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プレ皇室研究: なぜ日本の建国が紀元前660年に設定されたか?

そういえば、紀元前660年って10の倍数じゃないですか。紀元前661年とかじゃないんですのよ。
ついでに、月日が1月1日になっていて、これがまあ、胡散臭いんです。

「考古学の分野では西暦紀元前660年は、伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、平成15年(2003年)以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる[注 16]。弥生時代前期にはまだ古墳は一般的でない。

寺沢薫は卑弥呼即位を3世紀初頭と見て「列島での権力中心地の移動という意味では、新生倭国の王都は結果的にイト国から東遷したという言い方もできるかもしれない」とし、東遷の史実性には限定的ながら理解を示すが、年代は大幅に修正している[18][注 17]。」

この寺沢薫っていう人、同志社大卒の考古学者だった。
纒向学研究センターセンター長

「なぜ『日本書紀』において神武天皇の即位の年が西暦紀元前660年にあたる年に設定されたのかについて、江戸時代から様々な説が唱えられてきた。その一つに、『日本書紀』の編纂者が紀年を立てるにあたって辛酉革命説[注 18]を採用し、これを基に神武天皇の即位の年を設定したのではないかと考える説がある[注 19](詳細は辛酉#辛酉の年を参照)。」

とほほ、ほんとなんでもかんでも嘘が多いよなあ(苦笑) 「記紀」ってば。

「辛酉の年は60年に一度必ずやってくるにもかかわらず、紀元前660年という紀年が選ばれた理由についても歴史学者は様々な仮説を立てている。明治の歴史家として名高い那珂通世は、古代史上で大変革の年であった推古天皇9年(601年)から1260年遡った辛酉の年を即位紀年としたと述べた。推古9年が大変革の年であったという理由として、その著『上世年紀考』で「皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子大政ヲ取リ給ヒ、治メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ憲法ヲ定メ」と述べている。1260年というのは60年を「1元」、21元(1260年)を1蔀(ほう)として、1蔀ごとに大いに天命が改まるという讖緯家の思想によるものである[19]。


「唐での元々の名称は麟徳暦(中国語)(りんとくれき)であるが、日本においては儀鳳暦と呼ばれ、飛鳥時代から奈良時代にかけて使用された(後節)」

「定朔法の暦への導入は、劉宋の何承天、北斉の劉孝孫、隋の劉焯などが建議を行ったが採用されず、唐の戊寅元暦にいたってはじめて採用された。

「唐(とう、拼音: Táng、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。」


というわけで、めちゃ怪しいのでしたー!!

だいたいさー、紀元前660年に、鉄剣とかねーだろ。日本にはまだ。鏡もないだろー。
ぜんぜん、縄文時代の、木製品と石製品と土器しかないじゃん!!

とはいえど、このように後ろに必死でひっぱったおかげで、「ふーん、そんなど田舎国家でもないかー」と思われて中国から侵略されなかったんだから、まあ、嘘も方便っていうか、嘘が身を守ることもありますなあ。

あーあ。

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