ツミキさんの音楽

大前提

私の記事の形態は、このような、ボカロPさんをはじめとするクリエイターさん、あるいはその方々が作った創作物について紹介し、感想を述べるという物が大多数を占めると思う。『POP』という記事もそれにあたる。

前提として、私はクリエイターではない。確かにこの様にして文を世界中に発信する立場であるのだから、ある意味クリエイターであるのかもしれないが、仮にそうであったとしても、私はひよっこのひよっこであり、到底クリエイター側からクリエイターさん、及び創作物を語れる様な立場にはない。

もちろん、私の様な立場が書くこの様な記事にも、ある程度の意味はある。『POP』の記事で述べた様に、受け手側の率直な意見を伝えることもそうだし、他の人に自分の好きな作品について伝えられる、という面でもそうであると思う。しかしながら、この様な記事を書くことで、ある意味私は「批評家」であることを免れない。この様な匿名の場で批評をすることは、その行為自体が卑怯であるという批判につながりかねないのも、また事実である。

それでもこうして記事を書いているのは、自分にとって伝えたい思いがあるからだし、知って欲しいことがあるからだし、何よりクリエイターさんや、その方々が作るものが大好きだからである。そこで、私は今後書く記事に次の様なルールを課すことに決めた。

・ネガティブなことは極力書かない
本来これは誉められたものではない、というのも、批判なき批評はただの出来レースであるからである。ところが、この記事はもともと自分が好きなものについて語る場であるからして、強い批判はもとより不必要である。よって、余程の必要性が生じない限り、ネガティブな発言はしない様にする。

・クリエイターさんからの反論があった場合、真摯に取り下げる
当たり前のことと言えば当たり前のことである。クリエイターさんは、その創作物に対して特別な想いを持つ。私たち受け手側の気持ちよりも、クリエイターさん側の気持ちの方が大切であるとは、一概には言えない。けれども、その創作物を作った側という、クリエイターさん自身にしかなれない特別な立場からの見方は、やはり尊重しなければならない。
幸にして、このブログは非常に多くの人が閲覧するものではない。現状、私が私の気持ちをただつらつらと書いているだけである。しかしながら、万が一に備えて、上の「ネガティブなことを書かない」ということと併せて、健全な運営を心がけていこうと思う。

それでは、本題に移ろう。

イントロダクション

前回、NOMELON NOLEMONさんのアルバム、『POP』について紹介した。

この記事でも書いたが、NOMELON NOLEMONで曲作りを担当されているツミキさんは、私の大好きなボカロPさんの一人である。折角の縁なので、私が最初に綴る狭義ボカロ関連話は、ツミキさんについてにしようと思った。

さて、ここでなぜ上の様な長い文章を前置きしたのかについて弁明しようと思う。前回の「アルバムらしさ」を中心に据えたアルバム、しかり、ツミキさんは自分の思いを率直に発信されるクリエイターさんの一人だ。クリエイターさんは皆様々な哲学を持って創作をされていることと思うが、殊ツミキさんは、その気持ちが自分にとってストレートに響く方だった。

もちろん、自分が窺い知ることができるのは、Twitterをはじめとして、私たちが知り得ることのできる表層部分だけなのかもしれない。それでも、そういう方の音楽を好きになったからこそ、クリエイターさんに対する思いは、上に書いた様に真摯にぶつけないといけないなと思った。特に今の様な、受け手側の気持ちもストレートにぶつけることができる世の中では。

以上の様な長い前置きの上で、ツミキさんの魅力を、存分に語っていきたい。

音について

まずは音について。

ツミキさんの音は、なんといってもポップである。言語化して説明するのは難しいが、確かに「ポップだ」と思わせる何かがある。それはメロディのキャッチーさかもしれないし、「聴きやすさ」という意味なのかもしれない。ポップ性はNOMELON NOLEMONになってさらに磨きがかかったと言えるが、ボカロの頃からその香りは感じられた。私がツミキさんの曲をいいな、と思ったのは『トオトロジイダウトフル』の「感情倍々ゲーム」のところのメロディであったが、そこにもまた、音楽のポップ性が現れていたのかもしれない。

ポップでありながら、緻密である、というのがツミキさんの音の魅力でもある。純粋に音が詰まっている、という面でもそうだし、息が詰まる様な迫力がある、という意味でもそうかもしれない。俗にSTT(スーパーツミキタイム)と呼ばれるピアノソロにも、その要素がふんだんに使われている。BPMの速い曲の中で、ここまで音が詰まっていると、どれだけの音が入っているのだろう、と感嘆させられる。

