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徳島の神社がやばい! 倭大国魂神社

さて、世の中、特に徳島には「阿波は倭」とか「阿波がはじまり」とかいう考古学マニアがいるのですが、だいたい今まで5件くらい調べてきたのですが、どれもこれも6-7世紀とかで大和朝廷がある程度確立した時期以降でした。

というわけで、「徳島の神社がやばい」っていうので、何個かあげていこうと思います。
いくつか読んでいただければ、フェイクニュース見破りにちょうどいいかなあと思います。

1つめは、倭大国魂神社 です。
柏葉文様がイスラエルのメノーラだと、いちいちうるせー神社です。
植物なんだから、どこの国にでもあるだろ。ないのは、南極とかじゃないの?(苦笑)
メノーラって燭台だから、1つで何個かろうそくとか載せようとしたら、この形にするか、日本の仏教道具みたいに横一線にするしかないんよ。あとは、円形にするとかだけど、形が限られるのです。


いつもはWikiに来歴が載っているので、引用するのですが、あまり内容がなかったので、こちらに現地に行った方のをリンクします。


脇町ロータリークラブさんが用意した説明板があります。上記より引用します。
由緒は不詳だが、平安時代の『延喜式』神名帳の美馬郡条にある[倭大国玉神大国敷神社二座]に比定される古社で、大国魂命・大己貴命を主祭神とする。その御神像は、高さ一尺ほどの剣を杖きて立つ神人の木像で、厨子の背後には、[大島郷倭大国魂神社]の墨書があると言う。小笠原氏が崇敬した神社でもあった。『日本書紀』の第10代崇神天皇紀6年に「天照大神・倭大国魂、二神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、『延喜式』で[倭大国魂]を冠する神社は他になく、[倭大国魂]との強い関係性が窺える。境内には、古墳時代後期(6世紀)の3基からなる大国魂古墳群が築かれ、開口する横穴式石室(全長4.6m、高さ2.2m)をもつ1基が「大国魂古墳」で、段の塚穴型石室の中でも最も古い特徴をもつと考えられている。神社北側の吉水には[吉水遺跡]があり、弥生後期の住居7軒と東西9間・南北3間の掘立柱建物跡等が発掘されている。今後の周辺域の発掘によって、「倭大国魂神社」を成立させた集団の様子が明らかになってくるであろう。

時代が書かれています。
弥生時代後期の住居があるらしいです。これはまあまあ古いですね。

「大国魂古墳群は美馬町の西端部に位置し、倭大国魂神社の境内に築かれた古墳群。3基からなる古墳のうち、このうち開口する1基が大国魂古墳である。

南東に開口する横穴式石室は、全長4.6m、高さ2.2mの大きさ。出土遺物は知られていない。玄室は胴張りの傾向が弱く平面が正方形に近いこと、石室を構築する方法や石材の種類が一定でないことから、段の塚穴型石室の中でももっとも古い特徴を持つと考えられている。」

神社でわりと古いものは、「創建不明」なことが多いので、周辺地域の事情などから、探します。古墳や住居跡があれば、それで探すのです。

こういうのは、お墓の形式や副葬品から判断します。
「横穴式石室」でみてみましょう。

「横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、中国の漢代に発達し、日本では古墳時代後半に盛んに造られるようになった古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓制[1]。中国前漢代の中原で多くつくられ、前漢中期以降、中国全域に普及した塼室墓に起源をもつ。」

日本列島でも横穴式石室や横穴系墓室は、4世紀後半から北部九州で造られ、それが九州全域に拡がり、東の方へ伝わった。

4世紀後半には、北部九州の福岡市に老司古墳と鍬崎古墳で造られている。それぞれの墳丘長は約90メートルと62メートルの前方後円墳である。老司は後円部に3基、前方部に1基を、杉崎は後円部に埋葬施設が確認されている。
5世紀の初頭から前半には、福岡市西区に丸隈山古墳や佐賀県唐津市浜玉町に横田下古墳[5]などが築造され、より整形された割石積みの横穴式石室を持つようになっている。
5世紀中葉から後半には、九州の北部から中部にまでひろがり、福岡県八女郡広川町石人山古墳や熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳などのように地域的な特徴をもった横穴式石室が盛行する。また、北部九州の各地では石棺式石室などが考え出され、福岡県行橋市では竹並横穴群が知られている。さらに宮崎県南部から鹿児島県東部に地下式横穴墓が墳丘の下につくられている。例えば宮崎県東諸県郡国富町の塚原地下式横穴墓A号など。
九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は縦穴系が一般的であるが、画一的なものでなく様々な埋葬法が各地で行われていた。このような中でも極限られて地域では横穴式石室が採用され始めていた。例えば、岡山市千足古墳、大阪府堺市塔塚古墳(方墳)、藤井寺市藤の森古墳、奈良県葛城市平岡西方古墳群所在古墳、和歌山県橋本市陵山古墳、同県和歌山市岩橋千塚古墳群の大谷22号墳、同花山6号墳、奈良県椿井富山古墳(円墳か)、福井県三方上中郡若狭町向山1号墳、三重県志摩市おじょか古墳、愛知県西尾市穴観音古墳などに極限られている。
6世紀になってからは横穴式石室が全国各地にひろがった。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかった。
646年(大化2)薄葬令が公布された。」

「古墳2基は東西に約27メートル離れて並ぶ[2]。いずれも埋葬施設を両袖式の横穴式石室とし、胴張り平面形・ドーム状天井などを特徴とする形態の石室である[1]。同様の形態の石室は美馬市域の古墳で知られており、本古墳群を標式古墳とする「段の塚穴型石室」と捉えられる[1]。特に太鼓塚古墳の場合には、徳島県ひいては四国地方で最大級の石室である点で注目される。両古墳の築造時期は古墳時代後期頃と推定される。


さて、この神社の近くにある古墳ですが、このように古墳時代後期とあります。

一般に人が住んで集落ができ、順番に人は死んで古墳や墓が作られます。
そしてその途中で、神社を建立する人々がいます。

したがって、この神社はどうみても古墳時代後期と同じくらいなら、6世紀です。560-590年とかそれくらいということです。
ちょっと古いですが、九州北部の紀元前200年には、まったく及びません。


ちなみに、6世紀がどういう時代かというと、日本では聖徳太子が生きていた時代です。飛鳥時代ですね。推古女帝とかの時代ですね。
他の有名人は蘇我馬子です。そういえば、明日香村の石舞台古墳は馬子の墓といわれていますが、同じような横穴式石室構造です。むき出しですが。
593年には聖徳太子は、摂政になっています。
604年が憲法十七条の制定です。

もちろん、憲法ですから、文字は書かれています。

いうほど、古くはありませんわー。
またまた、徳島県 阿波のものは、古くないっていう証明をしました。

ちなみに、741年に聖武天皇が全国に「国分寺を作れ」といってます。
四国にも国分寺が作られました。
ええ、だって大和朝廷もう成立してるやん。

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