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朝鮮通信使の教科書には書かれない秘密

これはちょっと面白かった。
中学か高校の歴史の教科書に、2,3行書かれているだけじゃないかなと思うが、当時の朝鮮人の反応は、こんなだったのだ。

Wikipediaから引用する。
「文化面では、室町時代には平仮名、片仮名といった固有文字の存在に、江戸時代には京都、大坂、江戸といった都市の絢爛豪華さに驚いた。通信使の目的には日本の国情視察もあり、1428年(応永35年・世宗10年)の正使だった朴端生は、科学技術に関心の高かった世宗から日本の技術の調査を命じられていた。1471年(文明3年・成宗2年)に刊行された申叔舟の『海東諸国紀』によると、調査項目として倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市の状況、通貨政策など国力の観察、水車の技術やそれを用いた効率的な稲作、仏典の扱いなど仏教の状況、旅行する場合の利便性、交通事情をはじめ15項目があったという。『海東諸国紀』には日本の地図も収められており、江戸時代には日本でも同書の写本が流通した[4]。」

ちなみに「朝貢」ではなく、単純に大使たちが情報交換に来ただけっていう話であるので要注意のこと。


こちらの記述を見るとだいたい同じですね。きっとこれを読んだのかもしれないです。ハングル語で書かれていたそうです。それなら現代韓国人も読めますね。

ちょっと長いですが、Wikiより引用します。
なかなか、古代的名句も並んでいますので、教養の高い人ですね。そういう人でさえ、コンプレックスを感じるほどのようです。

「日東壮遊歌からは、当時の朝鮮の知識階級がどのように日本を見ていたかを知ることができる。そこには著者の日本に対する驚嘆、羨望、嫉妬、憤りなどが率直に描かれている。また外国人の目から見た江戸期の日本社会の記録にもなっている。

大坂での記述より

  • (多くの船が)一斉に行き来する様は驚くばかりの壮観である。その昔、楼船で下る王濬益州を称えた詩があるが、ここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう[11]

  • 流れの両側には人家が軒を連ね、漆喰塗りの広い塀にはの背のような大きい家を金や紅でたくみに飾り立てているが、三神山[12] の金闕銀台(きんけつぎんだい:仙人の住処のこと)とは、まことのこの地のことであろう[13]

  • 本願寺に向かう道の両側には人家が塀や軒をつらね、その賑わいのほどは我が国の鍾絽(チョンノ:ソウルの繁華街)の万倍も上である[13]

  • 館所に入る、建物は宏壮雄大、我が国の宮殿よりも大きく高く豪華である[14]

  • 我が国の都城の内は、東から西にいたるまで一里といわれているが、実際には一里に及ばない。富貴な宰相らでも、百間をもつ邸を建てることは御法度。屋根を全て瓦葺にしていることに 感心しているのに、大したものよ倭人らは千間もある邸を建て、中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾り立てている。その奢侈は異常なほどだ[15]

  • 天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである[16]

  • この国では高貴な家の婦女子が厠へ行くときはパジ(ズボン状の下着のこと)を着用していないため、立ったまま排尿するという。お供のものが後ろで、絹の手拭きを持って立ち、寄こせと言われれば渡すとのこと。聞いて驚きあきれた次第[16]

での記述より

  • 沃野千里をなしているが、惜しんであまりあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ[17]

  • 倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、宮殿の草花などを愛でながら、月の半分は斎戒し、あとの半分は酒色に耽るとか[18]

尾張名古屋での記述より

  • その豪華壮麗なこと大坂城と変わりない。夜に入り灯火が暗く、よくは見えぬが、山川迂闊にして人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、沿路随一とも言える。中原にも見当たらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べればさびしい限りである[19]

  • 人々の容姿の優れていることも 沿路随一である。わけても女人が 皆とびぬけて美しい。明星のような瞳、朱砂の唇、白玉の歯、蛾の眉、茅花(つばな)の手、蝉の額、氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある。趙飛燕楊太真が万古より美女と誉れ高いが、この地で見れば色を失うのは必定。越女が天下一というが、それもまこととは思えぬほどである[20]

  • (復路にて)女人の眉目の麗しさ、倭国第一といえる、若い名武軍官らは、道の左右で見物している美人を、一人も見落とすまいと、あっちきょろきょろこっちきょろきょろ、頭を振るのに忙しい、まるで幼児のいやいやを見ているようであった[21]

江戸での記述より

  • 楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様、橋や船にいたるまで、大坂城、西京(京都)より三倍は勝って見える。女人のあでやかなること 鳴護屋に匹敵する[22]

  • (将軍との謁見について)堂々たる千乗国の国使が礼冠礼服に身を整え、頭髪を剃った醜い輩に四拝するとは何たることか[23]

  • (将軍家治について(著者は直接見ていない))細面で顎がとがり、気は確かなようだが、挙動に落ち着きが無く、頭をしきりに動かし、折り本をもてあそび、やたらにきょろきょろとして、泰然としたところがない[24]。」

あはは、素直すぎてちょっと笑いますが、「頭髪剃っててかっこ悪い」はなんとなくわかります。世界3大歴史上珍妙男性髪型wwww (残りは中国の辮髪と、ポーランドの頭のてっぺん剃るやつねwww)

どうでしょうか?
今、日本に来ている外国人の東京、京都、大阪を見た感想とあまり変わらないですよねえwwww

しかし、復路でも「名古屋美人ええのー」といっているので、当時は名古屋が一番美女だそうな。往路より目が肥えていたのに、名古屋一番とはたいしたものであるwww

まあ、要するに5-600年ほど前から、同時代に対してだいたい日本は栄えていたということです。


上記より引用 1733年なので江戸時代


島国なのに、なんとまあ、この時点で都市人口としては、世界2位だったわけですな。

他の時代を見ると、ちょこちょこと京都と大阪がTOP10前後にランクインします。まあ、インドと中国があるので、ランクからすぐ外れるのですが、数十年ほどはランクインし、またしばらくしたらランクインします。

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