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粛々と運針

針が動けば時間は進む

【運針】
裁縫で、針の運び方。 特に、手縫いの基本で、表裏同じ縫い目に縫う手法をいう。

コトバンク

舞台の幕が上がった初日、1時間50分観劇して、正直理解しきれずに頭が混乱してた。
そんな頼りない思考力の中でも一番印象的だったこと、
それは、一度動き出した針は止まらないということだった。チク、タク、と進む時間。
内容が理解しきれなくても時間が刻々と進んでいく不思議な空間だった。
逆に言えば、時間が止まってくれないから、
針は何があっても一定のリズムを刻んでいるから、
理解が追いつかなかったということもできるかもしれない。(自分の理解力のなさの言い訳に聞こえる)

あんなにも淡々とした会話劇は初めてだった。
針は一定のリズムを刻むはずなのに、時間がどんどん迫っていくような緊迫感があった。
少なくとも幕間を挟む余裕などない時間の進み方だった。
まずはあの不思議な空間を言語化しておきたい。

動物の命と人間の命

冒頭のシーン。沙都子と應介の会話が10分ほど。
これがまた初日に聞いた時はさっぱりだった。

ここで少し話が逸れて、この脚本の特徴について。
この舞台は一と紘、沙都子と應介、糸と結のそれぞれのシーンに主に分かれている。
そして一番切替えのスパンが長いのが冒頭。
それぞれのシーンが10分ずつあって全員のシーンが一周するまでに30分もかかる。これは相当挑戦的な脚本だろう。
正直、初めてみる人が深入りして最初の30分を理解することは不可能だ。
しかし、2回目に見ると冒頭のシーンが全て伏線回収される、驚くほどに。
なぜ先に2回見るからこその粛々と運針です、とお知らせしてくれないのかが不思議なくらい、2回目の伏線回収の楽しさが桁違いな脚本だ。

話を戻して、沙都子と應介のシーン。
なんで猫のはなし、、?どうして猫をどうするかでも揉めるシーンがあるんだ?
粛々と運針は命の物語。この命は必ずしも人間の話だけではない。

野良猫の殺処分、老人の尊厳死、妊娠中絶

命には沢山の選択肢があること、知らなかったわけではなくても、一気に多くの選択肢を思い浮かべたことはなかった。
仮に、自分のせいで猫が命を落としてしまった時は物損になる。
それは法律上紛れもない事実だが、人間の命との重さの違いと一途に捉えてはいけない。
一人一人命に対する考え方は持っているから、沙都子と應介それぞれの価値観をここで断言することはできない。
しかし、生まれてこれない子供のことを考えているように見える應介も、いろんな理由をつけて産みたくないという沙都子も、どちらも何かしらに理由をつけて結局は全て自分のためであることはのちにわかる。

寿命が80年の桜の木

舞台演出のモチーフにもなっている"桜(ソメイヨシノ)"

「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!」
梶井基次郎の作品から引用した部分である。

イキイキとしているものの下には死体がある。舞台の中ではこのような意味で使われている。都市伝説などでもよく使われるフレーズである。

一が40歳を過ぎているということから、一と紘のお母さんはおそらく80歳手前だろう。つまりソメイヨシノで言うとそろそろ寿命になる頃だ。
ソメイヨシノはまだ花を咲かせられるのに掃除が大変と言う理由で切られてしまったというエピソードを糸が話すと、結はその理由が理解できずにいる。

糸はまだこの世に存在していない。この無知さが舞台の物語の内容を観客に深く印象付けているのである。

そんな糸が桜が切られた話に対して、
「まだ生きている桜を切ったら桜は痛くないの?」
「一つでも花を咲かせられるなら切らない方がいい、そっちの方が最後まで頑張ったね、ありがとうってなるじゃん!」
と言う。
まだ命が宿っていない糸にとっては、命はできる限りどんな状態でも長く続くに越したことはないと言う考えなのである。

それと対照的なのが結の台詞。
「満開の桜の木、ぜーんぶ切っちゃったの!そういうのもありなのかな〜って。」
このセリフは、2回目に観劇した時に一番ドキッとしたところだった。
1回目の観劇ではこの台詞の深い意味に全く気づいていなかった。
ギリギリ生きているような状態が長く続くくらいなら、無理せずに生きられるところで終わった方がいい、これが糸の考え。

そしてこのように対照的な考えを持っているのは、一と紘も同じなのである。
延命治療をして少しでも長く生きていてほしいと思っている一。
お母さんが終わりにしたい時に終わりにしてほしいと思っている紘。
この対照的な考え方が一と紘の意見がぶつかり合う根源になっている。

