研究発表: 皇室の先祖は伊都国の王・女王だった!!
1. はじめに
これから、IQ138(でもギフテッドではない) で年寄、元プロ漫画家(歴史ものが好き)で、脳科学者で、BIアナリストで、AI技術者、ビジネスコンサルタントの私が、私以外には、ごく数人しか知っていないかもしれない大変重大な歴史的発見を解説します。
1か月ほど前に、佐賀県で古代の墓が発見されました。しかも、神社があったところでまったく手つかずだった土地の発掘なので、1週間ほど日本中が一瞬考古学ブームにわきました。結局は、鏡も勾玉も何も出ず、朱が塗られていただけの墓で終わりました。数か月後にまた別のエリアを発掘されるということで、楽しみはまたありますが、このとき、私が「やれやれ・・・・」と思ったのは、TVや新聞社の扱いです。
「邪馬台国関係の墓か!?」とはしゃぎまくるメディアと、素直に「古代の墓」とだけ書くメディアとに分かれました。
前者は「まったく古代知識もなければ、調べる気もなく、ただ“邪馬台国”って書けば、新聞売れるかな?」という低俗メディアだと思います。後者の慎重な記述のほうが、正しいメディアの態度だと思います。なんの根拠もない推論で報道するのは、まさに世界的に日本のメディアが「報道の自由ランキング 68位」という屈辱的な発展途上国レベルの位置づけだとわかります。
日本は、少々落ち目になったとはいえど、まだGDPは世界3位、教育レベルも高く、貯蓄額なども高く、「世界最高の国ランキング」では2022年は第2位でした。
ノーベル賞の数も、低予算ではありますが、それほどひけめはありませんし、料理などもトップランクですし、スーパーコンピュータや量子コンピュータを自前技術だけで作れる数少ない国であり、たいがいのコンテストでは、世界1-10位に入って当然なのです。平均IQも世界一です。頭が賢いと、応用がききますので、科学技術以外にも、音楽の楽器演奏、ダンス、芸術など器用さが必要なところは、得意なのです。
しかし、マスコミだけが、発展途上国の頭なのです。
さて、マスコミへの小言に10行以上も無駄に使ってしまいましたが、たいがいはわりと優秀な日本であっても、一部の学問分野には闇があります。また、まじめな学者や技術者は研究に時間を割かれるあまり、成果物のPRが下手な人も多いです。
本稿では、私が半年ほどかけて温めてきた、「日本の本当のルーツ」について大変興味深い学説を披露いたします。
ちょっと考古学マニア、歴史マニアな人にとっては、あまりにも意外でびっくりされることでしょう。
しかし、私たち日本人にはすっかり忘れ去られていた重要な考古学研究があったのです。
最初に簡単に、本来は私はIT技術者なのですが、考古学とのかかわりを話したいと思います。
私は奈良県橿原市出身なので、古墳は近所にごろごろありました。隣の明日香村には、石舞台古墳など有名な古墳がたくさんありますし、亀石猿石などの不思議な石もたくさんありました。奈良県内だとよく発掘ニュースなども新聞に載ります。マニアな人は、発掘の説明会などに参加する方もいます。橿原市内だったので、橿原神宮、神武天皇陵、大和三山、飛鳥の古墳群などは大変親しいもので、幼稚園から高校まで、何度も遠足に行ったことがあります。
大学は経済学部なのですが、一般教養で往年の同志社大学の名教授である、故森浩一教授の授業を取りました。贅沢なことに、当時私はプロ漫画家にデビューしたちょうどくらいでしたので、編集さんに「新しい絵コンテ、持ってきて。見てあげるから」といわれるとそそくさと徹夜しては漫画描きにいそしみまして、そのおかげで大学の授業はよくサボっておりました。でも、森先生の授業は、一度出れば大変面白い内容でした。
また、森教授は、実家の近くの古墳を若い時に発掘されていまして、社会人になってから、様々な古墳発掘資料を読むと何度も森浩一先生の解説文などが出てきます。それを見ては、「なんだか、懐かしいなあ。もっと勉強すればよかったなあ」と思うのでした。
この写真の古代ガラスは、森教授が若いときに参加した発掘プロジェクト、新沢千塚古墳群で発掘され、国宝となった器です。金色の飾りがあって、なんと美しいことでしょう。
他にも、美しい青い古代ガラスの皿、金の指輪、金の長い耳飾り、金の飾り板などなど、美しいものが出土していて、多くは国宝として、東京国立博物館に展示されています。ぜひ、博物館でご覧になってください。
2.九州は邪馬台国ではない
それと私は歴史本が好きなので、漫画雑誌に何本か歴史漫画を掲載していただきました。出版社からいただいた原稿料でまた本を買うという20代を送っておりました。
さて、私が60歳を過ぎて考古学に興味をもったのは、実は邪馬台国四国説というのがあるということを聞いたのがきっかけです。知人に徳島出身の人がいて、「徳島には古代の水銀発掘遺跡がある」というのです。しかもそれが邪馬台国で、人々が顔や体に好きなだけ塗っていた朱であると知人がいうのです。
「えー、邪馬台国って九州→畿内東遷説でしょー」と私は思っていたのですが、次々と「え?四国のほうがあきらかに、九州説、畿内説よりずっと優位で合理的かつ科学的に正しいじゃないか」というのが、考古学の専門書を読むたびにわかってきたのです。
実は、考古学関係者はすでに承知なのですが、九州説VS畿内説というのは、学閥の争いであって、本来の学問の科学的論理的適切さとは何も関係なかったのです。
だから、いつまでたっても「九州説だと距離の問題が解けない」「畿内説だって、方角がおかしいじゃないか」とずーっとゆがんだ我田引水そのものの論争をやっていたのです。ある意味、必死で自分の学派に屁理屈で理論を引っ張ってきていただけだったのです。
