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共テ地理で架空地図は出題可能か

文脈:私は高校3年、来週末には大学入学共通テストを控えています。
※架空地図:実在しない地域の様子を地図に表した創作物。架空とはいえ支離滅裂ではなく、科学的・社会的に矛盾がないものを書くことが昨今の主流となっている。「空想地図」とほぼ同義。

 私はただ何の強い意志がある訳でもなくただただ天邪鬼であることを何となく自分で理解しています。ですから多くの人が必死に勉強しているであろう共通テスト一週間前の夜、noteを書こうという気持ちに残念ながらなってしまう訳です。とはいえ、どこかで「今しかできない」と銘打たれたような「青春」への渇望も強くあるので今しか書けないことを書こうという気にもなってしまう訳です。すなはち、共通テストについて一応当事者である受験生から何か語ろうとしたいのです。

 さて、私が共通テストという新しい傾向のテストの中を解く中で最近心に引っかかった科目は英語リーディングです。というのも、過去問を見ていただければわかると思いますが、英語Rの問題文は(おそらく)ほとんどオリジナルの文章なのです。架空の施設の案内、架空の人物同士のメール、架空のイベントを記した日記…私はあまり詳しくないですが、言語は一定のルールを満たしていればたとえ内容が架空といえどもその文章が書かれた時点で実存する、生きている言葉となると言えそうです。だからこそ入試センターも現実社会で使えるような英語と銘打ってもこうした出題が可能なのでしょう。大学個別の試験では大抵既存の文章が使われているイメージがありますが、来年度以降の学習指導要領新課程における共通テストの現代文でも似たような傾向の問題が出題されるらしいですね。
 一方で、同じことが古典(古文・漢文)で起こったら大炎上するに違いないでしょう(「菅田将暉列伝」とか)。古文や漢文も生きた自然言語であることには変わりありませんが、それを過去のものとして学ぶ以上、現在作られたそれらしいものは無意味ということなのでしょう、当然日本史、世界史において創作史も出てきません。
 数学や物理では当然のようにあり得ない設定も出てきますし、平等の担保も重視されている共通テストの場としてふさわしい、より論理的に、より演繹的に答えを出せるような問題を目指せば目指すほど架空のものに頼るようになるのではないかというのが私の考察です。
 さて、一応の本題に入りますが、地理は(模式図などは一旦隅において考えると)一体どちら側の科目なのでしょうか。地理は論理的な科目ではありそうです。特に自然環境の分野で示されているように、全ての地域の地形や気候を覚えていなくても理詰めで解けるように作られた問題はよくあります。一方で地理は比較的帰納寄りの科目とも言えそうです。地理Bの教科書の中で数式を見ない訳ではありませんが、そうしたたいていの地理的事実は帰納的な観察等の結果によるものと言って良いでしょう。いくら理科に近い社会の科目と言われている地理とはいえ、多くの設問は事実そのものの知識を問われることが多いように感じます。こうなってくるともし架空地図が出題されたときには理詰めで考えたら答えが明らかに出るが、その裏付けとなる事実がない、といった状況が生まれます。しかし、ある意味でこの状況こそ、一方では自然科学の顔をしながらもう一方では人文社会科学の顔をしてきた地理学がもつ宿命を表しているのではないでしょうか。そう考えれば、大学入試(=センター=文科省)が地理の自然科学的側面を重視した時、架空地図はすんなりと地域調査大問くらいに現れてもおかしくないような気がしてなりません。現時点では学術的に一定の性格が担保できる地図を用意するのが難しいことと具体例の顔をしながら存在しないことでなかなか責任が取れなさそうなことなどが問題にはなりますが、地理の方向性が動くよりも前にそれらの課題は飛び越えていそうです。居住地近くに関する設問の場合有利という指摘もありますし、そうした既存課題の解決にはなりそうです。
 ちなみに、模式図よりではありますが、理論重視と言われている(要検証)国際地理オリンピックの過去問においては架空の地域が題材にされています。(下記リンク、Section B)

http://www.geoolympiad.org/fass/geoolympiad/2012/2012WRTQandA.pdf

 果たして地理とは一体何のための科目なのか、架空地図と地理教育の関係性を探ることは少なくともその答えの探求には役立ちそうです。

 何だが論理構造が破綻しているような気もしてきたのでこれくらいにしておきます…もし今年の本番に架空地図が出てきたら驚きで失神不可避ですね。

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