見出し画像

プレ皇室研究: また、後付け神社をみつけたよ。阿比良津神社 でも神武天皇の孫をみつけた。

神武天皇には、東征前に糸島にいたときのお妃がいます。
名前を 阿比良比売/吾平津媛 といいます。表記は「古事記」「日本書記」とかでちょっと違いますが、この「あひら」っていうのは、だいたい地名っぽいです。


「阿比良津神社は、もともと多くの民話に出てくる海の女神・乙姫を祀った神社で、猿と雉の二人の仲間と一緒に祀られていることもあります。1868年の明治維新後、アヒラツ姫にちなんで吾平津神社と改名されたこの神社の参道には、今も猿と雉の動物たちの像が鎮座しています。明治天皇(1852~1912年)の政府は、神道を国教として制度化し、在来神話や皇室の起源伝説にまつわる遺跡の崇拝と維持を奨励しました。このような背景から、油津の人々にとっては神武天皇の妻を主祭神とすることに意味がありました。」

おもっきり、名前変えたぜーです。後付けですね。

吾平津神社は明治期までは乙姫大明神といわれた。祭神は、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の妃であったアヒラツヒメ。神武東征には同行されずこの地に残り、ことの成功を祈り成就されたことから乙姫さまは諸祈願成就の神として信仰を集めている。

別名、乙姫神社とも呼ばれる

乙姫って、海神の娘だから、これは豊玉姫または玉依姫(または海の神の後の時代の姫など)と思われる。
玉依姫、豊玉姫はそもそも、対馬出身なので、それを真似して後付けで神社を作ったのだろう。
まあ、吾平津姫からみたら、姑、大姑(笑)。


まあ、これも後付けの南九州なんですけどね。
あ、素敵な銅像が立っているのだ。美的センスあるううーーー。彫刻家、素晴らしい。誰なんだろうか?


面白いことに、ウガヤフキアエズの御陵は、 吾平山上陵 といいまして、「あひら」が同じなんです。

息子は神武天皇で、この后の夫です。お父さんのお葬式のときに、近くで出会ったとか? 

さらに祖父にあたる山幸彦は、高屋山上陵 が御陵です。

日向初代は、ニニギなのですが、御陵は可愛山陵です。
これは原田大六先生、井手先生が、糸島市の遺跡をお墓と比定されています。妻のコノハナサクヤヒメもセットでいます。

「可愛」って山があるのかなあ? 「三雲」っていうのが、後の名前なのかなあ??? 糸島市には、弥生銀座っていわれるほど、周辺にいっぱい弥生遺跡があります。伊都国の地域です。
方形周溝墓だったらしいが、ただの原っぱで平地なんだよなあ・・・。
もうちょっとなんとかしろよ。糸島市。っていうか福岡県め。
昔は、小山くらいだったのかなあ???



宮は、吾田長屋笠狭岬 とありますが、これは嘘で前にいったように、阿多は愛宕 福岡市西区です。その周辺に住んでいたのでしょう。ただ、愛宕は姫の実家で、糸島市のほうはお墓で、細石神社もあります。祭神は、コノハナサクヤヒメです。

「「延喜式諸陵式」に「日向埃山陵。天津彦瓊瓊杵尊在二日向国一、無陵戸」(二、一は返り点)とあるが、この陵は延喜式よりも前に中央の官掌を離れて、その所在を単に「在日向国」、また「無陵戸」と表されていた。しかしその祭祀は重んじられ、神代三陵のために山城国葛野郡田邑陵の南の原に方1町の地を画して遙拝所に当てられたことがある。」

あれ? 名前が違うなあ・・・。日向埃山陵


ちょっと熊本のほうに、吾平山っていうのがあって、地元の人はそこが吾平山陵だと思っています。
糸島から見れば、1泊2日くらいでしたら、徒歩でいけるかなあと思います。まあ、山が2つくらい超えないといけないので、2泊3日になるかもしれません。自動車も馬もないですからね。

「あひら」
「いはら」 なのかな??? ちょっと後ろの音は似てますね。
「ありた」 ってのも近くにあった。
高千穂(たかちほ)も、高祖(たかそ)に変わっていたもんなあ・・・。

井原もまた、原っぱだけで、看板があるだけなんだよなあ・・・。とほほ。
公民館?が隣に建ってます。


近くに古墳があります。ちょっと時代がずれていますが。
(左上の説明が変です。毎度です。Googleはバカだと思います。直しません。)

