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プレ皇室研究 やばい。香川県が面白すぎる!!

何、これー、弥生時代じゃん!!


ええー、巴銅器が九州のと香川のとが同じだって!!
九州で作られたんだろうなあ!!

さぬき市歴史民俗資料館サイトから引用

「後期に入ると当時の盛行を伺わせるものとして青銅器が多く出土しています。

石田神社境内遺跡からは平形銅剣3口が伝えられ、加藤遺跡からは、銅鐸片7点が出土しています。

森広天神遺跡では巴形銅器8点が出土しています。」

弥生時代後期とあり、後期は1世紀中頃から3世紀の中頃までなので、おおー、ちょうどいいプレ皇室の時代と同じだ。
つまり、ニギハヤヒが引っ越しした時期と、神武天皇が東征した直後くらいまではないか!!


これ、香川の讃岐忌部氏の首長とか豪族関係かもしれない!
ニギハヤヒについていったけど、途中で挫折して定住したのか、あるいは神武天皇の命令で讃岐に定住した讃岐忌部氏じゃないかなあ。
前方後円墳の前身みたいなお墓があったりする。

→ 神武天皇の命令で、讃岐に忌部氏が移住したみたいです。そういう記録があるようです。

「支配者の墓
大規模な墳丘をもつ墓は支配者の墓と推測されますが、竪穴式石室を設けたもの(奥10号墓,奥11号墓)や前方後円墳の墳丘になっているもの(森広遺跡・尾崎西遺跡)、古墳の葺石のように墳丘斜面に石材を使用しているもの(尾崎西遺跡、陵遺跡)などがあり、次の古墳時代の古墳へと発展していく要素をすでに弥生墓のなかに見ることができます。」

そういえば、九州のは方形周溝墓なんだが、円形周溝墓っていうのもあるのだ。円形周溝墓は、前方後円墳に変化したのかもしれない。

讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことがうかがえる。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。

その他現在、香川県内にみられる神社や地名のうち、三豊市高瀬町の麻部(あさべ)神社、観音寺市の粟井(あわい)神社などの神社、高瀬町麻(あさ)、同町佐股(麻またの意味)、仲多度郡まんのう町佐文(さぶみ、麻分の意味)などの地名はその名残である。香川県神社誌(上巻)には、「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」との記録がある。

その後の讃岐忌部氏の足取りは定かではないが、高瀬町誌に「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたがその後高瀬町上麻に転住し現在に至る」との記述がある。」

「手置帆負命は、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた時、彦狭知命(ひこさしりのみこと)と共に天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営した。天児屋命(あめのこやねのみこと)らが祈りを捧げ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞を奏したところ、天照大神は岩屋を出て、この瑞殿に入られた。 後年この間に天降りした大国主命(おおくにぬしのみこと)の笠縫として仕えたとされる。」


現在の家長っていないのかなあ?
いたら、面白いのに。
阿波忌部以外は、忌部氏ってあまりインタビューとかに出てこないんだよなあ・・・。
残念。


ちなみに、この場合、明神大社を確認するのだ。
讃岐国には、3つほどある。上の2つは、そんなに古くない。神武天皇の時代より、だいぶ後ですな。

こっちが本命ですな。忌部氏の神様が祭神だから。

「主祭神
天太玉命 (あめのふとだまのみこと)
配祀
天照皇大神 (あまてらすおおみかみ)
月讀命 (つくよみのみこと)
保食神 (うけもちのかみ)
須佐之男命 (すさのおのみこと) - 須賀神社  本殿に共に祀られている。」

「創建時期は不明。讃岐忌部氏がこの地を開墾したさい、氏神の天太玉命を祭ったのが始まりと伝えられる。「粟井」の由来は阿波国または安房国から来住・勧請したため「アハ居=あわい」とされている。阿波忌部社伝に、天日鷲命三十一代武持の二男久名なるものゝ時当所に奉遷せりと記述がある。[1]また社伝では「白鳳十二年(672)…阿波國板野郡河田村六衛門なる者神托ありて…豊ヶ岡に御造営の上天太玉命、月読命、保食命の三神を勧請せり時に朱鳥元年(686)…是氏神始也。」とある。

続日本紀に「承和9年(842)粟井神名神に預かる」と記され平安期初頭では既に名神に列するほどの名社ゆえに讃岐最古の神社と推測される。三代実録には貞観6年(864)10月15日戊辰条には従五位下を授かったとある。また延喜臨時祭式の名神祭二百八十五座の内に「粟井神社一座讃岐國」とあり粟井神社は当時に讃岐国で唯一名神祭に預かる社であった。かつては刈田大明神と称し、苅田郡(刈田郡、神田郡とも呼称)の由来となったという。日本紀略に延喜6年(906)苅田神が従五位を授けられた旨の記述がある。

かつての鎮座地は、現在の鎮座地より南方約600mの所という。大同2年(807年)に焼失し、寛弘元年(1004年)に杉尾神社(現・粟井神社境内社杉尾神社)の地(現在地)に遷座したという。」

ふんふん。ばっちりそうです。
嘘がまあ入ってない、いい神社そうです。素晴らしい。

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