出産がわからない。

これは私個人の感情の書き殴りであって、誰かに対して論理的主張をするものではなく、したがって論理的破綻がみられることもあるだろうということをご了承いただきたい。けれども、もしこの落書きが、あなたの考えを少しでも見直すきっかけになるとすれば、幸いだ。

出産というものがどうしても理解できない。
出産する人、出産したい人の気持ちが理解できない。

私は絶対に子供を産みたくない。生と死はどちらも無価値、あるいは等価値だ。生は出産によってのみ与えられる。出産は殺人に等しい行為だ。
ともすると殺人よりも恐ろしい行為だ。生は死以上の苦痛であり得るし、そもそも死は苦痛ではなく、生という苦痛を終わらせるプロセスであり得る。私は他者に多大なる苦痛を与えられるほど、肝の座った人間じゃない。

私は絶対に子供を産みたくない。私はおそらく虐待、あるいはネグレクトに走ってしまうだろう。逆に、「自分は絶対に子供を産んでも虐待もネグレクトもしない」と断言できる人の方が恐ろしい。なぜそう言えるのか分からない。子供のみならず、大人の他人に対してだって、誰だって暴力を振るい得るではないか。誰だって何かの拍子で簡単に我を忘れて暴走してしまえるのだ。それなのに、理屈の分からない小さな弱い子供に対して暴力を振るわない保証が一体どこにある?
Twitterで、「虐待のニュースを見ると他人事とは思えない」と、子持ちの人間が呟いているのを見て、気が狂いそうになった。そう、他人事ではない。他人事ではない。なのに、どうして、この人は、産んでしまった?「虐待に走ってしまう可能性は他人事ではない」と分かっていながら、どうして産んだのか?もしかしたらこの人は、レイプとか、子供を産まなければ経済的支援を断ち切るというような脅しを身内から受けていたとか、そういう特別な事情があった可能性もある。そういう人が、「自分も虐待をしてしまうかもしれない」と恐るのは、至極真っ当な感性で、至極立派な姿勢だと思える。しかし、自分の意思で、産む/産まないを選べる状態にある人が、こんなことを言っているのだとしたら?いや、だとしたら、ではなく、そういう人が現に大量にいるのである。それが本当に理解できない。恐ろしい。「あー自分も虐待してしまうかもしれないな」と思いながら、よく理解しながら、子供を産めるのは、なぜ?なぜ?なぜ?自分の子供に苦痛を与えるという覚悟があるから?だとすれば、ものすごい度胸の持ち主だ。

私は絶対に子供を産みたくない。こんな醜い世界で子供を生きさせるなどという、酷なことをする度胸が私にはない。日々、戦争のニュースが舞い込んでくる。それでもなお、子供を産みたいと思えるほど、私は強い精神を持ってはいない。やはりまたしてもTwitterで、「戦争当事国の母親達は、戦争の恐怖に怯えながら子供を抱えているのか」と、子持ちのアカウントが呟いているのを見た。彼らは口を揃えて言う、「戦争は他人事ではない」と。たくさん見た。私はまたしても恐ろしくなった。なぜそれほどの想像力がありながら、「自分の子供も戦争に巻き込まれるかもしれない、だから産まないでおこう」とは考えないのか?自分の子供が戦争に巻き込まれて悲惨な目に遭うことを覚悟の上で産んだというのか?なんという度胸だろうか。そんな度胸の持ち主が大量にいるのが信じられない。恐ろしい。私ほど臆病な人間はやはり少数派なのだと実感させられる。
あるいは彼らは「自分たちが子供を産めば、子供達が平和を実現してくれるだろう、だから子供達は戦争に巻き込まれない」と考えているのだろうか?私は、たった一世代新しくなっただけで完全な平和が訪れるとは、どうしても思えない。現に、これまで、「完全に平和だった」時代が、果たしていくつあったか?そしてこれまでに一体何世代の人々が犠牲になったか?「子供達を犠牲にしてでも遥か未来の平和を勝ち取るべきだ」と言う人もいるだろう。でも、私は、その「遥か未来の平和」のために積み重なる数えきれないほどの屍の中に、自分の子供を加える勇気はない。

私は絶対に子供を産みたくない。たとえ、私が一切虐待をすることなく、そして子供があらゆる苦しみから免れることができたとしても、「親の死」という苦しみからだけは絶対に逃れることができない。むしろ、親が正しい愛情を与え続ければ続けるほど、親が死んだ時の喪失感はより大きくなる。子供が正常に育てば親の死は乗り越えられるのかもしれない。しかし、その「乗り越え」の前に大きな喪失があることは確かだ。子供は自分の意思で人生を始められるわけではない以上、なんの苦しみも経験するべきではない。私は、子供にそんな大きな喪失を与えられるほどの度胸はない。

恐ろしい。
最も恐ろしいのは、いくら私が出産を拒否したところで、私は出産し得る身体を持ってしまっているというところだ。
幸い、両親や今のパートナーには、子供を産まないという選択を最大限尊重してもらえている。
けれども、悪意を持った人間に襲われて、妊娠させられたら、私の意思などもう関係なくなってしまうのだ。
早く子宮を摘出したい。こんな身体捨ててしまいたい。子宮が恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。

恐ろしい。
私はきっと、友達の出産を、少なくとも心からは祝福できないだろう。それどころか、信頼していた友人が出産したら、もしかしたら、もうその友人のことを信頼できなくなってしまうかもしれない。
そんな自分が醜くて仕方がない。
今は偶然、自分の友人に出産をした者が一人もいないから、平穏に過ごせている。
けれども、あとほんの数年もすれば、友人のうちの誰かは出産するだろう。
そう考えると恐ろしい。否が応でも、私の方が「狂人」なのだと、私が間違っているのだと、実感せざるを得ないからだ。
友人達よ、本当にごめんなさい。私は、あなた方の出産を決して祝福できない。本当に、ごめんなさい。

だから、私は、「出産」が、わからない。

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