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聖書の読み方が違うのがしんどいなあ

やっちまった。

「第2イザヤが」と言われた瞬間にスイッチが入ってしまって。

いや私だって、40章以降を「アモツの子イザヤではない無名の預言者による」とする説は知ってますよ。
なんなら、56章以降を第3イザヤによるとする説も知ってるし。
24-27章も別の預言者だ(第4イザヤ?)
34-35章もまた別の預言者だ(第5イザヤ?)
36-39章はさらに別の預言者だ(第6イザヤ?)
13-23章の大部分も別の預言者だ(第7イザヤ?)
という説があるのも知ってますよ。

それらの説それぞれに、そう主張するだけの根拠もあるでしょうけど。それらの根拠に対する反論にも根拠があることも知ってますけどね。

思わず噛みついてしまったのは、教会学校スタッフの定例会での、今後扱っていく聖書箇所について「第2イザヤに入っていきますが」という発言。

思わず「今回、アモツの子イザヤではない別の預言者による、という読み方をするということでしょうか」
と聞いたら、
「いえ、いわゆる第2イザヤの箇所ということで」
というだけで。

いわゆらなくないですか?と。
「第2イザヤ」「第3イザヤ」「第4…」「第5…」とイザヤ書を分割するのって、「いわゆる」なこと?

いわゆる【所謂】世間で言われている。俗に言う。

広辞苑第六版

世間で言われているというほどかなぁ。
俗に言うというほどかなぁ。
私に言わせれば「そういう読み方をする人もいる」というだけでしかないのだけど、これって福音派出身だからそう思うだけかなぁ。

イザヤって活動期間が長いんですよね。
6章の召命がウジヤ王の死んだ年。ウィキペディア「ウジヤ」によれば没年は紀元前742年頃。
1章によればそれからヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世まで。ウィキペディア「ヒゼキヤ」によれば、ヒゼキヤの在位は紀元前716か715年から、紀元前687年。
イザヤの預言者としての活動が前742~前687年だとすると、55年間になりますか。多少は前後があるとしても、50年以上。20歳で召命があったとして70歳まで。
70歳になって、しかも50年も預言者として用いられてきて、信仰も神学も用語もまったく変化(成長)なかったら、そのほうが創作くさいと思いません?

そもそも新約聖書で、第2イザヤとか第3イザヤとされる箇所から「イザヤが言っている」と引用されているのは、聖書がまちがってるんですか、と。
アモツの子イザヤではない誰かをとおして主が告げたことを、イザヤをとおして告げたことだと改竄している、と。
新約聖書も神の言葉であるとするなら、神が間違っていると?

と書いてて、「やっぱ俺、福音派なのかぁ」と思ってしまう。

でもね。たとえば聖書研究会など参加者の学びの場で「こういう読み方もあります」というなら全然ありだと思うんですよ。
そういう場だったら、なんなら私から「ここはアモツの子イザヤではない、第2イザヤと仮名される預言者によるという説もあって」てやりそうですよ。
でもね。「教会学校でどのように伝えていこうか」という打ち合わせの場で、当たり前のように「第2イザヤの箇所」と言われると、それは「当たり前ではない」て思う。

それでもね。
「第2イザヤとする説にはこういう根拠があって、そういう読み方をすることによる発見もあると思うので、今回はそれベースで40章以下に取り組んでみましょう」
といった提案なら、面白そうな取り組みですね、てなるかもしれない。
でもそうじゃないんですよ。「なぜ、第2イザヤをとおして預言されたという読み方をする必要があるんですか」と聞いても、話が広がらないんです。ただ「第2イザヤによるという説もあり、聖書にはいろいろな読み方があるから」だけなんです。

あるいはこれは、バプテスト連盟がかかげる「全年代層の教会学校」というお題目の弊害かもしれない。「教会学校は子供にだけ必要なのではない」というのはわかるけど、結果的に「大人のための教会学校を子供にも」になっちゃってる面が多々あると感じるんですよ。
大人で、ある程度の信仰暦がある人なら、「第2イザヤによるとされる」についてもそこから議論をとおして学びを深めることもできるかもしれない。でもね。子供たちに、「今日の箇所はイザヤ書なんだけど、これはイザヤじゃない人が書いてて」なんて伝える必要あります?そこから何か深めるってムリゲーじゃないです?「イザヤ書で神様が告げた」でよくない?むしろそっちのほうがいいのでは?なぜ「イザヤ書で第2イザヤが書いている」じゃないとだめ?
「全年代層のため」は大事だけど、全年代層に同じことを伝える必要はないよね?