ポップでありながら、緻密である、というのは、ツミキさんの曲の中に迫力と、「ツミキさんらしいな」という引っ掛かりをもたらしている。メロディーの細部に現れるその特徴は、私の様な聞き手を「あ、ツミキさんの曲だ」と安心させると同時に、一種の中毒性を持たせる原因にもなっている。先程あげた「感情倍々ゲーム」もそうだが、2021年にリリースされ、爆発的人気を誇った『フォニイ』にはその「引っ掛かり」の要素が余すことなく使われ、まさに中毒性の高い一曲に仕上がっている。

緻密でありながらポップである、というのは、ややもすればしんどくなる様な音の多さを、聴きやすく調整してくれている。中毒性という意味でもそうだが、そのメロディーの流れや、BPMの早さも相まった爽快感は、ノリの良さ、という観点でも曲に魅力を持たせていると言えるだろう。

言葉について

ツミキさんの歌詞は、美しい、と思う。

時に韻文として、時に小説として。先程音の多さをあげたが、ツミキさんの曲は言葉量も凄まじいのだ。非公開曲であるが、アルバム『ZERO to ONE』に収録された『グラウンドゼロ』の歌詞は、小説的な書き方や、その言葉量、そして言葉の使い方に迫力を感じた。

その言葉の使い方は、大正モダン的である。実際『グラウンドゼロ』の「張模手の文學は木端微塵さ」の様な漢字の使い方が、それを想起させるのかもしれない。そしてただかっこいいだけでなく、受け手を唸らせる様な言葉の使い方をしてくるのが、ツミキさんの更なる魅力なのだ。『グラウンドゼロ』繋がりで言うと「いのちは速度を上げていく。」という歌詞がそれにあたる。

訳がわからない様で、スッとストーリーが入ってくる。言葉数が多いのに、説明が冗長ではない。かといって、修飾が過剰なわけでもない。やはり文學的にも完成された歌詞、というのがツミキさんの魅力であるのだ。

ボーカロイドの使い方について

ツミキさんは声の使い方も上手い。

NOMELON NOLEMONを結成して、そのポップ性は変わらなかったものの、みきまりあさんに合った曲を出しているな、と感じた。すなわちそれを裏返すと、ボーカロイドに合った曲を作っている、ということである。

実際そうである。上にあげた様な音や言葉の緻密さは、ボーカロイドでないとできないことであろう。カラオケで歌ってみるなどするとわかるが、その歌は細かいだけでなく、音の高低やリズムなどの面でも、人には非常に歌いづらいのだ。その様なテクニカルな面を克服して、ツミキさんの最強の音楽を実現させたのが、ボーカロイドの強みだといえよう。

ある意味ボーカロイドを楽器として捉えているのかもしれない。声楽的に言えば声も楽器なのだろうから、確かにこの運用方法も頷ける。ピアノソロの様な、細かい音の使い方に、綺麗な歌詞を載せているのが、ツミキさんのボカロ、というものなのだろう。

ボカロ曲の面白さはこう言うところにもあると思う。ボカロを新しい音楽ジャンルとしてみとめるのは、この様な要素が含まれているからである。ポップに見えて、新しい音楽である。これがツミキさんの曲の醍醐味なのだ。

曲紹介

最後にいくつか好きな曲を紹介する。

トオトロジイダウトフル

「感情倍々ゲーム」のメロディーのキャッチーさが最強すぎる。完敗である。私が初めてツミキさんに出会った曲。GUMI版のMVの、「トオトロジイ」説明の部分も好き。何気に音域が広い。

「トオトロジイ」を冠している通り、トートロジーを駆使した言葉遊びが見事である。トートロジーを使ってもなお、くどいと思わせないのはツミキマジックである。

ラスサビのメロディーの変換も見事。なんとも感動させられる。素晴らしい曲。

チエルカ/エソテリカ

ツミキさん×宮下遊さん。宮下遊さんの浮遊感のある声を駆使した曲。ここにもツミキさんの「声の使い方のうまさ」が出ていると思う。中毒性が高い。

というかこれを歌いきれる宮下遊さんもすごい。

フォニイ

やっとツミキさんが有名になった……と思った。ひっかけの強さといい、「可不」と言う題材に沿った歌詞といい、可不の使い方といい。ツミキさんの魅力大爆発である。

Dancing timeが最初謎だったけど、何か踊ってしまうものがある。

言葉の技巧とよりは、歌詞の文学性に重きを置いているのは、そして音の細かさと言うよりは、穏やかなメロでひっかけを増やしたのは花譜さんを意識したのだろうか。やはり色々と考えさせられる一曲である。


また長くなってしまった。やはり好きなものを語ると長くなってしまうのだろうか。まあ多分前置きのせいだろう。

今後もこうやってボカロの話をしていこうと思う。

またね。

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