見出し画像

ミームと行動遺伝学で考える、邪馬台国の謎

4年ほど前から、邪馬台国に興味があり、暇暇に考えてました。
私はたぶん、邪馬台国東遷説なのかなと思っていましたが、ある日、Youtubeで「四国説」を見てから、「あれ? もしかしたら、まじに四国説じゃない?」と思うようになりました。
それで四国説を調べていたら、四国の地元研究家の方が、面白いことを言われていました。それを確認するために、調べていたら、もしかしたら、まじに四国(特に愛媛+徳島)じゃないかなと思い始めました。
まだ、確定してはいませんが、ちょっと研究の途中報告をしてみたいと思います。
(7/11 誤字脱字修正しました。少しだけ加筆しました。)
(2022/11/11 ちょっと修正しました。)

(1) その前に、ミームって何? 行動遺伝学って何?という話

遺伝学で有名なドーキンス先生は、「生物はすべてDNAの乗り物」「同じ種族、民族などは一定の文化を持っていて、ミームと呼ぶことにする」「遺伝子は利己的」ということを提唱されました。DNAが少しでも長く連続していればよく、今生きている私たち個人・個体は二の次という話です。連続するためなら(子孫を作ることで)、利己的な振る舞いをするという話があります。
もう1つ、行動遺伝学というのがあるのですが、DNAによって、どういう行動や性格に出るかを研究する学問です。日本では、双子で研究されていますが、たとえば教育学などに応用されています。こういう性質の遺伝をもった子供が、苦手を克服したり、犯罪に走らないためにどうすればいいかなどの研究です。たとえば、知能、うそつきなどは遺伝します。
ある似通ったDNAの集団(つまり一族郎党、民族など)は、似たような文化を持っていて、行動にも出てくるということになります。この文化的な行動パターンなどをミームと呼びます。
たとえば、中国人は自己中心的でお金にうるさく、宗族主義で、嘘をよくつきます。一方、同じアジア人なのに、日本人は他人に気配りもできるし、お金はあまりもうけ過ぎるとよくないと思っているし、国や村などコミュニティを大切にしますし、誠実・勤勉であまり嘘はつきません。泥棒も圧倒的に少数です。この行動パターンが、ミームに相当します。
特に日本人は、島国ですから、一度日本列島に住んだら、列島内の人々を結婚して子孫を作ります。あまり大陸からの移民は少ないですし、たとえばペルーのようにスペイン人にごっそり滅ぼされたインカ人のようなことはありません。島国ですから、犯罪をしてもあまり遠くに逃げられません。ですので、犯罪は抑止的になるのです。一方、大陸だと地続きですから、すぐ隣の国に逃げられます。ですので、大陸では「逃げれば、泥棒してもOK」と思っている人が生き残って子孫を作ってしまうので、積もり積もると犯罪率が高くなりやすいのです(ある意味、中国人は中国人同士で犯罪をしあっているので、宗族主義になったのかも?)。

日本人は、氷河期に日本列島にやってきました。当時は凍っていて、歩いて渡れたのです。また丸木舟や葦船でも、台湾、沖縄経由であれば、黒潮に乗って九州のどこかにたどり着きやすいのです(高知あたりもたどり着きやすいかもです)。
実際、縄文人が稲作をしており、稲モミを中国南部から、もらって、栽培方法も見様見真似なのか、教えてもらったりして、水田のやり方を会得しています。水田で稲作が上手になると、それまでの狩猟採集中心の生活から、農耕生活に移ります。
(地域によっては、陸稲もありかもです。)
そのうち、また大陸から、今度は少し寒冷適応してきた人々が少しずつやってきて、弥生人になりました。ご承知のように、弥生人は目が細く、一重です。一重の目は、寒冷適応なのです。少しひらぺったい顔です。
一方、縄文人は目が大きく、二重の人が多かったのです。寒冷地適応はしていなくて、今の沖縄の人々のようにはっきりした顔立ちです。

(2) 邪馬台国、卑弥呼の時代っていつなの?