なんかもう、身バレしたくないと言いながら、バプ連の誰かに読んでほしいと思い始めてる。

べつにね、教会学校として「40章以下は第2イザヤによる」として語りましょうという方針に決まったなら、やれっていうならやれますよ。それくらいのことはできますよ。
でもね、確固とした神学や主張があってじゃなく、ただなんとなく「第2イザヤによるってことになってるので」じゃあ、賛成のしようがないんですよ。

でも、このミーティングの場でも結局「俺だけ熱くなってる」だったんですね。
牧師が「聖書研究としては第2イザヤなどの読み方は取り上げる意味がありますが、教会学校で語ることではないのでは」と入ってくださって、それで終了したのですが。
たぶん、聞いていた他の教会学校奉仕者も、私がなぜそこまで熱くなってかみついてるのかわからなかったんだろうなぁ。

よくないですよね。
私もフラストレーションだし。
私に噛みつかれた人も意味わかんなかったでしょうし。
教会のみんなも「?」だったでしょうし。
誰も得しなくない?
だからって、私の「聖書の受け取り方」としてどうしても納得いかなかったわけで。
今まで、私の視点で「教会やめようかなぁ」と思ってたけど、もしかしたらこの教会にとってもその方がいいのかもって思い始めている。

別にさ、40章以下を「第2イザヤによる」という読み方をしてもしなくても、教会のほとんどの人(子供たちを含めて)にとって、その人とイエス様の関係にはなんの影響もないと思うんだ。聖書をなんだと思うかには影響があるかもしれないし、そこを私は噛みついたつもりだったのだけど。
私自身、山本七平の『禁忌の聖書学』を読んでも、信仰になんの影響もなかったもの。たとえば「マリアの処女懐胎というのはこういう背景があってできてきた教義で」などの説明を読んでも「だから何?」だった。「私がイエスを信じるのは、処女降誕という不思議な誕生譚によるのではないな」ってむしろ再確認できた。「聖書が神の言葉であると私は信じるし、だから聖書に書いてあるようにマリアは処女懐胎したことを信じる。でも私のイエスへの信仰はそこにかかってはいない」て。
たぶん教会のみんなにとっても、40章以下がイザヤによるか、第2イザヤによるかなんて、影響ないんだろうなって。

これは個人的な感想で、なんなら偏見かもだけど、バプテスト連盟って牧師も含めて「預言」の理解がすごく浅い気がするんですよね。
たとえばバプテスト連盟の讃美歌集『新生讃美歌』の中には、「われら主の預言者」なんて歌詞が出てくるんですよ。
私、こんなの歌えないですよ、預言の賜物を受けていない私がこんなの歌ったら、それって「私はニセ預言者です」と言ってるのと同じじゃないですか。そんな歌を主に向かって歌えませんて。
でもバプ連では牧師も信徒もみな平気で歌えるんですよ。主を告げ知らせる者はみな預言者だと思ってるんでしょうね。バプ連のある牧師は「預言とは、現代教会で言えば礼拝説教など」てはっきり言ってたもの。
そういう感覚で聖書の預言とか預言者のことも見てるのでしょう。預言は私にとっては「神の言葉」だけど、バプ連では「人の言葉」だから「39章まではイザヤが書いた。40章からは第2イザヤが書いた」というふうに「誰(どの人間)が書いたか」にとてもこだわるのかなと。
あと、リベラル神学が強いだけあって、人の合理精神で理解したいという思いも強いみたい。預言書というのも主があらかじめ告げたのではなく、できごとがあったあとで預言のように書き記したという読み方をしたがるし。

でも私は「39章までも40章からも主が告げた」ということにこだわっている。「イザヤか第2イザヤか」にこだわっているんじゃなくて、「イザヤか第2イザヤかという議論ではない」ということにこだわってる。だから「いわゆる第2イザヤ」と言われると「第2イザヤにこだわるらないといけないですか?」てなるんです。

結局、私のこだわりだし、今回はそれがもとで、たぶん誰も「彼は何を怒っているのか?」ということがわからないケンカ?になってしまって。
私のためだけじゃなくて、教会のためにも、やっぱりこの教会を去った方がいいかなって。やめる理由を探してるみたいだけど。

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