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鳴神社

ここは、和歌山に住んでいた忌部氏の神社なのだ。

でも忌部氏は、そもそも同一ルーツっていうより、持ち寄り的な一族もあるようだ。


「現在の祭神は次の3柱[1]。

速秋津彦命 (はやあきつひこのみこと) - 左殿(向かって右殿)。
速秋津姫命 (はやあきつひめのみこと) - 左殿(向かって右殿)。
天太玉命 (あめのふとだまのみこと) - 右殿(向かって左殿)。忌部氏祖神。
祭神2柱は水戸の神(港の神)である。古くは延享3年(1746年)の『南紀神社録』において、速秋津彦・速秋津姫の2神を祭神とすると見える[2]。しかしこれ以前の『南紀名勝志』には未詳とあり、江戸時代初期には祭神が未詳の状態であったと見られている[2]。

その後『紀伊続風土記』では、『延喜式』での鳴神社祭神が一座であることから速秋津彦・速秋津姫の2神祭神説を疑問視し、天太玉命を祭神とする説を掲げた[2]。この推測は当地周辺を『和名類聚抄』に見える「忌部郷」の地に比定する説に基づくもので、同記では当地に居住した忌部氏(紀伊忌部)がその祖神・天太玉命を祀ったかという[2]。加えて同記では、荒廃していた鳴神社が享保4年(1719年)に再興された際、速秋津彦・速秋津姫の2神に考定されたかという[2]。ただし、紀伊忌部は天太玉命を祖とする忌部首の一族ではなく紀国造の一族であり、彦狭知命がその祖神であると『古語拾遺』にある。また、紀国造の祖・多久豆魂命の別名である天石門別命[3]の父が天雷命という鳴神(雷神)とされ、『古屋家家譜』や『神別系譜』の大伴氏系図では天雷命に「紀伊国名草郡鳴神社(是也)」とある[4]。

天太玉命説に基づき、平成8年(1996年)に忌部氏の本拠地である天太玉命神社(奈良県橿原市忌部町)から改めて天太玉命の分霊が勧請され、本殿に合祀された[1]。」

ええー、わりと最近じゃん!!

「『紀伊名所図会』の引く社伝によれば、孝安天皇(第6代)の頃、名草郡の治水のために水門神である速秋津日古命を祀るよう託宣があり、それによって祀られたのが鳴神社の創建であるという[2]。社名「鳴」は、『紀伊続風土記』で「鳴水」「鳴滝」という谷から流れる水の意と推測されたように、川に関連した名であるとされる[5]。

一方、承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では、名草郡の郷として「忌部(いんべ)」の記載が見える[6]。これは鳴神社南方の和歌山市井辺(いんべ)付近に比定されており、一帯は紀伊の忌部氏(紀伊忌部)の本貫地であったとされる[6]。また同書において「忌部」の次に「誰戸」の記載が見えるが、これは「神戸」の誤記で、「忌部神戸」すなわち忌部神の神戸(神社付属の民戸)を意味するとされる[6]。関連して『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒では、忌部神の神戸20戸のうち紀伊国に10戸の記載が見える[6]。鳴神社には『延喜式』四時祭相嘗祭条の「酒稲50束、神税」の記載から神戸があったことが確かであることから、これらの忌部神戸は鳴神社に付属したと見られ、鳴神社は紀伊忌部の氏神として奉斎されたと考えられている[6]。またこれらの神戸は、鳴神社の鎮座する和歌山市鳴神周辺に分布したと推測される[6]。

なお『古語拾遺』では、紀伊忌部は彦狭知命の後裔であり、名草郡御木郷・麁香郷(いずれも『和名抄』なし)の2郷に居住して材木の貢納、宮殿・社殿造営を担ったと記されている[7]。」


和歌山なので、森林関係の神社が多いです。
橿原宮は忌部氏が作ったようなので、建築もうまかったのかもしれないですね。

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