世の中、アカデミック分野であっても、研究ジャンルによっては一攫千金のジャンルがあります。たとえば、エネルギー系、IT系、医薬品などはすごい発明があると、その研究者には10年20年で特許権の分配で何億円も収入が入ったり、いきなり研究所所長やCTOに出世したりします。
しかし、考古学はそういう産業はあまりなく、教育か観光くらいです。多くは、大学の研究予算をもらってくるだけで、発表した本が多少売れても、印税が数百万円入るとか、セミナーの講師料金が1回5万円が、20万円になる程度でしょう。あまり儲からないジャンルです。そのため、考古学関係の研究者は、発掘予算確保のために、あくせくするので、「邪馬台国研究」のテーマで研究していたら、ずーっと「私が発掘したXXXの遺跡は、たぶん邪馬台国の一部です」的な言い訳を言い続けないと、予算を確保できない学者もいるのです。
これでは、いつまでたっても邪馬台国は出てきません。
(もちろん、良心的な考古学者であれば、「邪馬台国の遺跡」などとはいわず、「3世紀の重要な遺跡」などと説明するはずです。ちなみに、卑弥呼は、247年に亡くなっています。病死か、あるいは日食のせいで殺されたといった説もあります。)
さて、2年ほど調べた結果、学閥には何の関係もない私が検討した結果は、私の結論は、大杉博氏の「四国山上説」が一番近いと思いました。本稿は、邪馬台国の話をしたいわけではないので、短く結論を書きます。
(1) 産業分析でいうと四国が第一優先。邪馬台国が魏に貢物で贈ったものは、当時の古代技術で比較的容易に集められるのは、四国だけだからです。3説について、比較図を作ってみました。〇が全部つくのは、四国だけです。
九州説は、朱(水銀)が当時の技術では、採掘しにくかったのです。一方、徳島県には有名な水銀遺跡があります。畿内は大和水銀がありました。
(2) 邪馬台国には地理的条件があるのですが、これも九州説、畿内説、四国説を比較してみると、九州説、畿内説は撃沈してしまいます。
特に決定打になるカササギについて説明すると、カササギは朝鮮半島や中国に多く生息しており、九州や対馬あたりだと飛んでくることも多いのです。現在では、日本でのカササギの生息地としては、佐賀平野にいるとあります。佐賀県HPから生息図を引用します。
しかし、近畿地方や四国地方にまでは、カササギは住んでいません。
また、「魏志倭人伝」の描写だと、「裸足でいる」「生野菜をよく食べる」など、邪馬台国の風習は、まさに温暖地の生活です。
畿内は、盆地で冬はけっこう寒く、(当時と今と多少平均気温は違うでしょうが)とても裸足では住めません。気候からいうと、邪馬台国はいかにも、九州または四国のような温暖地なのです。これで、畿内は問題外となります。
(3) 距離の問題は、四国説の学者が解決しています。また、私も独自案がありますが、これは所属の学会に発表したいので、ここでの記載はやめておきます。
(4) 次に私の得意な生物学理論であるミームから、邪馬台国がどんな民族かというとおそらく縄文系でしょう。名前を存じ上げないのですが、京大の若い教授なども同意見らしいので、そう思います。一方、皇室は渡来系です。これについては、下に解説します。
※ ミームとは、英国の生物学者ドーキンス先生が提唱した生物学的な文化、風習などを言います。特に民族は遺伝子が近く、一族での情報共有もありますので、「ある猿は海水で芋を洗うとおいしいことを知っている」などもミームですし、「中東では豚は飼わない、家畜にしない」といったのもミームです。
邪馬台国・・・縄文系。もともと日本にいて、海洋民族のスキルがある。養蚕技術を持っている。馬はいないから、乗れないし、騎馬文化はない。鉄、造酒、和弓の技術はある。男子は全員が刺青をしている。いかにも縄文文化である。
大和朝廷・・・弥生系。途中で日本に入って来た。騎馬技術は持っている。馬に乗る。絹よりも麻を作るのが得意(忌部氏の仕事である)。のちに養蚕技術も習得した。刺青はめったにせず、武人の一部のみであり、貴人ほど刺青はしない。
さて、この刺青については少し深く解説します。刺青は、世界では海洋民族がよくやる風習です。なぜなら、海に入ったときに、ウミヘビやサメに襲われにくいのです。また、もし海難事故があって顔が岩にぶつかってつぶれても、体に特徴のある刺青をしていたら、遺体が誰かわかるのです。
このため、大和朝廷でも兵士、武人だけは刺青をしているケースがあります。
それに中国大陸の影響のある地域では、刺青は「刑罰の一種」であって、犯罪者の印なのです。そんなものを大和朝廷の貴族豪族がするはずはありません。
しかし、そんなことに興味がない邪馬台国の人々は、おそらく海洋民族・また縄文人の習慣で刺青をしていたのでしょう。
(5) 四国説を否定する人の質問についても、回答があります。
(A) 四国には平野が少なく、邪馬台国のような大国の人口をまかなえるほどの農地が少なくて無理。
→ 四国には昔から山の途中に農耕地を作っていて、山の高さにあわせて気温が向き不向きの作物を作っている。また段々畑、棚田のようなものもあるし、もし水田の場合はため池もある。他には、忌部文化研究所のサイトでも、この傾斜地農業について詳しい解説があります。山の斜面から土砂が流れない工夫などが素晴らしいのと、山の高さ、温度差などを利用して植える植物を変えているところなど、大変すばらしいです。ご興味のある方はぜひご覧ください。
剣山系の農文化(世界農業遺産・日本農業遺産)
(B) なぜ、邪馬台国には牛や馬がいなかったの?