これは中国の書物で交流記録があるので、わかっています。
「女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。」
「正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。」 (※ 生口は奴隷の意味です。)
「なお、266年頃は近畿のヤマト王権では崇神天皇の時代と考えられている。」ということですが、これは姪の壹与の時代で、卑弥呼の時代はもう少し前になります。


(3) 邪馬台国は、まず民族としてどっちなの? 縄文系? 弥生系? また、地域として何を産出していたの?


私は邪馬台国の人々が刺青をたくさんしていることに注目しました。しかし、大和朝廷の上級官吏たちが刺青をしているかというとそんなことはありません。一部の地域や一部の時代では、刺青をしていましたが、奈良時代の皇室の人や貴族が刺青をすることはないのです。
伝統的に日本では、入れ墨をしていたのは、たとえば、犯罪者と江戸時代の鯔背な若者ややくざなどだけです。その例外として、軍人が少しだけ顔に入れている例がありましたが、おそらく軍人なので、ちょっと顔を怖く見せたかったのかもしれません。化粧でもいいと思いますが。

「『古事記』の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた」という話があります(「」内はWikipediaからの引用)。
古墳時代には、たしかに刺青らしい埴輪もありますが、大和朝廷上級層はあまり刺青をしているように思えません。
(後から考えたのですが、刺青でなく、朱の化粧の可能性もあります。祭祀文化らしいので、重要なお祈りのときだけ朱で化粧したのかもです。また、やはりこれも縄文文化の濃い地域では、一部は刺青文化があって、兵士や職人の男性は刺青をしているのかもしれないです。この人のは面白いですね。)

これは奈良県ですが、盾を持っているので兵士でしょう。大久米命と同じことですね。

さて、上で縄文時代から稲作をしていたし、中国大陸と海を越えて行き来していたと書きました。縄文人は、すでに海洋民族だったわけです。
刺青の話に戻りますが、鯨面、刺青は邪馬台国の人はよくしていました。これはアイヌ民族の入れ墨に似ているといわれています。縄文文化の1つなのです。→というか、「海洋民族」の習慣のようです。
Wikipediaには、このように解説されています。
「男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。」

海洋民族(漁師さん、船乗りさんなど)は、刺青をすることが多いです。理由としてはいろいろありますが、海で水難にあって、波で顔がつぶれても体に特定の入れ墨がしてあると身元がわかりやすいです。遺族がどの親族かわかるのです。しかも説明のように地域や階級で何か統一デザインがあれば、他人でもみつけやすいです。また、海には、サメやウミヘビもいますから、それらから逃れるカモフラージュなのか、逆にうろこのように見えて威嚇できるのかわかりませんが、サメ除けになることも言われています。海の民としては、都合がいいのです。

一方、海幸彦の例もありますが、大和朝廷はそれほど海洋技術が得意とは限らないようです。たとえば古墳から、出てくるのは釣り具ではなく、騎馬の道具などです。馬を操っていたことがわかりますし、たとえば「古事記」でスサノオが天照大神の機屋に乱入したときに、血の付いた馬の皮を放り込んでいるので、馬は確実にいたわけです。
次に、邪馬台国で育てているものにこういう記述があります。
「稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。

土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。」
(Wikipediaより引用)

この記述を見ると、寒冷地ではありえません。九州なら温暖ですが、奈良県・畿内は盆地で寒暖の差が激しく、冬裸足で過ごせるほど甘くはないです。零下になることもあります。畿内でも、和歌山や三重ならまだあり得るかもしれませんが、大和朝廷はそこがメインではありません。
そして、邪馬台国は絹を作り出すスキルがあることがわかります。実際、雑錦として献上しています。
一方、大和朝廷は絹を作りだす能力は最初持っていませんでした。あとから得たスキルになります。たとえば、「記紀には仲哀天皇の4年に養蚕の記録がある。」(Wikipediaより引用)とあり、仲哀天皇が実在したとなると、日本武尊の子供ですから、14代天皇で古代でもそう初期ではありません。古墳時代になります。実在していない可能性もあります。
一方、邪馬台国の卑弥呼のほうが古いです。古墳時代よりちょっと前くらいでしょう。同じ時期に、養蚕技術を持っている、持っていないというのは、別の国・別の民族と言えます。ただし、九州には別のオリジナルな養蚕技術があったらしいので、これだけなら九州はまだ邪馬台国候補として想定できます。
まあ、このへんまででも邪馬台国=畿内説はないでしょうねえ。

