プレ皇室研究: 東大寺山丘陵 とニギハヤヒの本拠地探し
奈良県で、面白い古墳があるので、ご紹介。
ここは、文字が書かれた剣が出ているのです。
引用します。
「中平年銘鉄刀
1961年、東大寺山古墳が天理参考館により発掘調査された。前期後葉に築造された全長約140㍍の前方後円墳で、赤土山古墳よりも少し古く、この丘陵上に最初につくられた古墳である。埋葬施設は長大な木棺を大量の粘土で包んだ粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる形式で、この種の施設としてはもっとも古い部類に属する。すでに盗掘を受けていたが、多種多量の石製品、玉類、おびただしい量の武器・武具類など、きわめて豊富な副葬品が出土した。それらの中に「中平」の年号を記した鉄刀が含まれていたのである。
鉄刀は長さ103㌢の内反りの刀身で、柄頭(つかがしら)は日本製のものに取り替えられていたが、正真正銘の中国からの舶載品である。刀背に「中平□(年)、五月丙午」で始まる全部で24文字の銘文が金象嵌(ぞうがん)で刻まれていた。この「中平」は、後漢末、霊帝治世の西暦184年から189年まで用いられた年号である。
『魏志倭人伝』は、倭国が歴年にわたって乱れた末に、女王卑弥呼を共立した、と記す。その乱の時期を『後漢書』倭伝は「桓霊の間」とする。「霊」は霊帝のことであり、中平年間はその治世の最後に該当する。つまり、両書の記述による限り、この刀の製作時期は卑弥呼共立の前後に当たることになる。
紀年銘をもつ鉄刀が中国皇帝からの下賜品である蓋然(がいぜん)性が高いことを考え合わせると、この刀の持つ意味は深長である。金関恕氏は、共立されて間もない卑弥呼が後漢に使いを遣わし、この刀を下賜された可能性を指摘しておられる。またその刀が、どのような経緯をたどって150年ほども後に築造された東大寺山古墳に副葬されたのか、その点もさまざまに想像がかき立てられる。」
ここにあるように、”この「中平」は、後漢末、霊帝治世の西暦184年から189年まで用いられた年号である。”から、いわゆる倭国大乱の時期とだいたい同じです。(卑弥呼は188年)
なので、武器をたくさん持っていても当然なのです。
ついでに、古墳の時代と剣の時代が一致しません。
骨董品としてもらったとしか思えませんが、まあ、後漢時代だから、平原遺跡に近い年代です。やはり、九州北部から、神武天皇と一緒に来た豪族か、王子の誰かの血筋かなと思います。
古墳は後の時代で、和爾氏のものかもしれません。
一応先祖は天皇家なので、それでもらったのかな?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%B0%8F
さて、神武天皇は畿内に到着してどこにいたのでしょうか?
たしかに畝傍山のふもとで、今の橿原神宮に「橿原の宮」を作ったのですが、神宮の下なので、わかりませんwww
絶対についてきていた忌部氏は、忌部山に本拠があります。
そして、そこには高地性集落があります。
「1970年(昭和45)に一部調査が実施され、丘陵の東北斜面(標高約90メートル)において直径5メートルの竪穴(たてあな)住居、幅1.2メートル、深さ1.0メートルをはかる溝状遺構が確認されており、集落を巡る溝の可能性が考えられます。溝内より弥生時代後期前半の土器、石器などが出土しています。西北側には平坦地が広く続くため、おそらく住居跡がまとまった状態で検出されることが予想されます。」
弥生時代後期前半だと、平原遺跡のちょっと手前なんだよなあ・・・。
すると、どうなんだ? って話があって、
(A) 先発隊を出した
(B) 先に縄文人が住んでいて、後から近くに忌部氏が住んだ。
(C) 先行しているニギハヤヒの部下の人たちの村だった。
とまあ、どっちかなのですが、(A)は古事記にはないしー。
(B)の可能性が高い。MIXで住むはずだからだ。特にどんどこ大和王権が支配地域を広げるからなあ。)
(C)も可能性は高い。
近くにこれもあるのだが、標高50mでも、高地性集落なのだそうだ。
「古墳の盛土内より弥生時代中期から後期の土器が出土していることが報告されていましたが、1982年(昭和57年)に橿原市教育委員会の発掘調査において、方形の焼土坑や大溝などが検出されました。弥生時代後期前半の土器、石器などが出土しています。」
とあるので、後期なら神武天皇一行とかが住んでいても不思議はない。
前期だと地元の縄文人、またはニギハヤヒの一派の村民だ。
一応、ニギハヤヒの行動を確認しておこう。
「『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。」
ついでに、随行員がいるんだけど、メンツがニニギとたいして変わらんのですな。人数はもっと多いが。
「降臨に随伴した神
『先代旧事本紀』巻第三天神本紀[3]には、天降ったおりに高皇産霊尊から防衛(ふせぎまもり)として以下の三十二人に命じて随伴させたとある。
天香語山命(あめのかごやまのみこと)、 尾張連(おわりのむらじ)らの祖。
天鈿売命(あめのうずめのみこと)、猿女君(さるめのきみ)らの祖。
天太玉命(あめのふとたまのみこと)、忌部首(いむべのおびと)らの祖。
天児屋命(あめのこやねのみこと)、中臣連(なかとみむらじ)らの祖。
天櫛玉命(あめのくしたまのみこと)、鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。/天神玉命の子で、賀茂建角身命の父
天道根命(あめのみちねのみこと)、川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。/神武天皇と同世代の神
天神玉命(あめのかむたまのみこと)、三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。/神産巣日神の子で、天櫛玉命の父。