→ これは大杉 博先生が四国説を取っておられるのですが、面白いことを言われています。かいつまんで、回答すると、四国邪馬台国説の場合、山上集落に邪馬台国人は住んだり、卑弥呼の宮殿があったりしたので、山にはため池があって、そこの水を牛や馬に汚されたくなかったからだそうです。
多くの方がご承知のように、四国は日照りが多く、雨が少ないです。そのため、昔からため池をたくさん掘っていました。実は奈良県もけっこうそうでして、私が子供のときは、ため池がけっこうありました。今はちょっと減っているかもしれませんが・・・。
興味深い話なので、ぜひ一読されるとよいと思います。
「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」 大杉 博著 たま出版
(C) 四国説を否定する方がよくいうのは、「瀬戸内海は航海が難しいぞ」というのと、「瀬戸内海には海賊がいたから、そんな危険な場所を通らないぞ」という点です。
→ 現代の船でも、瀬戸内海はたしかに航海技術が難しいそうです。養成に2-3年くらいかかるのだそうです。難しい点は、「潮流、船舶の数、島、瀬が難しい」のと、「昼と夜で差があるので、難しい」のだそうです。
ですが、潮流と島や瀬などが難しいのはわかりますが、古代にあんな広い瀬戸内海で、中くらいのサイズの葦船か丸木舟で航行するのですが、現代の大型船みたいに船底にぶつかったりしないでしょう。それに、いまみたいに電気だってないですから、夜航行するとはちょっと思えません。急ぎのときは月明りで航行したかもしれませんが・・・。一番近い陸地にしばらくいて、夜は停泊し、昼の間だけ陸や島が見える範囲でそろそろと進むのだと思います。
そもそも、縄文人は1万年以上前にユーラシア大陸から日本に来ました。北から入った人もいますが、南部は台湾、沖縄伝いに黒潮に乗って九州や四国たどり着きました。それほどの航海技術を持っている海の民族、縄文人に、瀬戸内海が海流が難しくても、たくさんの島があるのですから、やばいなと思えば、島に逃げ込んで、潮がよくなるのを待てばいいのです。
「古代の縄文人流航海技術を馬鹿にするな!」と言いたいです。
それから、弥生時代に日本の人口は、1キロ平米あたり、弥生時代は1.6人しかいません。
一方現代ですと326人ですから、1キロ四方内にこれだけいたら、挨拶できる程度にはうようよ人がいますね。
こんな人口密度で、他人の財産を奪う仕事、海賊が成り立つでしょうか? しかも、相手は一応、1つの国の使者ですから、当然警備の兵士みたいな人もついているでしょう。こういった使者一行のスケジュールをびっしりわかっていて、どこかで待ち受けて、荷物を奪うのは、海賊とはいわず、むしろ反乱軍のようなものです。当時、卑弥呼が即位して平和になったのに、相手の敵国や卑弥呼を憎いと思っている反乱軍みたいなのがあれば、中国の書物に残りそうなものです。
たとえば、古代エジプトで黄金のマスクで有名なツタンカーメンが死んで、妻の王妃がヒッタイト王国に「再婚してエジプト王に迎えますから、王子をお婿さんに送ってください」と手紙を書いたのですが、途中でヒッタイトの王子一行は襲われて到着できませんでした。襲撃されていたら、なんとなく記録に残るかなと思います。
邪馬台国の風習では、「船に災難があれば殺される」とあります。海賊になって、船が転覆したりして船を紛失し、生き延びても、邪馬台国のルールだと殺されるわけです。船大工道具も古代のもので、今のように電動道具で作れませんから、船はとても大切なのです。それなら、海賊のような乱暴な行為をするには、命をかけるリスクがあるのですから、利益としてみあいません。
そして、もう1つ思い出していただきたいのは、日本で海賊というと「まつらわぬ人々」ということで、はっきりいって自分たちで好きに住んでいたのに、中央集権制になって大和朝廷に迫害された人々です。土蜘蛛のように土地や朱の権益を奪われた先住民の縄文人なのです。こういう人は逃れて、海賊になり、恨みで大和朝廷を襲って「ざまあみろ」と思うことがあると思います。
しかし、邪馬台国の時代に、仮に神武天皇が畿内に住んでいたとしても、大和朝廷はまだまだ力が弱く(安定しだすのは、天智天皇や天武天皇になってやっとでしょう)、畿内にいる本隊でもしょぼしょぼだったり、他の豪族のほうが力が強かったり、「まあまあ」といいながら、うまいこと懐柔しながら、なんとかやっていた大和朝廷、皇室なのです。大和朝廷が四国に支店があったとしても、より強いだろう邪馬台国の一軍を襲って、なにか荷物を奪えるとは思えません。
それにすでに解説したように、縄文人そのものが邪馬台国ですから、そんな「海賊になって恨みをはらしてやる」必要もないですし、邪馬台国の様子からみて「はい、普通に魚貝を取っているほうが十分食べていけます。稲も作ってました。普通に暖かいのでがんばれば、ちゃんと食べていけます。わざわざ、卑弥呼女王の使者たちを襲って、宝物を横取りしても、あとで一族皆殺しですから、犯罪するのにまったくペイしません」と思うことでしょう。
多少貧しくても、そこそこ幸せにやっていた縄文人には、そういった丸木舟が戦闘で転覆するような危険を冒して、またあとで邪馬台国の治安兵士たちに惨殺されるほどのリスクをおかすとは思えないのです。
古代を考えるときに、現代であるとか、せいぜいが江戸時代的なセンスを持ち込むのはおかしいと思うのです。
そもそも、貧富の差とは大きな倉庫に米などの食料をたっぷり貯蓄できる人、場所的においしい不動産を持っていてそれを効果的に使えるほどの社会インフラがあるときに発生します。
日本史史上、もっとも「平等で、働けばおいしい魚、貝、果物などが手に入って、みんな幸せだった」という縄文人の頭脳を考えると、「海賊」というヤバい行為をしたくなるとは思えないのです。
古代にそれほど「土地=不動産」という概念はないでしょう。家と畑はまあ、自分のものを思っているかもしれませんが、平安時代でも新田開発していたのですから、ちょっと町からはずれたところの土地を開拓して、自分たちの畑にするだけなので、「不動産で貧富差がすごい」ということもないでしょう。
それに人口密度でも説明したように、相手の船をすっかすかの海上で待っていても、10日や20日、船が通りませんよね。10日も待っているなら、釣り竿で魚を釣る、潜って魚を捕まえる、砂浜や浅瀬でカニや魚、タコ、エビ、貝などを捕まえるほうが、めちゃくちゃ楽です。海賊みたいに、「なんか、いっぱい持ってそうな船が来たから襲おう」と思っていたら、何十日後に船と遭遇するかわからないのです。その間に、飢え死にしてしまうでしょう。
(6) よく間違いやすい女性と卑弥呼の対比についても、表にまとめました。結果として、卑弥呼はあくまで卑弥呼で、中高年女性で独身で子供がいないまま亡くなった太陽神を祭る巫女、シャーマンです。親族には弟と、その弟の娘であろう台与(あるいはイト)がいます。