もともと、学派の争いであって、いいかげん畿内説派は、降りたほうがいいと思います。学閥の争いで時間を無駄にする必要はないのです。
畿内にあったのは、先に入っていた皇室の先祖と出雲王朝の分家か支店みたいなものが有力です。古事記にもそういう記述が多い。
邪馬台国っていうだけで、人気になって、金を呼ぶってことですね(苦笑)。

次に武器ですが、こうあります。「兵器は、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。」
鉄はすでに使えるし、弓は今の和弓と似ていますから、これがルーツかもしれません。あえて長さを変えているのは、なんだか頭がいいと思います。

「盗みは無く、訴訟も少ない。」という特徴も実に日本らしいです。「和の精神」が島国なのであったのでしょうし、嘘や泥棒が嫌いな日本人らしいです。時間もお金も無駄ですからねえ。中国人とは違う(苦笑)。→ある先生が、日本人の先祖は乱暴な中国人にいじめられて、気の優しい人だけ逃げてきたのだと言ってますが、そうかもだなあと思います。泥棒する人は、さっさと刑罰で殺されて、子孫を作れなかったのでしょう。そうしたら、うそつき、泥棒DNAは受け継がれません。治安のいい国造りができます。
実際、邪馬台国ではそうしていたようです。「法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。」とあります。一族もセットのはきついですが、うーん、DNAの秘密を古代人は知っていたのかもしれません。
そしてもう1つの記述がこれです。
「牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。」(Wikipediaより引用)
まあ、虎はともかくとして、牛、馬、羊がいないんです。邪馬台国には!!
あきらかに馬がいた九州説、これで撃沈です。鵲も九州にはいたようです。
しかし、「え? 牛とか馬とか古代の日本にそんなにいないの?」という疑問はありますよね。
「日本在来馬の起源は、古墳時代に軍馬・家畜馬として、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系馬にある」とあります。縄文時代にほいほいといたわけではなさそうです(もっともっと古い時代なら、野生の馬はいたかもしれないのですが、人が飼っていないし、途中で品種的に滅亡したようです)。
「古墳時代」にとあり、邪馬台国の時代は古墳時代のちょーっと前です。だから、邪馬台国に馬はいなかった。それにさきほど縄文人は船のスキルがあると解説しましたが、さすがに、牛や馬を船に乗せるには、1隻の丸木舟では無理です。何艘も並べるような丸木舟か、大型の葦船でないとだめです。考えられるのは、子馬のときに短い距離で船で連れてくるかです。
そして、四国の郷土歴史家いわく、「四国に牛、馬、羊、鵲はいなかった」そうです。
一方、九州には馬と鵲はいました。ですので、邪馬台国九州説もこれで消滅します。愕然ですね!!

もう1つ、邪馬台国で産出する産物を説明します。献上品として、記述に出ていますし、産出する産物としても出ています。

経済学を習った方ならすぐわかりますが、現代の経済では国の富を調べるのに産業連関表というのを作ったりします。どこの国がなにをたくさん輸出している、別のものを輸入している・・・などは大変重要な分析です。
従来、邪馬台国研究は、「距離的にどこどこだとおかしいから、元の説明の数字がまちがっていた」とか「鏡をもらったが、どんな鏡だったのか」などで研究される学者が多いです。
しかし、たとえば、鉄鉱石が産出しなければ、鉄は作れません。作っていた場合は、たとえば古代エジプトのように宇宙から落ちてきた隕石、隕鉄で作ったとか、どこから輸入した・・といった説明が必要ですし、そのうえで「鉄を作れると、武力にプラスだし、農耕にもプラス」と言えます。
ですので、せっかく魏志倭人伝に書いてある生活の様子や貢物(つまり輸出品)の様子で、それが入手しやすいかどうかは地理的条件で絞られてきます。そこから、分析してもいいのです。

「女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。」ということで、おそらく真珠で穴もあけたもの5000個、青大句珠はおそらくヒスイの勾玉(少なくとも磨いて加工されたもの)だと想定されます。雑錦は上で絹が作れるとわかっているので、さまざまな色で織った絹の織物とみなせます。
さらに、「身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。」とあり、丹が産出するのです。しかも大量に!