天椹野命(あめのくぬのみこと)、中跡直(なかとのあたい)らの祖。/伊勢国造の一族。
天糠戸命(あめのぬかどのみこと)、鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。
天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。
天牟良雲命(あめのむらくものみこと)、度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。/天児屋命の子で、天波与命の父
天背男命(あめのせおのみこと)、山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。/天底立命の子で、天日鷲神の父。
天御陰命(あめのみかげのみこと)、凡河内直(おうしこうちのあたい)らの祖。/天照大神の孫、天津彦根命の子、御上祝(三上直)(みかみのはふり・みかみのあたい)らの祖[4][5][6]
天造日女命(あめのつくりひめのみこと)、阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。
天世乎命(あめのせおのみこと)、久我直(くがのあたい)らの祖。
天斗麻弥命(あめのとまみのみこと)、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。
天背斗女命(あめのせとめのみこと)、尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。
天玉櫛彦命(あめのたまくしひこのみこと)、間人連(はしひとのむらじ)らの祖。
天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)、安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。/櫛明玉命の子
天神魂命(あめのかむたまのみこと)または三統彦命(みむねひこのみこと)、葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。/神産巣日神の子で、天櫛玉命の父
天三降命(あめのみくだりのみこと)、豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。/天活玉命の裔で、宇佐津彦命の父
天日神命(あめのひのかみのみこと)、対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。/高御産巣日神の子。
乳速日命(ちはやひのみこと)、広湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。/中臣氏、添縣主の祖神
八坂彦命(やさかひこのみこと)、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。/長白羽神の子で、一説に八坂刀売神の父
伊佐布魂命(いさふたまのみこと)、倭文連(しどりのむらじ)らの祖。/角凝魂命の子で、天底立命の父
伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)、山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。/思金神の子。
活玉命(いくたまのみこと)、新田部直(にいたべのあたい)の祖。/高御産巣日神の子で、天押立命の父
少彦根命(すくなひこねのみこと)、鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。/天湯河板挙の子で、建日穂命の父
事湯彦命(ことゆつひこのみこと)、取尾連(とりおのむらじ)らの祖。/活津日子根命の子。
八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)、信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。/信乃阿智祝部については阿智神社も参照。
下春命(したはるのみこと)、武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖
月神命(つきのかみのみこと)、壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖
さらに五部(いつとも)が供領(とものみやつこ)として副い従った、とある。
天津麻良(あまつまら) 物部造(もののべのみやつこ)らの祖
天勇蘇(あまつゆそ) 笠縫部(かさぬいべ)らの祖
天津赤占(あまつあかうら) 為奈部(いなべ)らの祖
富富侶(ほほろ) 十市部首(とおちべのおびと)らの祖
天津赤星(あまつあかぼし) 筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖
さらに、警備のため天物部[註 1]の5名の「造」と、25名の兵杖を持った「部」が伴った。
二田造(ふただのみやつこ)
大庭造(おおばのみやつこ)
舎人造(とねりのみやつこ)
勇蘇造(ゆそのみやつこ)
坂戸造(さかとのみやつこ)
二田物部(ふただのもののべ)
当麻物部(たぎまのもののべ)
芹田物部(せりたのもののべ)
鳥見物部(とみのもののべ)
横田物部(よこたのもののべ)
嶋戸物部(しまとのもののべ)
浮田物部(うきたのもののべ)
巷宜物部(そがのもののべ)
足田物部(あしだのもののべ)
須尺物部(すさかのもののべ)
田尻物部(たじりのもののべ)
赤間物部(あかまのもののべ)
久米物部(くめのもののべ)
狭竹物部(さたけのもののべ)
大豆物部(おおまめのもののべ)
肩野物部(かたののもののべ)
羽束物部(はつかしのもののべ)