結婚している皇室一族である、天照大神や神功皇后とは立場や特徴がまったく違うのです。それに、年代も100年以上違いますから、同時代ではありえません。
天照大神の場合は、「それ、役職名だから、2代3代いたんだ」という理屈はありえるでしょうが、神功皇后はただ1人です。息子の天皇がいますから、年が過ぎたら、隠居します。息子の天皇即位をさせるのが、母親の務めでしょう。
他に名前の知られていない太陽神の巫女などというのは、日本列島に何百人もいたでしょう。なにせ、稲作・農業に太陽はとても大切ですから、「太陽に祈ろう」といった信仰はいくらでもあったのです。
単純に、「女性」「太陽信仰」というだけで、3人はまったく立場も属性、家族も違うし、決定的に違うのは、生きていた年代も違います。
ですので、「神功皇后が卑弥呼だ」という人はまったく時代感覚の計算ができない人々なのです。
そして決定的に違うのは、民族性でして、皇室一門は渡来系です。中国大陸から来た人々の子孫です。しかし、特殊な伝承で卑弥呼が大陸から来たという話はあるものの、縄文人である可能性が大きいです。
それに「当人が神様」というのと、「太陽信仰の巫女」というのでは、立場がまったく違います。
そして、巫女は多くは、神様に嫁いでいるようなものなので、夫をもつことはありません。巫女をやめてから、人間の男性と結婚することがあったり、巫女になる前に結婚していることはあるかもしれないのですが、通常「神様最優先」生活ですから、人間の夫がいると気が散るのです。
(7) 卑弥呼の墓はまだみつかっていません。円墳または方墳で100m前後くらいの大きさで、周囲に殉死者の人骨がある古い古墳はみつかっていません。前方後円墳は、邪馬台国の文化ではなくて、皇室のスタイルですから、前方後円墳と書いてあったら、無視でいいです。
それに正直いって、奈良県や一部九州だと遺跡が発見されたら、「まずは発掘調査だ」と遺跡保護活動を行うものですが、地方によっては、遺跡が出てきても「あー、工事の邪魔だから黙ってる」ということで、工事優先で、墓があっても破壊されているかもしれないのです。もし、邪馬台国が四国だとするとあまりにびっくりで、こっそり工事優先で卑弥呼の墓はとっくの昔に破壊されているかもしれません。
3.では邪馬台国に間違われやすい九州と畿内の遺跡は誰のもの?
これは、次のことが予想されます。
(A) 九州・・・隼人族など、もともとずっといた縄文系民族のクニ。または、天皇家の先祖たちが作ったクニ。天皇家以外の渡来人たちが作ったクニ。複数国家でしょう。
(B) 畿内・・・出雲一族(縄文系)の畿内支社。天皇家の先祖の一部で先行的に畿内に入って来た一族(ニギハヤヒの一族です)。もともと畿内に住んでいた縄文人の一族のクニ。天皇家以外の渡来人のクニ(たとえば、奈良県にずっと住んでいた豪族などの先祖です。ニギハヤヒを応援していたナガスネヒコの一族が特にそうです)。
一応、いくつかの遺跡について目立つ副葬品について解説します。
1つめは、畿内で有名な纏向遺跡と箸墓遺跡について、ちょっと興味深い副葬品をご紹介します。
時代がだいたい一緒なのですが、纏向遺跡からは面白い巾着のような絹製品が出ています。それまで「畿内では絹製品があまり出てこない」といわれていたのですが、巾着のような袋の絹製品が出土しました。中身は空けることができませんので、わかりません。金印でも出てきたら、面白いのですが・・・。写真を下記Webページより引用します。
さらに同じ纏向古墳からは、木製鐙が出ていて、使用した跡があるようです。これは、時代は西暦では300年くらいなので、邪馬台国では台与の治世と同時期です。
「邪馬台国に馬はいない」という「魏志倭人伝」の記述からみて、「畿内でいちばんの邪馬台国の都候補、纏向地区」は、邪馬台国比定地からはこれで脱落しました。
もう1つは箸墓古墳からも馬具の一部が出ています。まあ、100年も200年もたってから、箸墓古墳近くに捨てられたのかもしれないですが、箸墓古墳ができた直後だと、これも「邪馬台国に馬はいない」に該当して、比定地としては脱落です。
九州は、中国大陸から見たら一番近い場所なので、いろんな国の人が上陸して、そのまま定住しやすい場所です。温かいので、冬死ぬこともないし、平野もわりとあるので、農作業もしやすいです。
それは縄文人一族にとっても同じで、長らく縄文人が幸せに暮らしていた土地でしょう。九州に縄文人がいたのは、おそらく吉野ケ里遺跡の人々が、縄文人のクニだからだと思います。
刺青の風習について、縄文人の風習だと解説しましたが、もう1つ、縄文人には風習がありまして、お墓などに線刻をつけるケースが多いということです。
実は先日の佐賀県吉野ケ里遺跡の新しい墓の石の蓋にも、×印だらけだったのです。読売新聞より、写真を引用します。
この習慣は、実は縄文人特有の風習でして、他の地域でもみつかります。
吉野ケ里遺跡の墓の主は、縄文人だったことになるでしょう。その意味では、「邪馬台国の人々」と共通点があります。しかし、縄文人は日本では、沖縄から北海道まで日本全国津々浦々に住んでいて、そもそも渡来人が来なかった時代では、100%縄文人だったわけです。
九州と畿内について、いろんな種族が入ってくるイメージ図を書いてみました。
最初は純粋縄文人だけですが、何度も渡来人がいろんな地域から入って来たのです。渡来人といっても、中国北部、中国南部、朝鮮半島、台湾、中国の奥地、他に東南アジアなどなどです。奈良時代には、シルクロードの終着点ですから、ペルシアからも来ているし、最初に紹介したローマングラスっぽいものまで、来ています。また、中国の奥地、今でいうとロシア近くや楼蘭王国あたりからも、入って来たのでしょう。
それから、これは四国で邪馬台国に近い時代の古墳から出た絹の遺物です。別名一本松古墳の発掘資料より引用します。
絹の痕跡が認められており、ヤリガンナに巻き付けてあったということです。
邪馬台国と他のクニについては、別の機会に詳しく語りたいと思いますが、本稿では、もっと大切な話をしたいと思います。
4.本論に入ります。九州の伊都国を治めていたのは、天皇家の先祖でした。
これが本稿でいちばん大切なことです。
えー!! とびっくりされると思います。
伊都国というと、邪馬台国の途中に出てくる、正直多くの人には、「ああ、途中の小さい属国のことね」という国なのです。
比定地は、福岡県糸島市周辺となります。
これはよく邪馬台国への行程図として説明されるものです。
たとえば、ちょっとたとえがよろしくないかもしれないのですが、大阪から東京を目指していたら、静岡県をすっ飛ばしてしまった・・・というかんじでしょうか?