(1) 白珠、おそらく真珠が5000個も取れる。養殖真珠はありませんから、1つずつ天然真珠を海に潜って取らないといけません。しかも、孔とあるので、小さい真珠に糸を通す穴をあけられるくらい、細かい技術がある。
(2) ヒスイを加工できる技術がある。これは丸くしたり、勾玉に削って磨くのはかなり時間がかかりますので、それをやれる技能があることを意味します。(ヒスイの古代の磨き方を研究している方がいますので、検索してご覧になるといいと思います。)
(3) 異文の雑錦は、絹織物ですから、邪馬台国は養蚕技術があり、しかも織り方にも工夫ができたことを意味します。外国に見せびらかして献納できるほどなので、これはデザインセンスと織り方の技能の両方が必要だということです。いろんな国の織物の古代技術を比較されるとよいと思います。たとえば、古代エジプトでは白い麻布が多いため、壁画に色とりどりの衣装が王様であっても出てくるのは大変まれです。また韓国ではかなり近代まで染色技術がないため、白い服ばかり着ていたと記録にあります(さらになにか法律で庶民は色のついた服は禁止されていたらしいです)。みなさんが100年前の韓国の衣装写真をみると、今のような鮮やかな色のチマチョゴリでなく、白い服ばかりです。
「薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。」ともあるのですが、食用でないことを意味するのでしょう。食用でない場合は、薬品(塗り薬、化学反応用など)か、染色だと思います。天然植物染は、研究されていますし、奈良時代平安時代は大変色がきれいな染色技術ができましたので、その前の状況なのかもしれないです。それであれば、色違いの糸を染めて、錦織にすることができます。

さて、まとめます。
これらの点から、ミームとして見て、次のことがいえると思います。
邪馬台国・・・縄文系。もともと日本にいて、海洋民族のスキルがある。養蚕技術を持っている。馬はいないから、乗れないし、騎馬文化はない。鉄、造酒、和弓の技術はある。

大和朝廷・・・弥生系。途中で日本に入って来た。養蚕技術は持っていない。騎馬技術は持っている。馬に乗る。

いかがでしょう? ぜんぜん違いますよね。
これだけミームが違うのは、別民族、別の国です。まあ、同じアジア人でも、台湾人とモンゴル人くらい違うというイメージです。

そして、畿内説、九州説ともなくなってしまいました!
たぶん、天皇家の先祖と誤認、あるいは九州の土着民族と誤認されていただけだと思います。
別に九州は邪馬台国でなくても、プレ天皇家ファミリーの国だと思えば、そっちのほうが研究が面白いと思います。皇室ができる前の秘密が解き明かされるのですから、そのほうが面白くないですか?

さて、前半はここまでです。

畿内、九州説が撲滅されたので、他の温かい土地をあたらないといけません。ただまあ、岡山説と四国説、あとは山口県あたりの瀬戸内海側は暖かく、物流としては中国・韓国にまだ近いので、可能性はあります。日本海側をあげる人もいますが、とても生野菜を冬に食べて、裸足でいられるとは思えませんので、かなりきついでしょう。出雲に近いので、出雲一族の拡張地域とか、地元の別一族の遺跡なんじゃないかなと思います。九州だって、隼人族、土蜘蛛といわれた、一族がいますから、日本海側の土地にいても当然です。

次回は、さらに丹、真珠、ヒスイの秘密と国の名前の秘密について探っていきたいと思います。
距離測定の秘密については、できれば論文で書きたいので、noteには載せないと思います。

参考
この方の記事がなかなか参考になります。


AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!