡式のみで漢鏡 6 期鏡と 7 期鏡を単純に区分することは難しくなっているのが現状である。
そして,画文帯神獣鏡は漢鏡 7 期の諸鏡と比べて,必ずしも面径が大きいとは限らない。画文帯神獣鏡も,上方作系浮彫式獣帯鏡も斜縁神獣鏡も,前章で指摘した北部九州の指標では,いずれも中型鏡の範疇に収まる鏡が大半である。画象鏡も画文帯神獣鏡も斜縁神獣鏡も,その一部には面径が 18cm を越える大型鏡を含んでいる。北部九州を中心とした弥生時代でも,古墳時代前期以降でも,面径という形態の違いは,序列を決定する重要な指標である[辻田 2007b,下垣 2011]。弥生時代から古墳時代を通じて,「鏡式」よりも「大きさ」により意識が強く働いていたと考えるのが妥当ではないだろうか。漢鏡 7 期説の見解が,近畿地方を中心とする分配システムの成立を考える上では,比較的整合性をもつと考える。
さて,三角縁説と画文帯説・漢鏡 7 期説とでは,出土鏡の入手時期と副葬時期をめぐる認識が異なっている。三角縁説では,出土鏡の入手時期を古墳への副葬時期に引きつけて考えるため,庄内式期の分布状況を以て近畿を中核とする状況が成立していないと判断する。入手時期と副葬時期との関係をめぐる,この遺構論と遺物論ともいうべき見解の相違が三角縁説と漢鏡 7 期説・画文帯説とを区分する。しかし,広島県石鎚山 2 号墳や奈良県池殿奥 4 号墳など,弥生時代に入手した破鏡や小形仿製鏡を古墳に副葬する例がある[辻田 2005]。長期保有を経て副葬する事例の存在は,必ずしも入手時期が副葬時期に近接するとは限らないことを示している。それは,古墳時代の三角縁神獣鏡の配布と副葬に関する議論と共通した一面をもつ。三角縁神獣鏡は,大半が古墳時代前期に副葬されるのであるが,一部には古墳時代中期に帯金式甲冑とともに副葬している。これに対して,入手時期を副葬時期に引きつけて,古墳時代中期に帯金式甲冑と三角縁神獣鏡を配布したとす
る見解に対して[田中 1993],帯金式甲冑と三角縁神獣鏡の配布時期が異なるとする見解が対立していた[森下 1998b]。後者は,新たな器物を入手し創出する古墳時代にあって,同一の器物を長期にわたり配布を継続することは,配布システムの本質と相容れないものとして,副葬時期と入手時[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]……上野祥史期が必ずしも近接しないことを指摘したものである。入手から保有へそして副葬へという,鏡のライフヒストリーに着目すれば,保有の継続か副葬に供するのかを決定するのは地域社会であり,地域社会の事情が副葬時期を決定するという後者の見解は有力である[森下 1998b,下垣 2011,上野2012a]。そして,入手した鏡を地域社会で長期にわたり保有する行為は,弥生時代にも古墳時代にも存在するのである。古墳時代中期後半に分配された同型鏡でも,副葬時期は地域社会の事情によって異なる[川西 2004,上野 2012b]。先に指摘した,石鎚山 2 号墳や池殿奥 4 号墳などの事例と併せれば,弥生時代から保有を継続した鏡を古墳に副葬に供する事例は,決して特殊な現象ではないのである。弥生時代でも古墳時代でも地域社会において鏡の保有を継続することから,近畿地方を中心とする分配システムの成立は,分布を集積して検討する画文帯説もしくは,漢鏡 7 期説の見解を支持しておきたい。
このことは,古墳という視点ではなく地域社会という視点で鏡の入手や保有,副葬を検討することの重要性を指摘するものである。古墳とは,保有された鏡にとっては,廃棄する場に過ぎない。」


太陽神=天照大神=鏡は形代 という概念が確定してきたのかなあと思います。
鏡ができる前は、天照大神は高天原の代表神であり、他の後の皇室メンバーからみたら、「先祖神」という意味です。


おおー、岡田先生はやっぱり天才やのー。


そうそう、頭をリセットするのに、一番コスパがいいよね、神道ってば。
世界一コスパのいい宗教www

そういえば、干支っていつ日本に入って来たか?
「干支紀年と日本

稲荷山古墳
干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)[6]とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。上述のように、日本で最初の暦がつくられたのは604年(推古12年)のことと伝わる[3]。

埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。


神武天皇のときは、入っていないのに、「古事記」や「日本書記」では、けっこう干支記述多いんだよねえ・・・。
まあ、7世紀の古事記成立時期に宮廷豪族はまあ、干支を使っていたから、それで古代もあるものだと思って設定してるんだろ(苦笑)。
いやー、どれも「ストーリー」なんですなあ。
まあ、ストーリーにすると記憶しやすいんだけどもね。

AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!