さて、私が平原遺跡(ひらばるいせき)に出会ったのは、卑弥呼の墓を探そうと思っていた時でした。四国、九州、瀬戸内海周辺(山陽や山陰地方)、畿内などで、どんどこ円墳または方墳を探していたのです。
いまどきは、インターネット上に遺跡データベースなどもありますので、とにかく円墳や方墳で、3世紀の墓を探すのです。サイズもだいたい100m前後のものを狙いました。→ 30mくらいの間違いでした。
残念ながら、ちょうどいい古墳はみつからず、近くに殉死者がみつかった墓もありませんでした。
ですが、四角い方墳に近く、女性が眠る古墳ということで、平原遺跡というのを知ったのです。しかも、この古墳、なんと発掘責任者の原田大六先生が、「この墓は、玉依姫命であり、つまりは大日孁貴である」と推測されていたのです。大日孁貴というのは、天照大神の別名です。つまり太陽の女神を意味しています。
原田先生は、大学を出ていない九州糸島市出身の在野の考古学者です。大変苦労されていますが、多くの考古学研究を残されています。考古学は、九州帝国大学教授だった中山平次郎博士に習われたそうです。家が近く、毎日のように先生のもとに通われていたそうです。
お二人の師弟関係については、非常に泣かせるエピソードがありますので、こちらの本を読めるようでしたら、ぜひ読んでください。
糸島市役所が平原遺跡の動画を出しているので、ぜひご覧ください。
では、この平原遺跡について特徴をリストアップしてみましょう。
時代: 弥生時代後期から晩期。西暦だと0-250年くらいまでのどこか。
古墳の特徴: 5つの墳丘墓がある。うち1号墓は大変重要で、女王らしい被葬者を想定されている。曽根遺跡群の一つ。現状は公園として1号墓が復元保存されている。
墓の形状: 1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺。
場所: 福岡県糸島市有田。
発掘時期: 1965年発見、1988年から1999年にかけて発掘。メインは原田大六先生。
出土品: 1号墓
大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片 (耳璫とは、古代中国の漢の時代の女性専用の装身具)
素環頭大刀 1
太陽信仰の印がある。
なお、これらは国宝として、伊都国歴史博物館に展示されています。
この副葬品が驚きなのは、大型内行花文鏡が国産であること、非常に大きいことと、このデザインが皇室の三種の神器である、八咫鏡と類似デザインだということなのです。
また、勾玉が3個ありますし、大刀も1本出ていますが、これで三種の神器が揃ったことになります。
この三種の神器について、被葬者について原田大六先生は「玉依姫命であり、つまりは大日孁貴」と推論されているのですが、玉依姫とはどういう立場でしょうか。
皇室の神武天皇以前の家系図を見てみましょう。
玉依姫命とは、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)の王妃だったのです。神武天皇から見れば、母親になります。また、彼女は、実は甥叔母結婚でして、姉は豊玉姫になります。この姉妹は海神の娘ということで、「古事記」や「日本書紀」に出てきますが、海神とは要するに航海術や漁業を生業にする海洋民族の娘ということなのです。つまり、神武天皇の子孫である皇室から見たら、神武天皇の直系の親なのです。また、天照大神から見れば、一族の正式な嫁ということになります。皇室の本家中の本家の嫁、王妃、女王ということになるのです。
古代において、こういった名門であり、祭祀者のトップは、家業のようなものとして継続されなければなりません。
さらにこの平原遺跡には、特別な史跡がありました。Wikipediaから引用して解説します。
「1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告していた。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。
墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている。」
この柱の穴から建物があり、それが日向峠という方を向くようにして、太陽信仰と関係あるということです。
多くの世界の太陽信仰は、ギリシアローマ、古代エジプトをはじめとして、多くの国で自然崇拝であり、農耕民族にとっては太陽は大変重要で信仰の対象だったのです。
当然、日本でも縄文時代の終わり頃には、稲作を始めていたのですから、太陽や雨、天候はとても重要であり、困ったときには太陽に祈っていたのです。
実は、最近知ったのですが、原田大六先生には弟子がおられて、井手将雪先生といいます。まだ、読んでいませんが、最近「日本は太陽の国(一) 伊都国は日本最初の【伊の都】」という本を出版されました。井手先生は、もう90歳らしいです。お元気なうちに、いろんなことを教えていただければいいと思います。残念ながら、この本は昨日みつけて、昨日注文したので、まだ私は読んでいませんが、この平原遺跡についてもっと詳しいことを書いてあると思います。→読みました。邪馬台国関連以外は、素晴らしい内容です。
では、この平原遺跡がある糸島市というのは、どういう場所かというと、上で説明した伊都国だったのです。
伊都国について、「魏志倭人伝」に一部の情報が書かれています。Wikipediaから引用してみましょう。
「『魏志倭人伝』には、「東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐」(「三国志魏書、巻三十、東夷伝、倭人(略称、魏志倭人伝)」)と記されている。