地元の人のコメントです。
「この古墳は、4世紀末に造られた帆立貝式の前方後円墳の古墳です。墳丘はかなり削平されていますが、全長は60mあったと推定され、斜面には葺石が施されています。前方部の長さ約15m、後円部の直径約49m、高さ約8mです。墳丘上には十一面観音のお堂が建っています。
この古墳の北西約1キロには平原遺跡があり、魏志倭人伝に伝えられる伊都国があり、大和政権と関係をもつ豪族を埋葬した古墳と考えられます。」

あら? 「有田」(ありた)っていうのと、「荒平」(あらひら)っていう人の家がある。
ちょっと怪しいかな。

いい感じに、なんか池があるぞ。池って、笠掛池のときも、池だったなあ。
水汲みとか、田んぼに水を組み入れるのに、近くに住む可能性はあるよね。


あ、有田って、有田彦山神社ってあるぞ。これは怪しい。
彦山って、ニニギか、山幸彦か、誰かの別名だった気がする。


ち、またソーラーパネルかよ。

祭神がちがうなあ。まあ、かんじはよい。

ちょっとまったー!! BINGOだ。
これ、神武天皇とだいたい時代は同じだ。かぶってる。あ、神武天皇の孫じゃん!!
阿蘇の神様だな。でも、最初はこっちに住んでいたんだ!!

神武天皇76年に神武天皇(初代天皇)は孫である健磐龍命に西海鎮撫の命を下し、火の国に封じた。健磐龍命はこの年の2月に山城国宇治の郷から阿蘇に下向した。この途中、宮崎において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが宮崎神宮の創祀とされる[4]。そこから延岡にうつり、そこから五ヶ瀬川をさかのぼり御嶽山の麓(御岳村)にしばらく留まり、成君・逆椿・村雨坂などを回った[19]。そして御岳から馬見原に入り、幣立宮を建てて天つ神・国つ神を祭った[19]。そこから草壁にうつり、阿蘇都姫(前述)をめとり阿蘇都彦と号した。そこから阿蘇にうつった。

当時、阿蘇カルデラの内部の阿蘇谷・南郷谷は湖(「介鳥湖」と呼ばれた)であった。健磐龍命は田を造るために湖水を排水しようとした。

そのときに子が生まれたので、その地は産山という[20]。あるいは、生まれたのは健磐龍命の嫡孫で、命を山にたとえて「山が生まれた地」という意味の命名であるともいう[21]。あるいは、生まれたのは阿蘇大神自身であるともいう。」

神武東征の際に日向の高知尾にとどまって留守をした皇子で、のちに草壁にうつったとされる[1]。「草壁」という地名は、草を(吉見神の)仮御所の屋根・壁としたことに由来するといい、のちに「草部(くさかべ)」となった[1]。この神は、『古事記』によれば健磐龍命の父である神八井耳命の兄で、健磐龍命からみると伯父にあたる(なお、『日本書紀』には記載はない)。すなわち阿蘇都媛命は健磐龍命とはたがいにいとこの関係にあり、いわゆるいとこ婚となる。
高知尾→ 高千穂だろう。高祖地域のことだ。山でもふもとの平地でも住める。

「その他
健磐龍命は「九州の長官」だったという[4]。
神武天皇は神武天皇76年2月1日に健磐龍命を阿蘇に封じたという[2]。
健磐龍命は神武天皇76年2月に大和国から阿蘇に下向したという[2]。
のちの阿蘇神社の大宮司家(健磐龍命の子孫)が宇治氏なのは、健磐龍命の出発地が宇治であることによると伝えられる[2]。」

荒平さんはちょっと違うなあ。


今のところ、一番怪しいのは、井原か、有田だな。

ではまた、探します。ああ、しんど。

名前があてがついていないの、あとはもう、このお妃さまだけなんだよなあ・・・。
絶対福岡県内にあると思うんだけど、熊本なら、ぎりぎりセーフか。

ここ、ここ。
お寺が建ってしまっています。



関係ないけど、荒平神社 鹿児島県が、海の際でかっこよい。
きっと鳥居が海に没するに違いない。


おおー、ほら。かっこええー。
見に行きたいな。年取って、リタイアしたら、行ってみようかな。


いやー、がんばって深堀すると、なんかいいネタになるなあ。
加筆しよう。


AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!