尋津物部(ひろきつのもののべ)
布都留物部(ふつるのもののべ)
住跡物部(すみとのもののべ)
讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)
相槻物部(あいつきのもののべ)
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)
播麻物部(はりまのもののべ)
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)
これらを、船で運んだとあり、操船した者の名が記されている。
天津羽原(あまつはばら) 船長、跡部首(あとべのおびと)らの祖
天麻良(あまつまら) 梶取、阿刀造(あとのみやつこ)らの祖
天津真浦(あまつまうら) 船子、倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖
天津麻占(あまつまうら) 船子、笠縫らの祖
天津赤麻良(あまつあかまら) 船子、曽曽笠縫(そそのかさぬい)らの祖
天津赤星(あまつあかぼし) 船子、為奈部(いなべ)らの祖」
奥さんは、いわゆるナガスネヒコの妹だ。
お宝も持ってきている。勾玉はない、魔法の玉は持っているが、丸いだけかもしれない。領巾もあるが、布だから残らないだろう。
「『石切劔箭神社』の社史によれば、天照大神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊が船団を組み、自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『天羽々矢』を携え天磐船に乗り込み、物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。途中、豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。宇佐から瀬戸内海を渡ると饒速日尊は河内・大和に、一方の天香具山命は紀伊に向かった。天磐船が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね『生駒山』)に着くと、饒速日尊は辺りを見渡し「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。これが日本の国号の始まりとなった。当時の河内と大和の一帯は鳥見の里と呼ばれ、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊な土地であった。この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術がないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに優れ、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で「長髄の者」と恐れられていた。その頃の鳥見一族の長、長髄彦は饒速日尊の徳の高さに打たれ、尊のもたらした稲作や織物、製鉄の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従った。この時二人の間を取り持ったのが長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)で後に尊との間に宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)をもうけた。
こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの土地に水田を拓き、大きな実りをもらすようになった。これが近畿地方の稲作文化の初めとなった。一方、鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、磐余彦(後の神武天皇)が日向の高千穂から東へ進行を続け(神武東征)、やがて河内に上陸し孔舎衙坂で長髄彦と対峙した。戦いに敗れた磐余彦は紀伊方面に退却、紀伊半島を迂回し再び長髄彦と対峙する。この頃、既に饒速日尊は亡くなり、代わって鳥見の長となっていたのは宇摩志麻遅命だった。宇摩志麻遅命は「天羽々矢」と歩靭(かちゆき)を、日の御子である証として磐余彦に差し出した。すると磐余彦からも同じものが示され天孫であることが明らかになった。宇摩志麻遅命は長髄彦に磐余彦への帰順をさとし自らも一族を率いて磐余彦に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領のすべてと天照大神から授かった『十種の瑞宝』を磐余彦に捧げた。こうして大和の統一が成し遂げられ磐余彦は始馭天下之天皇(神武天皇)に即位した。」
場所が広すぎてわからんとです(苦笑)。
ニギハヤヒの神社は、近畿ではこれであるが、ナガスネヒコはちょっと大阪より、生駒山とかなので、まあ、参考になります。
「近畿
磐船神社 -「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる巨岩を御神体としている。
天照玉命神社(京都府福知山市今安)
石切剣箭神社(大阪府東大阪市東石切町)
藤白神社(和歌山県海南市藤白)
廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町)
矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市矢田町)」
橿原市内じゃないから、忌部山は、ニギハヤヒの忌部氏の先発隊の住居地なのは、あたりかもしれない。
時代は、神武より前だから、まあまあ大丈夫だろう。
(というか、ニギハヤヒ、年取りすぎwww やはり、実際に戦ったりしたのは、息子とナガスネヒコだろう。)