原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ、せもこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ、へくこ)という。1000余戸の家がある。代々の王が居た。みな女王国に従属している。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、足を止める所である。」となる。
『魏略』には「東南五百里 到伊都國。戸万余。置官曰爾支 副曰洩渓・柄渠。其國王皆属女王也」と記されている。
原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ500里行くと、伊都國に到る。1000余戸の家がある。そこ置かれた長官を爾支(にき、じき)といい、副官は洩渓(せつけい)・柄渠(ひょうご、へいきょ、へく)という。その国の王は皆女王に属する」となる。
『魏志倭人伝』、『魏略』の中で『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていない。」
邪馬台国の時代には、女王国の属国であり、1000戸ほどの家があったとあります。もし1件に10人ずつなら、1万人ほどの人口ですし、5人平均なら5千人ほどです。人口が圧倒的に少ない古代においては、わりと大きい「中堅国」くらいでしょう。今の会社にしても、従業員5千人になるのは、なかなか大変です。たとえば、ソフトバンクの孫氏や楽天の三木谷氏などは一代で、1万人以上の従業員にしましたが、古代では人の寿命は30年ちょっとですし、病院もありませんし、まして自動車も電車もありませんし、家を建てるのも大変です。千戸くらいに人口が増えるのは、けっこう大変だったでしょう。
また、邪馬台国以外では、伊都国と狗奴国が王や女王がいたとあります。
神武天皇が九州から、畿内に移転したのですが、それ以前にも当然、皇室の先祖がいるわけです。この皇室の先祖について、私は「プレ皇室」と呼んでいます。「天皇」になる前の話なので、「皇室」というのも変ですので、プレ皇室と呼びました。
このプレ皇室には、一種の派閥がありまして、また、何代もありますから、何百年かの間に、本拠地を移転しています。また、渡来民ですので、もともといた縄文人の一族とも、軋轢があったかもしれないですし、九州にいたので、火山や台風などの被害も多かったと思います。
その結果、「もっと安定的な土地に住みたい」ということで、神武天皇は大和盆地に一族を連れていったのですが、大和盆地は台風の発生の多い九州ほど台風被害も多くありませんし、活火山も近くにないので、火山灰などの心配もありません。住んでいたのでわかりますが、盆地のせいで朝晩の温度差がある程度で、地震、津波、火山といった大災害が非常に少ないのです。古代の王国から見たら、「災害が少ないだけでもいいぞー」と思うのは当然だと思います。
さて、プレ皇室、神武天皇以前の天皇家の先祖について、話を戻します。
平原遺跡の女王が、玉依姫であり、天照大神の後継者女王であることは説明しました。
そして、平原遺跡は、三種の神器がでており、古いタイプの古墳で、太陽崇拝の施設もあり、まさに天照大神の一族そのものでしょう。
そして、この場所は伊都国であって、伊都国の女王だったのです。
これで、つながったように、「魏志倭人伝」で邪馬台国の属国、途中の行程にある、通り過ぎてもいいようなと邪馬台国研究者が思うだろう国、伊都国が実は、皇室の先祖が治めていた国だなんて、「灯台下暗し」もいいところです。
さて、この伊都国と糸島市ですが、面白いことにこれらの周辺では、「三種の神器」が発掘されているのです。
では、参考に「三種の神器」が出てきた遺跡を紹介してみましょう。
吉武高木遺跡
2つの甕棺が出ていて、片方を王、もう片方が王妃のものといわれています。
1号甕棺
甕棺外部
銅剣 1
銅戈 1
朱入小壺 1
甕棺内部
銅矛 2
銅鏡(前漢鏡) 31面以上
ガラス璧(瑠璃璧)破片 8個以上
ガラス勾玉 3個
ガラス管玉 60個以上
金銅製四葉飾金具 8個以上
※銅鏡は27.3センチメートルから16.0センチメートルの物で『連弧文銘帯鏡』が 26面以上と大半を占める。
2号甕棺
銅鏡(前漢鏡) 22面以上
ガラス垂飾(瑠璃璧の破片の再利用品?) 1
勾玉 13個(硬玉製 1、ガラス製 12)
※銅鏡は11.4センチメートルから6.0センチメートルの小型鏡で、『連弧文「日光」銘鏡』が 16面以上と大半を占める。」
重要な点は私のほうで太字にしましたが、銅製ですが、1号甕棺には、ずばり三種の神器がみつかったのです。しかも、金銅製四葉飾金具というのは、中国では王様の飾りなのだそうです。1号甕棺は、まさに中国風に見ても「王様」にふさわしいものだったのです。村長レベルではないということですね。ガラス璧というのも、中国の皇帝が非常に重要な相手にだけ送るもので、金印よりハイレベルらしいです。「完璧」の璧です。
2号甕棺は女性のものらしく、剣はありませんが、鏡と勾玉が出ています。
須玖岡本遺跡
福岡県春日市岡本。弥生時代中期から後期の大規模遺跡群。
1899年(明治32年)に発見されて発掘されたため、各種保存や記録状態があまりよくない。
銅剣 2
銅矛 4
銅戈 1
銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
ガラス璧(瑠璃壁)2個片以上
ガラス勾玉
ガラス管玉
このように、やはりここでも三種の神器がでています。璧も出ています。
ここは福岡県であるが、糸島市の近くで、奴国の男王の墓ではないかと思われています。
「三種の神器」といっても、銅製で古いものなので、必ずしも皇室の先祖の専売特許というものでもなかったようです。
とはいえ、だいたい古いものは九州北部から発掘されているようでして、福岡県、佐賀県などです。南九州の習慣ではないですね。
