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唐古・鍵遺跡について

これ前の放送分の再放送らしいのですが、ちょっと面白かったものの、いいかげん奈良県は、邪馬台国から離れろよ!っていいたい。

「また、同時期の墓として北地区の北東はずれから木棺墓、南地区南東部から方形周溝墓が検出されている。木棺墓のうちひとつは保存状態がよく、頭骨を含む人骨が出土した。木棺の炭素年代測定では2100年前との結果が得られて弥生時代であることが確認されたが、一方で人骨を調査した馬場悠男が「とても弥生時代の人骨に見えず、江戸時代のものではないかと思った」と話すほど現代人に近い様相をもち、被葬者は大陸系の人物と考えられている。なお、木棺墓と方形周溝墓の違いが時期によるものなのか、それとも埋葬形態の違いであるかは不明である[3]。」
おおー、2100年前!! 紀元前100年くらいだ。
これはね、ニギハヤヒの一族が畿内に住んでいた時期とかぶると思うな。もしくは、妃の実家であるナガスネヒコの一族が、地場にしていたかもしれない。
(ニギハヤヒは、神武天皇より先に畿内に入っている。)


でもちょっと面白いのが、この唐古・鍵遺跡から、纏向にどうも引っ越した人々がいたってことだ。

「纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市[1]の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡・複合遺跡。国の史跡に指定されている。

2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡である[2]。一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる[3]。邪馬台国の中心地に比定する説があり、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5つの纒向型前方後円墳が分布する。」

「寺沢薫は、「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」の中で、纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている[23]。

3世紀初めに突然現れた集落で、規模も大きい。
搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は大規模で市的機能を持っていた。
生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河等の土木工事が行われている。
導水施設と祭祀施設は王権祭祀。
王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。
居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、および纒向型前方後円墳。
また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られている。

寺沢はこのように述べた後、「このような考古学的・文献学的特徴をトータルに備えた巨大な集落は、三世紀の日本列島には他に存在しない。とすれば、三世紀の纒向遺跡こそが、『ヤマト王権』と呼ばれる列島最初の王権の都宮が置かれた都市であった可能性がきわめて高いといえる」と結論付けている。」

ほらー。神武天皇が畿内に入ったのは、西暦200年前後なんだからさあ、纏向は、神武天皇または息子の天皇 2,3代くらいが、作った町じゃないの???

2代でなくなった邪馬台国と、ずーっと今まで続いている大和王権の町を一緒にするのはやめてもらいたいなあ・・・。
纏向って、100年以上続いてる地域でしょ?

でも、寺沢先生も「卑弥呼 大和王権の王」とかいっていて、もうかんべんしてくれよ。何百年違うの、いい加減理解しろってかんじ。


まだ、欠史八代研究してないから、わからない(苦笑)。資料集めしないとー。

しかし、ニギハヤヒ 150年くらい生きていておかしいぞwww ナガスネヒコもセットだから、こっちも100歳以上でおかしいぞ。
天孫降臨から、神武天皇まで間に3代とかいるんだから、100年は間の時間があるだろうに・・・。神武だって、畿内に到着した時点で中高年なんだぞ。40歳すぎてんだからあ。

また、「古事記」の時間軸、いんちき理解なのだろうか???
ニギハヤヒには、なんとちゃんとまっとうそうな息子も出てくるが、別に大和王権にそんなに取り込まれてはいなかったようだ。殺されもしてないが、地方に移住したみたいだ。
負けたほうの記録はさっぱりだからなあ・・・。


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