人生の果たし方

子供を産みたいか産みたくないかは全て自分の人生の果たし方で変わってくる。
舞台の最後の方で出てくる「人生の果たし方」と言う言葉。
どうしても「命」と言う言葉に捉われがちな舞台だが、これから始まろうとしている命と終わろうとしている命、それに加えてまだまだ続いていく命、つまりまだ色々な道がある人生の歩み方も表現されていると言うことをここで実感する。

人生の果たし方が同じ人はこの世にいない。
一はダメな人間として表現されているが、それも一にとっては自分流の人生の果たし方なのである。

そして舞台中に露骨に出てくる部分が、沙都子と應介の人生の果たし方である。
沙都子は色々な理由をつけて子供を産みたがらない。それは沙都子の思う人生の果たし方の中に子供のいる生活がなかったからだ。
沙都子は自分に役職がつけばそれを完璧にこなそうとする完璧主義なところがある。子供ができたら、きっと完璧なお母さんになるよう努力をしてしまう。その時間が自分の人生プランの一部を犠牲にしてしまうことが嫌なのだ。

一方で應介は、スーパーで働いていて自分に大した役割を感じていない。子供ができることによってお父さんという役割を得られる、自分に自信が持てる。そう思っているからこそ子供が欲しい。

お母さんという役割を得たくない沙都子と、お父さんという役割が欲しい應介。
最終的にお互いがどう考えているかを理解するところで物語は終わる。
次の章の最後にもあるが、ここで実際に子供を産んだのかどうかは考察するポイントではない。

鳴らないはずの振り子時計

これは正直何度見ても正解がわかっていない。

この舞台は、鳴らないはずの振り子時計が鳴って終わる。
冒頭に一の「鳴らないようにしてる」というセリフがある。舞台の中で時計に関わるセリフが一にあるのはこの部分だけ。
そして「泣いてないよ、泣いてないぜ。」の台詞の後に、糸と結が布を振り下ろすときの効果音がなり、振り子時計がなる。
ちなみに布を振り下ろす効果音は勝手に時の流れの糸が結ばれる瞬間ってことにしている、これは舞台初日に直感的に思っただけで深い意味はない。

音が怖いから鳴らないようにしている振り子時計、
古くてならないわけでなく意図的に鳴らないようにしている振り子時計。
母親の命に対して一が泣いてないと言いながら泣くシーンの直後であることから、
一番考えられるのは、一の心情の変化を表す振り子時計なのかもしれない。

考察が難しくて細かいことは語れないが、一は何年経っても変わらない自分を誇りに思っているくらい成長しないキャラクターとして描かれている。
ただそれは裏返せばときの流れが進むのが怖い、いや嫌いということなのかと思った。
確かに振り子時計がなれば時間の進みは聴覚的に実感できる。
時の流れを感じたくない、振り子時計の音が怖いというセリフにはそういう意味が込められているのではないか。

紘の「〜」の台詞からわかるように、一はお母さんの捉え方が子供の時から変わっていない、時が進むことによる変化が嫌いだから。
つまり、最後のシーン、一の中で初めてお母さんを解放してあげた瞬間なのかもしれない。
何を持って解放というかまでは考えていたらキリがなくなってしまう。
この舞台は最後まで全て物語にしておらず、お母さんの命がどうなったのか、子供が生まれたのか、猫が見つかったのか、全て分からずに終わっている。
だからこそ、解放が何を指すのかまでは考察する必要がないしそこを言い切る根拠はどこにもないのだ。

加藤シゲアキ演じる一

最後に物語でなく俳優加藤シゲアキについて。
今回は40歳のだらしない男という役で彼にとって新しいジャンルだった。
一は非常にピュアな主人公である。発言一つ一つに裏がない。
裏がないことを表現するって、一見矛盾しているように聞こえることを演じることはまた彼にとって新しい挑戦だっただろう。
前作モダンボーイズでは、凄まじく成長していく矢萩奏を演じ、今作では成長しない一を演じた。
加藤シゲアキの演技の振り幅がどんどん広がっていくことをこれからも期待したい。

粛々と・・・

この物語に触れて生死について初めてちゃんと考えたなあと思った、
人生を俯瞰なんてしたことない思考が子供な20歳大学生が観劇しても響いてくるこの物語、観る人によっては受け取り方が全く変わってくるんだろうなと
粛々と進んでいくこの舞台は見ていて決して楽しいものではなかったけど結局の間にハマってしまったな、沼にハマってしまったからこそもう忘れてしまいたい、成仏させるためにただアウトプットしたかっただけの3700文字でした、笑

締め方がわからないのでモボの再演を祈って締めたいと思います
モボは成仏できていないのでね、



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