皇室は、この九州北部の文化を持っていて、ずーっと現代まで「三種の神器」文化を守り続けています。
5.三種の神器 参考情報
今でこそ、はっきりした神秘の皇室の宝、日本の宝、「三種の神器」ですが、もともとは中国由来では、「二種の神器」だったのです。あるいは、「剣、鏡、璧」の組み合わせでした。日本の三種の神器とは種類が違っていて、勾玉は日本固有のデザインです。
剣と鏡が重要人物である王・女王の宝物であり、権威付けであったのです。
勾玉は日本特有のデザインでして、縄文時代からあったそうです。いまのように知られるすべすべした丸い形になる前は、ぎざぎざした形もあったらしく、それは古いデザインらしいです。
この日本固有デザインの勾玉が組み入られて、3点セットとなり、「三種の神器」構成になったのです。
6.原田大六先生について
ここで福岡県が誇る在野の天才考古学者 原田大六先生について、Wikipediaより経歴などをご紹介します。非常に苦労されており、気骨な人だったようです。
「福岡県糸島郡前原町(現糸島市)に測量士の父・猪之助、母・ユクの長男として生まれ、大正6年の生まれから「大六」の名を与えられる。福岡県立糸島中学校(現在の福岡県立糸島高等学校)在学中に安河内隆教諭の薫陶を受け、考古学に傾倒。糸島郡内の遺跡を踏査。採集した土器や石器が、現在の糸島高等学校博物館の基礎となる。しかし考古学に傾倒したために成績は低く、中学卒業後に上京して津上製作所に就職。計測器の研摩工に就いたが、召集され、中国大陸各地を転戦。武昌で終戦を迎え、1946年に復員。故郷に戻り中学校の代用教員をしていたが、大陸で憲兵だった経歴が仇となり、公職追放で失職。
その後、突如として「おれは考古学をやる」と親族に宣言。林子平の六無斎に因んで、土地・家・金・学歴・資料・書物・妻・職を持たない八無斎を名乗る。翌1947年春から、福岡市荒戸に居を構えていた中山平次郎博士に師事。以来、板の間で正座したまま、一日6時間以上のマンツーマンの講義が9年近く続く。その後、地域の発掘・調査を通じて、皇室の故郷は、自分の郷土であると確信を持つに至る。」
「当時、邪馬台国近畿説に関連して小林行雄が唱えた「銅矛銅剣文化論」を、その他の青銅器や、鉄器が「故意に」除外されており、古墳時代に副葬が盛んとなるはずの銅鏡や鉄剣が意図的に除外された「隠蔽の誤謬」として批判し、弥生後半の墳丘墓と古墳の間にみられる共通性から、古墳の起源を追うことを提唱。さらに、小林が主張していた銅鏡の手づれ(摩滅)による「伝世鏡論」も、研磨工としての経験から否定し、鋳造時の不完全さからなる「湯冷え」(鋳型に金属が完全に回る前に固まってしまう事)であると敢然と主張した。1950年に初の著作となる「日本国家の起源 -古墳文化形成過程の研究-」としてまとめた。」
「1965年、前原町有田で平原遺跡を発掘調査。2世紀後半とした1号墓は、割竹形木棺や墳丘を持つ弥生時代末期の「弥生古墳」であった。37面にも及ぶ銅鏡の出土に加え、銅鏡・鉄製素環頭大刀・勾玉という三種の神器を彷彿とさせる副葬品、八咫鏡と平原遺跡出土鏡の近似性から、古墳との共通性を推測。さらに、墳丘墓付近にあった2つ一組の穴を鳥居と推定し、2組の鳥居がそれぞれ日向国に通じる名のある日向(ひなた)峠と高祖山に向いていることから、被葬者を太陽に関わる神事を行っていた人物とした。そして、記紀の神代の記述は北部九州で起きた史実を記録したものであり、平原遺跡の被葬者を玉依姫、つまり大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神であると推量した。原田は、翌1966年に出版した著作『実在した神話』で、これらの持論を展開。終戦後、皇国史観の反動で唯物史観が学会の主流を占め、記紀の内容は架空の絵空事だとされていた学会に衝撃を与えた。」
あんな昔に、気骨ある学問を貫かれてすごいことです。
昔は「皇室はアンタッチャブル」だったので、皇室に関する発掘などはやりにくかったと思います。
7.まとめ
さて、私が名付けたプレ皇室研究の大きな秘密ですが、皇室の先祖は、実は伊都国の王・女王だったということです。
なんと、「灯台下暗し」なのでしょう。
3世紀の邪馬台国時代には、邪馬台国の一種の属国扱いだったのです。
だからこそ、私は「古事記」にも「日本書紀」にも、皇室の歴史の話題に、邪馬台国がさっぱり出てこないのは、こういうことかなと思います。
「自分たちの先祖が、邪馬台国の属国の王・女王だったなんて、なんだか、恥ずかしいから、「古事記」や「日本書記」に真実を書くのはやめておこう!」
ということかなあと思います。
なにしろ、「古事記」や「日本書紀」を編纂させた時代は、やっと日本が天皇のもとに体制が固まりかけた時代なのです。それまでは油断をすると、ちょこちょこと反乱が起きていたのです。
そして、もう1つ、プレ皇室として、神武天皇以前の皇室が、誰と誰で、主にどこにいたのかをちょっと1枚の絵に整理してみました。
ちなみに国津神は、歴史的には「縄文人」に当たります。
海の神と山の神、二代縄文人有力者が、イザナギイザナミの子供になっているのは、おそらくは嘘でしょう。
家系図をごまかすのは、実はもう少し後の奈良時代や平安時代、戦国時代でもよくやられていました。先祖をこっそり有力者の子孫に組むこんで系図を作ってしまうのです。
この場合、おそらく高天原の皇室の先祖が、地元有力民の縄文人の権力者をうまく、「私たちの親族だからね」と組み込んで懐柔したのでしょう。
皇室の先祖は、海の向こう、朝鮮半島から沼島に到着したのでしょう。そして瀬戸内海をちょうどいい移住地を探していったのです。
玉造り、鏡造り、参謀など技術者や有識者を一族と仲間たちに連れてきたのでしょう。途中で、また大陸に住んでいた一族の残りの人も、呼び寄せたりしたのかもしれません。
