見出し画像

欠史八代研究: 熊本すごい。相良。

弥生時代、古墳時代じゃないけど、これ面白いです。


阿佐古かせいどりうち

阿佐古っていう地名がある。阿多古に似ている。怪しい・・・!!

ここが怪しいのだが・・・。


山鹿郡の中にあった。

明治初年に「相良村」とちゃんとある。
「明治初年時点では全域が肥後熊本藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り。(2町64村)
湯町、宗方村、竹林寺村、中村[1]、長坂村、南島村、志々岐村、小原村、坂田村、西牧村、椿井村、麻生野村、保多田村、鍋田村、上城村、城村、保柳村、小群村、上平山村、下平山村、岩野村、四町村、上芋生村、下芋生村、上小坂村、下小坂村、上津留村、下津留村、下宮村、寺島村、上杉村、下杉村、石村、熊入村、下高橋村、石淵村、庄村、下永野村、上永野村、五郎丸村、上内田村、矢谷村、相良村、椎持村、多久村、山内村、長谷川村、長谷村、太田村、下内田村、津袋村、高橋村、上御宇田村、下御宇田村、蒲生村、霊仙村、久原村、今田村、上吉田村、名塚村、下吉田村、古閑村、白石村、日置村、新町[2]、方保田村」


吾平 は、相良 のことだそうだ。
肥後国志に、なんと吾平山稜(ウガヤフキアエズ 神武天皇の父)の話が書いてある。江戸時代末期ー明治初期 なのだが、吾平山陵のことが出ているのであった。

糸島からはちょっとさすがに遠い。
しかし、お嫁さん探しとするなら、まあ無理ではない範囲だ。鹿児島県よりは、よほど近い。
馬はないから、男性の徒歩で2,3日か? まあ、今でも2泊三日の出張は普通の範囲だから、当時としておかしいことはない。


それに、隼人族の姫なら、遠い親戚なのだ。

「720年の『日本書紀』は、初代神武天皇は、父の天津日高 彦波瀲武 鸕鷀草葺不合尊(アマツヒコ ヒコナギサタケ ウガヤフキアエズ)と母の玉依姫(タマヨリビメ)の第四子であるとし、また、父ウガヤフキアエズは、「崩二西州之宮一、因葬二日向 吾平山上陵一」(一、二は返り点)と、西州之宮で没したため日向国の吾平山上陵に埋葬されたとしている。また、『延喜式』には、「日向国吾平山上陵 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊在二日向国一無二陵戸一」(一、二は返り点)とあり、日向国吾平郷には平安時代には陵戸は無かった。

神日本磐余彥天皇、諱 彥火火出見、彥波瀲武 鸕鷀草葺不合尊 第四子也。母曰 玉依姬、海童之少女也。天皇生 而明達、意礭如也、年十五 立爲太子。長而 娶 日向國 吾田邑 吾平津媛、爲妃、生 手硏耳命。- 日本書紀 神日本磐余彥天皇 神武天皇
久之 彥波瀲武 鸕鷀草葺不合尊、崩 於 西洲之宮、因 葬 日向 吾平山上陵。- 日本書紀 神代下」

日本書記の時代には、「日向国」とは書いていない。あくまで「日向」である。
でも、アヒラツヒメのほうだけ、「日向国」となっている。
ただ、これは思い込みがあるケースがあって、ちょっとやばいのだ。わかりにくい。

西州之宮がどこかわかればいいのだが・・・。州は洲と思うので、海に面しているかなと思う。西側なのだろう。高祖山の西側なら、糸島市内はほとんど全部になってしまう。まあ、もっと海岸よりかもしれない。

肥後国志は、既述をみつけた。5ページくらい使っているが、なんせ、漢文かつ、達筆で読めないwwwwwwwwwww 

AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!