そして、居場所をはっきりさせないために、「高天原」と名付けてぼかしました。実際は、一番住みやすいところを、ある程度、先住民の縄文人とうまくやり過ごしたり、小競り合いをしたりして、いったん九州の糸島に住み着いたのかなと思います。
中国大陸にいたときは、「姫氏」あるいは「阿毎氏」という姓があったらしいのですが、それも捨てて「姓なし」になりました。
(※ DNAからみて、Qタイプの姫氏ではありませんでした。)
時には、縄文人の有力者の娘と結婚しました。それが、たとえば、国津神の娘の木花之佐久夜毘売だったり、玉依姫だったりしたのです。
うまく現地と融合、混血しながら、皇室の先祖はいったん伊都国の王・王妃にまで上り詰めたのでしょう。
(もしかしたら、末盧国にあたる佐賀県唐津市にも住んでいたかもしれません。)
そして、邪馬台国の卑弥呼が女王になる前、西暦なら170年あたりには、畿内に向かって移住していったのかなと思います。皇室の先祖である、主要な王族が糸島市周辺にはいなくなったので、邪馬台国の属国になったのかもしれません。
しかし、邪馬台国も100年も経たないうちに、弱体化して歴史から消えていきます。
そして入って来たのは、神武天皇が建てた大和朝廷で、畿内からどんどん瀬戸内山陽地方山陰地方、四国、九州、関東、東北と数百年かけて、「日本」を統一していくのです。実は、九州に戻るのは、ある意味、故郷への凱旋でした。しかし、事実はすっかり忘れられていたようでして、本来は糸島市の日向峠が「日向」だったのに、なぜか九州 宮崎県に取られてしまいました。
四国にあったであろう邪馬台国には、大和朝廷は忌部氏を送り込んで、宮廷で使う麻布を作らせます。四国の山間部の畑では、麻の栽培ができます。これは、邪馬台国のときも栽培されていたでしょう。
(※ 阿波忌部氏は実は神武2年に、橿原宮を建設した後、すぐ「四国にいけ」と命令されていました。かなり早い時期に四国入りしていたのです。)
皇室の先祖は、このようにまだ小国だった伊都国を出て、何百年もかけて、リベンジしたとも言えます。
本は今日の締め切りまでに届いていないので読むことができませんが、なんとYoutubeに井手將雪先生、ご本人が平原遺跡をご紹介してくださる動画がたまたまみつかりましたので、こちらをご紹介します。8年前なので、先生は82歳くらいですが、八咫鏡についてお元気に解説くださいます。
また、日本の太陽信仰の一端を解説してくださいます。
しかも、天皇の故郷といわれた「日向」についても、解説してくださっています。井手先生によると、この糸島市近くにある「日向峠」が、天皇一族が降りてきた「日向」だったのです。
https://www.youtube.com/watch?v=1mwzGC9exj4&t=2s
今では忘れられた天才考古学者、原田大六先生をぜひ、思い出してください。正規教育もなく、学歴もなく、財産もなく、真摯に遺跡と歴史に向かい合った原田大六先生です。今、「僕なんか年収200万円しかない」と嘆いている若い方も多くいると思いますが、先生は失職経験もあり、貧困の中でひたすら考古学研究にいそしまれました。
「異世界に転生したら、私だって主人公になれる」などという、ファンタジーな考えは、今日明日食べるものもろくにない貧困の中で先生の頭の中にはなかったでしょう。
おそらく先生の頭の中にあったのは、少しずつ遺跡の土を掘れば、古代の真実がわかる、古代の王や王妃の生きていた証が、管玉1つでも、鏡のかけらでも出てきたら、証拠になり、古代の人々がよみがえることだったでしょう。
日々、冷たい土を掘り続け、2千年ほど前の、私たち先祖の生きた証をみつけることができるのです。
そして原田先生は、それらの遺跡の発掘結果をちゃんと資料として残してくださいました。私の手元に、この本があるのですが、いい結果が出れば、師匠である中山博士に嬉々として報告されます。また、恩師の中山博士は、天皇陛下の前で着た礼服を着て、そのまま弟子の原田先生のところにやってきて、成果を褒めてくださいます。
とても微笑ましい師弟関係がうかがえます。
また、原田先生は、おかしなことをいう(要は事実ではなく、偏見にまみれた我田引水のほうに研究をもっていくような学者たち。今でもいますが)学者たちを何度も怒って、反論されます。とても、学問に熱い方なのです。
しかも発掘した遺跡が天皇家関係のものでしたら、今と当時とでは皇室に対する情報の取り扱いが各段に違います。時には「不敬罪だ」などと陰口をたたかれたのではないかと思います。その苦労はいかほどかと想像しても、とても筆には起こせないでしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/499062372X/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o03_s00?ie=UTF8&psc=1
ぬくぬくした部屋で、TVもインターネットもあり、スマホ1つでピザも寿司も届く、エアコンで暖かくも涼しくもできて、社会の愚痴をSNSにぶつぶつ書いて時間をつぶしているような、21世紀の私たちとは、あまりにも生活と志が違うのです。
さて、これが平原遺跡、九州北部遺跡と原田大六先生の推論から、私がたどり着いた結論とプレ皇室の物語です。
ぜひ、日の目を見なかった、日本の国のルーツ中のルーツに、触れて、みなさんのご先祖の縄文人や弥生人の歴史や文化を感じてもらえれば幸いです。
また、出版社の皆様には、ぜひ原田大六先生と糸島市、伊都国、皇室のルーツについて、もっと全国民の目に触れるように、取り上げていただければ、とてもうれしく思います。
※ 誤字修正しました。その後の研究で間違っていた部分を修正しました。
AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!